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◆むなしいものを見ないように私の目をそらせ、

2016年01月20日 17時16分15秒 | 聖書
あなたの道に私を奮い立たせてください。(詩篇一一九・三七英訳)
 
むなしいものにもいろいろある。道化者の帽子や鈴、世の歓楽、ダンス、放蕩者の杯と。こうしたものがむなしいことはだれもが知っている。この表看板にも中味にも偽りはない。しかし、これよりもはるかにむなしいものは、この世の心労と富の幻惑である。むなしいものは劇場にも取引所にもある。富を集めることにのみ専念する人は、むなしい見えに生涯を費やしている。私たちがキリストに従い、私たちの神を人生の大目的とするのでなければ、実質においては最も無益な者となんら異なるところがない。冒頭の聖句の前段の祈りがこの上なく必要であることは明らかである。
「あなたの道に私を奮い立たせてください。」詩篇の作者は、自分がのろまで、かろうじて生きているだけだと告白する。愛する友よ。あなたもおそらく同様に感じるだろう。私たちはこの上なくのろまであり、主を離れては最上の動機も私たちを奮起させない。なんとしたことだ! 地獄のことを聞いても、私は奮い立たないのか。罪人が滅んでいくのを考えながら、目覚めないのか。天国について聞いても、奮起しないのか。義人を待ち受ける報いについて考えても、なお冷淡でいられるのか。死は私を奮起させないのか。死について考え、私の神の前に立つことを考えても、なお主の御用を怠っていられるのか。キリストの愛が私を取り囲んでいないのか。主の慕わしい御傷に思いを巡らし、十字架のもとに座しても、なお熱心も情熱も燃え上がらないのか。たしかに、考え込んでいるばかりでは奮い立つことはできない。しかし神ご自身が奮い立たせてくださる。それで「私を奮い立たせてください」との叫びが起こる。
詩篇の作者はたましいを注ぎ出して、この熱烈な嘆願をした。祈りにおいて、からだもたましいも一体となっている。「私の目をそらせてください」と肉体は言い、「私を奮い立たせてください」とたましいは叫ぶ。この祈りは、日ごとになすのにふさわしい。
おお、主よ。今夜、私のこの祈りを聞いてください。
 
 

「信仰は聞くことから始まり、

2016年01月20日 17時15分26秒 | 聖書

聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)

信仰ゆえに親族の迫害に会い、教会へ行けず、隠れて連絡を取り、励まされて、一人で信仰を守っている人がいた。
目の前の状況は、悲惨だ。
周囲からの深く傷つく言動、態度、状況を見ると、失望落胆ばかりだ。
意気消沈しがっかりし落ち込んで行く。
これから先を思うと、不安と思い煩いにどっと襲われ、深い渕に落ち込むようだ。
しかし、そんな時に、御言葉に向かうと、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」
「わたしは、世の終わりまでいつもあなたと共にいる」
まさに生きた言葉となって心に響き、共鳴し、感謝が湧き、力が与えられ新たにされる。
神の言葉は霊であり、いのちが宿っている。
心引き上げられ、状況は何も変わらず、同じ環境であるに関わらず、心に平安が臨む。
感謝が湧き、先にも希望が持てる。
苦しい状況の中であっても、前進して行ける。
神の奇跡だ。御心なら苦しい状況を変えて下さる。
しかし、しばしば経験するのは、状況でなく、私たちを変えられる事だ。
揺るぐことのない深い平安を下さるので、状況が関係無くなってしまう。
心が変えられるので、その環境の中で生きて行ける。
リストラ、仕事、経済的苦境、病、対人関係での悩み、様々な人々が経験して来たところだ。
あなたも今苦難の中だろうか。
状況からも、自分からも目を離し、神に向き、御言葉で心を一杯にしよう。
御言葉から信仰が与えられる。
信仰は、みことばから来るのだから。
「わたしがあなたがたに話したことば、霊であり、またいのちです」。
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主が一言、語って下されば生きて行ける。
主の下さる一言で、心の悶々に解決が来たり、一言葉により、信仰が生まれ先の不安が消滅する。
主の口から出る一言は、心の大嵐を完全になぎにし静める。
今、御言葉を求めよう。


