聖セバスチアノ殉教者
3世紀末
セバスチアノは、フランスのナルボンの貴族の家に生まれた。若いころにキリスト信徒となったが、その時代はローマ皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害が最も激しいときであった。そのため、彼は自ら信徒であることを隠し、ローマの軍隊に入った。皇帝の目にとまり、近衛兵となり将来も有望視されていたが、野心は抱かず、皇帝への忠誠と神のために働くことだけに力を注いだ。
キリスト教徒への迫害が激しくなってくると、セバスチアノは信者仲間を励ますために訪問したり、援助を行った。しかし、ついにある者の密告によってセバスチアノがキリスト信者であることを知った皇帝は激怒し、弓で彼を射殺すよう命じた。セバスチアノはかろうじて一命を取りとめ、皇帝のキリスト教徒に対する残虐な迫害を公然と非難し、再び死刑に処せられ、殉教した。遺体が発見されると、アッピア街道そばに葬られ、のちに聖セバスチアノ教会が建てられた。
彼は、中世には矢をあびる青年として美術などに描かれ、兵士・弓術家の保護者とされている。
聖ファビアノ教皇殉教者
?-250年(在位236年1月-250年1月20日)
聖ファビアノ教皇殉教者は、第20代ローマ教皇である。歴史家エウセビウスは『教会史』(29巻)のなかで、ファビアノが教皇に選ばれた次第について、次のように書いている。236年、教皇アンテルスが亡くなり、教皇選挙が始まった。ちょうどそのころ、ファビアノは何人かの同行者とともに出身の村からローマにやってきた。会議では何人かの教皇候補者の名前が挙がっていた。しかし、ローマの人々がファビアノの頭上に鳩が飛んできたのを見たとき、枢機卿たちはイエスの洗礼のとき、神の霊が鳩のように降ってきたことを思い出した。彼らは喜びに満たされ、「これは聖霊の働きに違いない」と、満場一致でファビアノを教皇に選んだ。
ファビアノの在位中、最初の14年間は迫害の時代であった。エウセビウスは、『教会史』(Ⅵ、43)の中で「教皇ファビアノはローマの町を7つの地域に分け、助祭が司牧し、その助祭のもとに7人の副助祭がいるように定めた。また当時の殉教者たちがかけられた裁判の記録に努めた」と書いている。ファビアノは、235年サルディニアで死去した教皇ポンティアヌス(生没年不明、在位230-235年)の遺骸をローマに運び、サンカリストゥスのカタコンベ(地下墓地)に埋葬した。また245年、7人の司教を叙階し、ガリア地方(現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部)へ宣教師として派遣した。
マルクス・ユリウス・ピリップス (Marcus Julius Phillippus、204年ごろ-249年、在職244年-249年) が皇帝となると、キリスト教徒に対して、比較的寛容な政策をとり、迫害は一時的に収まった。このころ、ファビアノはローマを7つの地域に分割し、助祭がそれぞれを司牧し、彼のもとに7人の副助祭を任命し、彼らは特に貧しい人々への奉仕に従事した。教皇はデキウス帝の迫害時、250年1月20日に殉教したと言われている。
彼についての詳細な記録はあまり残っていないが、古代教会の歴史の中で、彼が果たした役割はとても大きい。カルタゴの司教キプリアヌスはファビアノを高く評価している。