座間コミニティー

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◆まだ、

2016年01月12日 17時22分18秒 | 聖書
神のために言い分があるからだ。(ヨブ三六・二)
 
自分の徳を吹聴したり、自分の熱心を人に見せかけたりしてはならない。しかし、神が他の人の益のために与えられたものを、常に隠そうとするのは罪である。クリスチャンは谷間の村ではなく、「山の上にある町」でなければならない。ますの下のあかりではなく、燭台の上のあかりであり、すべての人を照らすべきである。退いて隠れることも、時を得ているなら美しい。自己を隠すことはたしかにつつましい。しかし、私たちの内なるキリストを隠すことは、決して正しいことではない。私たちにとって尊い真理を隠しておくことは、他の人に対する罪であり、神を侮辱するものである。
もしあなたが神経質で、内気な性質ならば、極端な遠慮のために教会にとって無益な者となってしまわないよう注意してほしい。あなたを恥じることのなかったお方の御名によって私情を抑え、キリストが語られたことを他の人に語れ。もしあなたが人を驚かせるような雄弁をもっていないなら、静かな細い声を用いよ。もし講壇があなたの場所ではなく、また文書伝道に召されていなくても、なおペテロやヨハネとともに、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう」と言え。もしあなたが山上で説教することができないならば、スカルの井戸のかたわらでサマリヤの女に語れ。宮の中でなければ家の中でイエスを賛美せよ。取引所でなければ野原でもよい。多くの人々の中でなければ、あなたの家族の中だけでもよい。内にある隠れた泉から、妙たる証しの流れをわき出させ、すべての道行く人に飲ませよ。
あなたの賜物を隠してはならない。それを用いよ。そうすればあなたの主に益をもたらすであろう。神のために語ることは、自分にとって快いことであり、信仰者には励ましとなり、罪人には有益であり、また救い主をあがめることになる。口をきこうとしない子は両親にとって心痛の種である。
主よ。あなたのすべての子たちの舌を、自由にしてください。
 
 

今日の聖人の記念日

2016年01月12日 07時17分26秒 | キリスト教

聖マルグリット・ブルジョワ修道女

1620年-1700年

 マルグリットは、フランス、シャンパーニュ地方トロア市の裕福な商人の家に生まれ、信仰深く育てられた。17歳のときに母を亡くしてからは、家事と幼い兄弟たちの世話をする一方、貧しい家庭の子どもたちに勉強を教えたりした。マルグリットは、指導司祭に導かれて1640年に私的誓願を立て、生涯をイエス・キリストにささげる生活を始めた。そして聖母マリアの生活を敬う修道会創立のビジョンを抱いた。家族とも離れて、3人の同志とともに共同生活をし、トロア市の子女の教育活動を始めた。1653年カナダに渡りフランスからの移民の子どもたちだけでなく、先住民族のイロクア人の娘たちも教育した。学校を次々に設立し、旅するマリアの生活に倣い、外部の人と隔たりを置くという囲いをもたない新しいタイプの修道会「コングレガシオン・ド・ノートルダム」のライフスタイルを確立した。1702年にローマから公式に認可された。

 同会は、聖母マリアを、使徒職(福音を宣べ伝えるための仕事)に献身した女性の模範とし、教会と世界の必要にこたえて、教育活動をとおして宣教にあたり、現在に至っている。

 1933年に来日し、福島市、調布市、北九州市などで、幼稚園、小、中、高等学校、短大をとおして教育活動に貢献している。


◆人を生かす知恵

2016年01月12日 07時16分21秒 | 聖書

主が知恵を与え、
御口を通して知識と英知を与えられるからだ。(箴言二6)
 
知恵とは、いったい何でしょうか。それは、人生のむずかしいところを切り抜ける力・新しいものを見つけ、つくり出す力・生活をよりよく改善していく力といえると思います。ですから、そんな知恵が欲しいと、みなが願っています。
しかし知恵というものは、使い方次第で恐ろしい悪知恵ともなります。悪知恵も初めはいいようですが、人を出し抜き、だまし、利用する知恵は、結局、自分を殺すものです。ほんとうの知恵とは、他人を生かし、他人を助け、他人に仕えるような知恵ではないでしょうか。
親が、自分の子どもを育ててみて、はたと困ります。それまで、自分一人のことはどうにかやってきました。しかし、思うように自分の子を生かせないことです。長男にはきびしすぎていじけさせ、次男は放任して甘やかしてしまったことなどでも悩みます。また、サラリーマンとして今まで平の猛烈社員であって自分一人だけがんばればよかった人が、課長・部長になって、部下への接し方に迷います。他人を生かすすべを知りません。
この他人を生かす知恵こそ、実は、神が下さる知恵です。
「主が知恵を与えられる」と記されています。
神は、そのひとり子イエス・キリストを私たちに与えて、罪と死の中にある私たち人間を生かしてくださいました。これこそ愛です。この神の愛が生かすのです。ですから、私たちは神の愛を体験することによって、初めて他人を生かす知恵を手にすることができます。神が、人生のほんとうの知恵をあなたに与えられるのです。
 
 

◆あなたがたはキリストのものであり……。

2016年01月12日 07時15分26秒 | 聖書
(Ⅰコリント三・二三)
 