今日の聖人の記念日

2016年01月20日 09時03分51秒 | キリスト教

聖セバスチアノ殉教者

3世紀末

 セバスチアノは、フランスのナルボンの貴族の家に生まれた。若いころにキリスト信徒となったが、その時代はローマ皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害が最も激しいときであった。そのため、彼は自ら信徒であることを隠し、ローマの軍隊に入った。皇帝の目にとまり、近衛兵となり将来も有望視されていたが、野心は抱かず、皇帝への忠誠と神のために働くことだけに力を注いだ。

 キリスト教徒への迫害が激しくなってくると、セバスチアノは信者仲間を励ますために訪問したり、援助を行った。しかし、ついにある者の密告によってセバスチアノがキリスト信者であることを知った皇帝は激怒し、弓で彼を射殺すよう命じた。セバスチアノはかろうじて一命を取りとめ、皇帝のキリスト教徒に対する残虐な迫害を公然と非難し、再び死刑に処せられ、殉教した。遺体が発見されると、アッピア街道そばに葬られ、のちに聖セバスチアノ教会が建てられた。



 彼は、中世には矢をあびる青年として美術などに描かれ、兵士・弓術家の保護者とされている。

聖ファビアノ教皇殉教者

?-250年(在位236年1月-250年1月20日)

 聖ファビアノ教皇殉教者は、第20代ローマ教皇である。歴史家エウセビウスは『教会史』(29巻)のなかで、ファビアノが教皇に選ばれた次第について、次のように書いている。236年、教皇アンテルスが亡くなり、教皇選挙が始まった。ちょうどそのころ、ファビアノは何人かの同行者とともに出身の村からローマにやってきた。会議では何人かの教皇候補者の名前が挙がっていた。しかし、ローマの人々がファビアノの頭上に鳩が飛んできたのを見たとき、枢機卿たちはイエスの洗礼のとき、神の霊が鳩のように降ってきたことを思い出した。彼らは喜びに満たされ、「これは聖霊の働きに違いない」と、満場一致でファビアノを教皇に選んだ。

 ファビアノの在位中、最初の14年間は迫害の時代であった。エウセビウスは、『教会史』(Ⅵ、43)の中で「教皇ファビアノはローマの町を7つの地域に分け、助祭が司牧し、その助祭のもとに7人の副助祭がいるように定めた。また当時の殉教者たちがかけられた裁判の記録に努めた」と書いている。ファビアノは、235年サルディニアで死去した教皇ポンティアヌス(生没年不明、在位230-235年)の遺骸をローマに運び、サンカリストゥスのカタコンベ(地下墓地)に埋葬した。また245年、7人の司教を叙階し、ガリア地方(現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部)へ宣教師として派遣した。

 マルクス・ユリウス・ピリップス (Marcus Julius Phillippus、204年ごろ-249年、在職244年-249年) が皇帝となると、キリスト教徒に対して、比較的寛容な政策をとり、迫害は一時的に収まった。このころ、ファビアノはローマを7つの地域に分割し、助祭がそれぞれを司牧し、彼のもとに7人の副助祭を任命し、彼らは特に貧しい人々への奉仕に従事した。教皇はデキウス帝の迫害時、250年1月20日に殉教したと言われている。

 彼についての詳細な記録はあまり残っていないが、古代教会の歴史の中で、彼が果たした役割はとても大きい。カルタゴの司教キプリアヌスはファビアノを高く評価している。


◆平 安 の 秘 訣

2016年01月20日 09時03分02秒 | 聖書

わが子よ。私のおしえを忘れるな。
私の命令を心に留めよ。
そうすれば、あなたに長い日と、
いのちの年と平安が増し加えられる。(箴言三1―2)
 
