座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆また私は見た。

2016年01月17日 09時04分30秒 | 聖書
見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。(黙示録一四・一)
 
使徒ヨハネは、天国の門の内部をうかがうことを許された。彼は自分の見た光景を述べるにあたって、「見よ。小羊が……」ということばで始めている。このことは天国の情景の中心的対象が「世の罪を取り除く神の小羊」であったことを教えている。使徒ヨハネの注意は、その血をもって私たちを贖ってくださった子なる神の人格に集中していた。小羊こそは栄化された霊ときよい天使たちの賛美の主題である。
主にある友よ。ここにあなたの喜びがある。あなたは小羊を知り、また見た。涙に曇った目で、世の罪を取り除く神の小羊を見た。だから喜べ。やがてあなたの目から涙がぬぐわれる時、同じ小羊が王座に座しておられるのを見るだろう。日ごとにイエスと交わるのはあなたの心の喜びであるが、天においてさらに深くその喜びを味わうだろう。あなたは絶えずイエスの御前にあり、永遠にイエスと共に住むのである。
「私は見た。見よ。小羊が……立っていた。」それもそのはず、小羊は天そのものであられる。ラザフォードが言ったように、天とキリストは同じである。そして、キリストと共にいることは天にいることであり、天にいることはキリストと共にいることである。主のために囚人となった一人の人は、その熱情あふれる手紙の中で、次のような美しいことばを記している。
「私の主キリストよ。もし私があなたなしに天上にあれば、それは地獄です。もし私が地獄にあり、あなたと共にあるならば、そこは私にとって天国です。あなたが、私の求めている天国であられるからです。」
これは真理である。主にある友よ。そうではないだろうか。あなたのたましいはそう言わないのか。
 神がその住居を移されたら
 またその御顔を隠されるなら
 天上のすべてのたてごとも
 そこを天国にすることはできない
あなたを幸福にするために必要なものは「キリストと共にある」ことである。
 
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。