あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、
わたしの叱責を受け入れなかった。
それで、わたしも、
あなたがたが災難に会うときに笑い、
あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。(箴言一25―26)
一昨日、箴言一章二二節では、神はあざけらない嘲笑しないとお話ししましたが、ここでは、神ご自身が、笑うあざけると宣言しておられます。このつきつめたような神のことばから、私は二つのニュアンスを感じとります。
第一、お前が私の言うことを聞かないなら、お父さんはもう知らない、勝手にしなさい。
ある小説の中で、登山中に高山病になって眠りかけている息子を父親が、「ばか野郎! お父さんはもう知らないぞ」と、なぐったり、けったりしているのを読んだことがあります。そのような父現の最大限の強いアッピールのことばと同じ感じで、神は必死に私たちに迫っていてくださいます。
第二、神の切実ないましめにもかかわらず、そのことばを聞こうとしないで、叱責や勧告をないがしろにして、ずるずると永遠の地獄へ、ついに行ってしまった魂。――その時、ばかめが! と、カラカラと響くうつろな神の笑い。
やりきれません。ニヒルなむなしい感じです。パタンと扉が閉められ、もう取り返しがつきません。そんな笑いがあるかどうか分かりませんが、地獄から聞こえてくるような、そういう恐ろしい笑い声を聞くような思いがします。
神が叱責してくださる時に、あなたに声をかけてくださる時に、それに心を留めることほど大切なことはありません。神に叱責していただき、それを受け止めていくことは、祝福に満ちた、神に近い生活なのです。
第一、お前が私の言うことを聞かないなら、お父さんはもう知らない、勝手にしなさい。
ある小説の中で、登山中に高山病になって眠りかけている息子を父親が、「ばか野郎! お父さんはもう知らないぞ」と、なぐったり、けったりしているのを読んだことがあります。そのような父現の最大限の強いアッピールのことばと同じ感じで、神は必死に私たちに迫っていてくださいます。
第二、神の切実ないましめにもかかわらず、そのことばを聞こうとしないで、叱責や勧告をないがしろにして、ずるずると永遠の地獄へ、ついに行ってしまった魂。――その時、ばかめが! と、カラカラと響くうつろな神の笑い。
やりきれません。ニヒルなむなしい感じです。パタンと扉が閉められ、もう取り返しがつきません。そんな笑いがあるかどうか分かりませんが、地獄から聞こえてくるような、そういう恐ろしい笑い声を聞くような思いがします。
神が叱責してくださる時に、あなたに声をかけてくださる時に、それに心を留めることほど大切なことはありません。神に叱責していただき、それを受け止めていくことは、祝福に満ちた、神に近い生活なのです。