ある哲学者は言いました。「現代人は、ただ一つのことを除いて何でもできるようになった。その一つとは、魂の平安を得ることである。」
現代人は四つの不安を持っています。
・ 今にも死ぬのではないか、死んだらどうなるかという死の不安。
・ いつか失敗して生活に困るのではないかという将来の生活の不安。
・ 一番近くて親しくあるべき人とうまくやっていけない人間関係の不安――愛されない・愛せないことの不安。
・ 悪や罪があばかれて、はずかしめや罰を受けたりするのではないかという罪悪の恐れと不安。
心にほんとうの平安があり、しかもそれが増し加わっていくのは、この上なく望ましいことです。それは、神を知り、神を恐れ、神の命令を守り、神と近い生活をする人に与えられます。ダビデの詩篇一〇三篇には、神に従って歩む生活の中にある、こんなにいくつもの平安の姿が描かれています。
・ 咎がゆるされる。
・ 病がいやされる。
・ 神の恵みと愛に満たされる。
・ すべての良いもので満たされる。
・ 若さは鷲のように新しくなる。
ほんとうに心に神を迎えていく時に、四つの不安が取り除かれるばかりでなく、神の平安が増し加わってくるのです。
そのような平安を受ける者になりたいと思います。
 
 

◆アベルは羊を飼う者となり……。

2016年01月20日 09時02分12秒 | 聖書
(創世四・二)
 
アベルは、羊飼いとしての仕事を神の栄光のためにきよめ、祭壇に血のささげものをし、主は、彼とその供え物とを顧みられた。この昔の主イエスの型は非常にはっきりしている。それは、夜明けの光が東の空を赤く染め、万物をはっきりとは現さないが、太陽が出ようとしている事実を明らかに示すようなものである。羊飼いであり、祭司でもあるアベルが、神に良いささげ物をしているのは、私たちの主が、父なる神の喜ばれるささげ物を御前に携えられるのを思わせる。アベルは正当な理由もなく兄弟に憎まれたが、私たちの救い主も同様であられた。生まれつきの肉の人は、神に受け入れられ恵みに満たされた人を憎み、その血が流されるまでは安んじることができなかったのである。アベルは殺され、自分の血を祭壇とささげ物に注いで、主イエスが神の前に祭司として仕えておられる間に人々の憎しみのために殺されることを示した。
「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」イエスが人々の憎しみによって殺され、その血をもって祭壇を染められたことを思うと、私たちは泣き叫ばずにはいられない。アベルの血は叫んでいる。主はカインに仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」イエスの血は力強く語っている。そしてその叫びは、復讐ではなく、あわれみである。
私たちの良い羊飼いの祭壇の前に立つことは、何ものにもまさって尊いことである。祭壇の前で私たちは、虐殺された祭司であられるお方が血を流しておられるのを見る。そして、その血が羊の群れに、私たちの良心に、ユダヤ人と異邦人との間に、人類と人類が背を向けた創造者との間に、また永遠の未来に向かって血の洗いを受けた人々に、平和を語っているのを聞く。時の順序から言えば、アベルが最初の羊飼いであるが、私たちの心はイエスを尊厳の順序から第一にあげる。
偉大なる羊飼いよ。あなたの牧場の民である私たちは、あなたが私たちのために死なれたのを見る時、心からあなたに感謝をささげます。
 
 

第2歴代誌18章4-11節

2016年01月20日 09時00分58秒 | 聖書


18:7 イスラエルの王はヨシャパテに答えた。「いや、ほかにもうひとり、私たちが主のみこころを求めることのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について、決して良いことは預言せず、いつも悪いことばかりを預言するからです。それは、イムラの子ミカヤです。」すると、ヨシャパテは言った。「王よ。そういうふうには言わないでください。」



