立明寺地区遺跡/古代官道
大宰府から3km南の地点 立明寺地区遺跡 古代官道を発掘
筑紫野市教委は6日、奈良時代800年頃の大宰府政庁から放射状に延びる道路 「官道」の一部が、立明寺(りょうみょうじ)地区遺跡(筑紫野市立明寺)で新たに発掘されたことを発表した。南北に延びる幅12mの広い道路で、筑後方面に向けた道路が発掘されたのは初めて。両側に側溝(幅約40cm、深さ約50cm)があり、長さ170mを発掘した。奈良時代の官道の幅はおおむね約9mで規模的にも重要な広域交通路と考えられるとする。
今回の遺構は大宰府条坊の南端とされる位置(太宰府市塔原東1丁目)から南に約1kmの地点で、これまで官道があると推定されていなかった場所。
奈良時代の九州の官道は総称して西海道と呼ばれる。西海道は、碁盤目状に街路が整備された大宰府条坊を起点に6方向に伸びた。官道はこれまで、水城(みずき)と鴻臚館を結ぶ西門ルートや博多を結ぶ東門ルート、筑紫野市岡田で見つかった豊後道の一部が明らかになっていた。
本遺跡から東へ約2.5mの岡田地区で見つかった8世紀中頃の道路状遺構は道路幅9mで、太宰府から豊後方面へ通じるルートと考えられている。
大宰府条坊から南下する官道は基肄(きい)城跡(佐賀県基山町)の東側(小郡市)を抜けて築後(久留米市)と肥前(佐賀県)に分かれる。その分岐点までに「城(き)の山道」があったとされる。「城の山道」は万葉集の一首に登場するだけで位置などは、ほとんど不明という。
[参考:西日本新聞、毎日新聞]
太宰帥大伴卿の京に上りし後に、筑後守葛井連大成(ふぢいのむらじおおなり)の悲しびて作る歌一首
今よりは 城(き)の山道は さぶしけむ 吾が通はむと 思いしものを (万葉集 巻4-576)
大宰府から3km南の地点 立明寺地区遺跡 古代官道を発掘
筑紫野市教委は6日、奈良時代800年頃の大宰府政庁から放射状に延びる道路 「官道」の一部が、立明寺(りょうみょうじ)地区遺跡(筑紫野市立明寺)で新たに発掘されたことを発表した。南北に延びる幅12mの広い道路で、筑後方面に向けた道路が発掘されたのは初めて。両側に側溝(幅約40cm、深さ約50cm)があり、長さ170mを発掘した。奈良時代の官道の幅はおおむね約9mで規模的にも重要な広域交通路と考えられるとする。
今回の遺構は大宰府条坊の南端とされる位置(太宰府市塔原東1丁目)から南に約1kmの地点で、これまで官道があると推定されていなかった場所。
奈良時代の九州の官道は総称して西海道と呼ばれる。西海道は、碁盤目状に街路が整備された大宰府条坊を起点に6方向に伸びた。官道はこれまで、水城(みずき)と鴻臚館を結ぶ西門ルートや博多を結ぶ東門ルート、筑紫野市岡田で見つかった豊後道の一部が明らかになっていた。
本遺跡から東へ約2.5mの岡田地区で見つかった8世紀中頃の道路状遺構は道路幅9mで、太宰府から豊後方面へ通じるルートと考えられている。
大宰府条坊から南下する官道は基肄(きい)城跡(佐賀県基山町)の東側(小郡市)を抜けて築後(久留米市)と肥前(佐賀県)に分かれる。その分岐点までに「城(き)の山道」があったとされる。「城の山道」は万葉集の一首に登場するだけで位置などは、ほとんど不明という。
[参考:西日本新聞、毎日新聞]
太宰帥大伴卿の京に上りし後に、筑後守葛井連大成(ふぢいのむらじおおなり)の悲しびて作る歌一首
今よりは 城(き)の山道は さぶしけむ 吾が通はむと 思いしものを (万葉集 巻4-576)
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