静かに広がった小さな傷が、丈夫そうな器を壊してしまうことがあるらしい。見えないひびが走る花瓶を人の心に重ねた詩が、ノーベル文学賞の初代受賞者でもあるフランスの詩人プリュドムの代表作にある▼<人の目にはいつも無疵(むきず)に見えていても/ほそいけど深いその傷はふえてきて/低い声で泣いているのがわかるの/そこに触らないでね、壊れているのよ>(『こわれた花瓶』)。見えない傷がたくさん走っていないか。花瓶に限らず、心するべき時があるだろう▼一昨日の百七人に続いて、昨日の百二十四人。これほど広がっていたのかと、首都で新たに確認された新型コロナウイルス感染の人数に、驚いた方も多いはずだ。街に昔の景色が、かなり戻ってきたように見えていたその背後で、見えないひびが走るように、感染は広がっていたようである▼無症状も多いという若者の割合が高い。想像を超えて感染が広がる一因だろう。夜の繁華街が、感染拡大の場所になっている。業種をしぼった対策の要請などが必要か。経済再開を急ぎすぎてはいけないと求められているようにも思える▼病気というものは、<早く治せんとして、いそげば、かへつて、あやまりて病をます>。江戸期の儒者、貝原益軒の『養生訓』にもそんな言葉がある▼ウイルス禍の社会もそうだろう。傷ついた器を壊さないよう用心する時のようだ。
「ねえ、こんなにたくさん、どうするの?」。冷蔵庫の脇にしまい込まれていた大量の紙袋を見つけた娘が老いた母親に尋ねる。母親が面倒くさそうに答える。「なにかのときにないと、困るからさあ…」。是枝裕和監督の「歩いても歩いても」(二〇〇八年)にそんな場面があった▼決めつける気はないが、母親というものはなんでも大切にとっておきたがる傾向があるのか。紙袋、包装紙、リボン…。もったいないからまだ使えるからとしまい込む▼知り合いが、亡くなった母親の家を片付けていてびっくりするほど大量のレジ袋を発見したそうだ。あきれると同時になんだか申し訳ない気分になったと言っていたが、よく分かる▼スーパーやコンビニなどでレジ袋の有料化が始まった。映画では紙袋だったが、あの母親なら「ほら、とっておいてよかったじゃない」と言うだろう。無料だったレジ袋に数円かかる。むざむざ支払うのはやはりシャクである▼有料化でレジ袋の量を減らし、プラスチックごみによる海洋汚染を防ぐ試みである。レジ袋が消えるわけではなく、汚染防止にどこまで効果があるのか分からぬが、これでプラスチックごみを減らす意識が高まればよい▼もったいないのでマイバッグを使いたい。もったいないのはレジ袋に数円を払うこと。それにかけがえのない海をプラスチックごみで汚すことである。