昨日の朝、寝起きに、前の日の新聞を眺めていたら、
今年が最後になるらしい、
センター試験の国語の問題が掲載されていた。
問題文が、新聞に掲載されることは知ってはいたのだが、
ここしばらくは、文字が小さすぎて読みづらく、
考えることも面倒で、
試験問題などを見てみようという意欲も、失せてしまっていた。
珍しく昨日は、夜、寝る前にまた見よう、
と思ってその新聞を取っておいた。
だが、昨日の夜は、脳も身体も疲労困憊していて、
とても、そんな気持ちにはなれず、
すっかり忘れて、今朝に至った。
ところが、今朝の新聞の天声人語を見ると、偶然にも、
そのセンター試験の国語の問題のことが、
書いてあったのである。
それによると、なんでも昔の現代国語であろう、
高校の現代文は、
それが、論理国語と文学国語という二つに分離され、
選択性になるしい。
そんなことになれば、受験に有利なほうは、
やはり、実利的な論理国語ということになりそうである。
飯の種にはならない小説や詩の世界が、
遠くなってしまう危険性は、否定できないのである。
最近の文科省の考えることは、理解できないものばかりである。
また、そういうこととは全く無縁であろう、
原 民喜さんの「翳」という小説が、
問題文として取り上げられているということも、書いてあった。
それは、センター試験の国語設問の2問目の文章であったので、
まだ、気がついていなかったので、
早速、取っておいた、その新聞を取り出して読んでみると、
なかなかにして、これが、味わい深い文章であったのである。
勿論、試験問題にも挑戦した。
結果は、ここには敢えて書かないことにするが、
すっかり、この「翳」の飾らない、
心にしみ込んでくるような文章が、気に入ってしまい、
原 民喜さんの小説を、注文してしまった次第である。
ところで、こんな文章、だれが書いたの?
私、全然、
書いていないのです。