あなたは、父である神によって御子に与えられたのだから、キリストのものである。キリストが血をもって贖われたから、キリストのものである。自分自身をキリストにゆだねたのだから、キリストのものである。またキリストの名を受けた兄弟であり、キリストとの共同相続人であるから、キリストのものである。
あなたは、イエスのしもべであり、友であり、花嫁であることを、行動で世に示さなければならない。罪の誘惑を受けた時、「私にはこの大きな悪事はできない。私はキリストのものだから」と答えよ。永遠の原則は、キリストの友が罪を犯すことを禁じている。富があなたの前にあって、罪を犯せばそれを得ることができる時、「私はキリストのものだ」と言って、それに触れるな。あなたは困難と危険に直面しているか。キリストのものであることを心に留め、悩みの中にあって断固として立て。あなたはぼんやりと日を過ごす怠け者の中にいるか。全力をふりしぼって働け。汗が顔に流れ、怠けたくなる時、「いや、私はキリストのものであるから怠けることはできない。もしも主の血によって贖われていなかったら、二つの鞍袋の間に伏しているイッサカルのようであったかもしれないが、私はキリストのものであり、怠けることはできない」と言え。快楽の歌があなたを正しい道からはずさせようとする時、「私はキリストのものだから、おまえの歌声には惑わされない」と言え。神があなたを召される時、自分自身を神にささげ、貧しい者が求める時、財産と自分自身とを与えよ。あなたはキリストのものであるから、自分の責任に不忠実であってはならない。常にクリスチャンらしくふるまい、キリストのように話し、行いは天の香りを放ち、あなたを見る人すべてが、あなたが救い主のものであると認め、あなたの中に救い主の愛と聖潔を見ることができるように。
「私はローマ人だ」と言うことが、気骨を誇る古代の勇士を表すものなら、「私はキリストのものである」ということばは、はるかにまさる聖潔を示す強い根拠でなければならない。
 
 

第2歴代誌14章1-8節

2016年01月12日 07時14分07秒 | 聖書


14:2 アサは、彼の神、主がよいと見られること、御目にかなうことを行い、
14:3 異教の祭壇と高き所を取り除き、柱を砕き、アシェラ像を打ちこわした。
14:4 それから、ユダに命じて、彼らの父祖の神、主を求めさせ、その律法と命令を行わせた。



 命の長さは、短い人もいれば、また長い人もいます。

それは王であっても同じです。

ですから、その人生で何をするのかということが、大事なことになります。

 先代の王アビヤが亡くなった後、アサが王位を継ぎました。

自分のなすべき事を知っていた人でした。

 彼は異教の祭壇と柱を砕き、アシュラ像を破壊しました。

また、その偶像礼拝が行われている高い所を取り除きました。

さらに彼は、父祖の神である主を求めるように民に語り、主の律法を学んで、それを守るように教えました。

こうして彼は、「彼の神、主がよいと見られること、御目にかなうことを行った」と、告げられています。

人生で、何も業績を上げられなくても良い。

ただ主の御心を行うことが、一番良いことだと知るのです。


創世記22章6~9節(創世記21章)

2016年01月12日 07時12分11秒 | 聖書


★アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。

■O:今日のコラム
薪木を背負って歩いていくイサクの姿は、イエス様が十字架を背負って歩く姿です。
同時に、十字架を背負って歩んでいくイサクの姿は、キリストの弟子の姿。
キリストの弟子は、自分を捨て、十字架を負い、イエス様についていきます。
そして当然その十字架を全うすることに向かって歩んでいるのです。
十字架は飾りではありません。
  イサクはいけにえに関して疑問を持っていました。そして、自分自身がいけにえとなるということを自分が縛られる時に悟ったはずです。薪木の上に置かれる事は、十字架にはりつけにされるイエス様の姿です。イサクは父の願いを知り、そのために喜んで自らの体を捧げたのです!
  彼は、薪木を背負って山を登れるほどに体力のある若者でした。100歳をとっくに超えたアブラハムから逃れようと思えば逃れる事は可能でした。彼は自分の意思を持って受け入れたのです。
  私たちも自分の肉を捨て、十字架(自分に語られた御言葉)を背負って歩んでいく、キリストの弟子です。私たちも主に従順するがゆえに会う束縛を味わうときが来るかもしれません。従順ゆえにバカにされ、見下され、非難される、不都合を味わう、という事は起こるのです。しかし、自分の意思を持って、従順ゆえに会う苦しみを受け入れ、自分の体を生きた備え物として捧げてこそ、主の栄光を現す事になるのです。
  本当に肉体のいのちを捧げる事もありえますが、私たちは、小さな領域で、古い自分の死を味わい、御言葉が成就し、神の栄光が現される事を毎日経験していけるのです。
だから、ルカの福音書では、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、私についてきなさい、と命じられているのです。
  イサクはなぜ、そんな事ができたのでしょうか?それはイサクが父に溺愛される者であったからです。父の愛を十分に受けてこそ、弟子としての歩みは喜びを持って全うされるのです。完全な愛は恐れを締め出します!


■A:考えてみよう
今日も父の愛を受ける時間を持ちましょう!そして、弟子として歩みましょう!何も恐れず、力強く愛に生きていきましょう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月11日(月)のつぶやき

2016年01月12日 01時46分41秒 | キリスト教