 ヨシャパテは攻略に出ることを求められた時、そのことを了承しました。

しかし、いつもの通り、まず主の御心を求めることを願いました。

そこでそのことをアハブに告げました。

アハブはそれに応じて、自分の所にいる預言者400名を召し集めて、彼らに意向を尋ねました。

彼らは王の求めに答えて、戦いに出るように勧めました。

しかし、ヨシャパテは、すべての人が同じ事を言っているということに満足がいかなかったのか、他の預言者はいないのかと尋ねました。

するとアハブは、不愉快なことを語る預言者のミカヤという人物がいると告げました。

そして、そのミカヤを呼びに行かせました。

その間にも預言者達は、攻略すべき事を王達に進言していました。


創世記37章2節、38章26節

2016年01月20日 08時58分28秒 | 聖書


★ これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。

★ユダはこれを見定めて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子シェラを与えなかったことによるものだ。」それで彼は再び彼女を知ろうとはしなかった。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!1月19日の朝です。今日1日も、主に栄光があるように、天のお父さんの御名に賛美していきましょう。御国を求めていきましょう。天のお父さんの御心がこの地にもあることを祈り求めていきましょう。僕らは、主のモノです。僕らは、主の歴史の中に生きている者だからです。

37章2節を見て、読んで、ハッとしました。「ヤコブの歴史である。」の次の言葉が、ヨセフさんのことです。えぇーっ!でも、これがヤコブさんの歴史なのです。そして、38章には、いきなり、ユダさんの記事です。これも、大切な歴史なのです。ヤコブさんの子のユダさんの子、ペレツさんから、後に、ダビデ王が、そして、イエス様の肉の父なるヨセフが誕生したのです。

ヨセフ君17歳の時、父ヤコブさんの妻ビルハの子ら(ダンさん、ナフタリさん)やジルパの子ら(ガドさん、アシェルさん)と、さらに上の兄の手伝いをしていました。そして、兄たちの悪いうわさを父に告げていました。うわさ話をしているとは、現在の高校生とあまり変わらない若者という印象ですね。ヤコブさんにとっては、この事実はあまり教えたくないことかもしれません。しかし、この一つ一つが歴史を作っていきました。この、身近にいる家族をイライラさせているヨセフさんが、エジプトに売られ、今までと180°違う暮らしの中で、主との関係を正しくし、主から与えられていた使命を果たしていきました。

ユダさんの話も、「何やってるんだよ。」と思わずツッコミたくなるものです。ヨセフさんをイシュマエル人に売り渡すことを提案しました。売り渡した後は、兄弟たちから離れて異邦人と結婚しました。そして、長男と次男たちは主を怒らせました。息子たちの妻タマルさんに対しての対応が遅くなりました。自分の肉によって作ってきた一つ一つを失わないように、でも、自分にとって効率が良いようにやっていました。今の自分にも当てはまるなぁと思いました。

これはヤコブの歴史である。イスラエルの歴史ではなく、ヤコブの歴史です。神様の王子ではなく、出し抜く者の歴史です。しかし、この者の歴史に、主が働かれると、主の祝福で満ち溢れています。主の栄光があらわれます。

主が共におられたヨセフさんは、エジプトを納める者となっていきます。ヨセフさんが、エジプトに売られる時、イシュマエル人は、乳香、もつやくなどを運んでいました。イエス様が誕生された時も、十字架に架かられた後も同じです。イエス様の十字架によって、僕らは、霊的にヤコブからイスラエルへと変えられました。

また、ユダさんは、タマルさんにしたことを悔い改め、タマルさんが正しいと認めました。自分の弱さを認め、自分の義をすてました。そして、新しい道を進み始めました。イエス様は、十字架によって死に、復活の勝利によって新しい道を与えてくださいます。神様の国とその義とを与えてくださいます。

だから、ますます、主を求め、主の御国を求めていきましょう。主の栄光の歴史の中に生きていきましょう。


■A:考えてみよう
主の歴史の中に生きている者として、今日、何ができるでしょうか?

ゼカリヤ書 4:6
すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。

聖霊様を歓迎し、聖霊様にすべてゆだねていきましょう。
主を賛美していきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月19日(火)のつぶやき

2016年01月20日 01時43分47秒 | キリスト教