写真上は川越市小仙波町の日枝神社、下は千代田区永田町の日枝神社。
河越館跡(川越市上戸)から西に僅か1km足らずのところに、日枝神社(川越市上戸)がある。河越荘の総鎮守である。
同社の縁起には、「当社は元日吉山王権現と称し、遠く貞観年代(860年)の創立なり。陸奥岡の住人休慶と言う修業僧が、京都比叡山麓にある日吉山王を深く信仰し、神告により武蔵の此の地に社を建立せり。…(略)…永暦元年(1160)、後白河法王が京都に新日吉(いまひえ)山王社(注1)を祀ったのにともない、河越氏が河越庄を後白河法皇に寄進、以後後白河法皇の御領地となり、新日吉山王権現と称す。・・・(略)・・・」と記される。
また、川越市内にはもう一つの日枝神社(川越市小仙波町2丁目)がある。当社は星野山無量寿寺喜多院の鎮守として創立された。
境内の説明板には「日枝神社は、俗に日吉(ひえ)といい山王権現とも呼ばれている。…(略)…ここに日枝神社が祀られているのは、喜多院の草創時に比叡山坂本の日枝山王社を勧請したものと言われている。この日枝神社を太田道灌が文明十年(1478)六月、江戸城内紅葉山に分祀したことが、「落穂集」「江戸砂子」などに記されており、のちに麹町永田町に移され、天下祭りで知られる赤坂山王の起源となったことは有名である。本殿(国指定重要文化財建造物)は、朱塗りの三間社流れ造り・銅板葺で、規模は小さく簡素である。この本殿が寛永15年(1638)の大火後の再建なのか、あるいは、それ以前の建築なのかははっきりしないが、建物の一部に古式造りが認められるので、室町時代末期説もある。厨子は神輿形をした木造で、中に安置されている御神体は、大山咋命を僧形にあらわしたものだと伝えられている。昭和57年3月 埼玉県」
ここに記された赤坂山王、現在永田町にある日枝神社にはいかに記されているかを次に紹介する。
永田町にある日枝神社の境内には、実は2つの説明板が立っており、若干異なる内容が記されている。
① 「日枝神社
鎮座地
東京都千代田区永田町二丁目十番五号。世に山王台又は星が岡の古称がある。
御祭神 御神徳
大山咋神(おおやまくいのかみ)。相殿神は、国常立神・足仲彦尊・伊弉冉神の三柱。
主祭神の神系は、須佐之男神 ─ 大年神─大國御魂神、御年神、大山咋神―別雷神
古事記に『亦の名は山末之大主神。此神は近淡海国の日枝山に座す。亦葛野の松尾に坐し鳴鏑を用うる神也』とある。大山咋神は山・水(咋)を司り、大地を支配し万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う広大な御神徳は、山王の尊称に即して、比類のない人類の生命を司り給うこと如実である。
御由緒
江戸山王の始元は遙に鎌倉中期に遡るが、古記社伝によれば、文明十年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、守護神として川越の山王社から勧請した。やがて徳川家康公江戸入城に際し、荒漠たる武蔵野開拓の要衝の地として、此の城祠に国家鎮護の基を定めた。歴代の将軍世嗣子女および諸大名の参詣が絶えず、やがて万治二年(1659)将軍家綱は、天下泰平、万民和楽の都を守護する祈願所を建立し奉る大志をいだき、現在地に結構善美を尽した権現造り社殿を造営した。明治十五年官幣中社に更に大正四年官幣大社に列せられた。
大戦後の御復興のあらまし
万治二年造営の社殿は、江戸初期の権現造りの代表的建物として国宝に指定されていたが、昭和二十年五月に戦禍に遭い焼失した。戦後の神社神道は、大変革を余儀なくされ、混沌たる社会情勢の中で、復興事業は困難を極めたが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により「昭和御造営」の画期的な大業が企画された。昭和三十三年六月本殿遷座祭斎行、引続き神門、廻廊、参集殿等が逐次完成、更に末社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで竣工し、全都をあげて之を慶賀し、昭和四十二年六月奉祝祭が先づ斎行されこの間、昭和三十三年六月現在地御鎮座三百年祭が執行された。
昭和五十二年七月江戸城内御鎮座五百年奉賛会が結成され、五百年を祝する式年大祭を厳修し、昔をしのぶ天下祭にふさわしい山王神幸祭の復元。尚記念事業として、「日枝神社史」の刊行、「宝物収蔵庫」の建築、本殿以下社殿の修繕、境内整備等が計画されて着々実施され、昭和五十三年六月十五日の吉辰を卜し五百年大祭が厳粛に行われ、更に昭和五十四年六月十三日、宝物収蔵庫の建設という有終の功竣つて、日枝神社御鎮座五百年奉賛会事業達成感謝奉告祭を極めて意義深く執行し、朝野多数の御参列を賜わりました。」
と記されている。
② 「日枝神社 元官幣大社
御祭神 大山咋神 相殿 国常立神・伊弉冉神・足仲彦尊
御由緒
日枝神社は江戸第一の大社で江戸時代は日吉山王大権現とも呼ばれた。御祭神は
大山咋神。亦の名は山末之大主神。この神は近淡海国の日枝山に座す。亦葛野の松尾に坐し鳴鏑を用うる神也(古事記上巻)
とあり、山・水を司り、万物の生成化育を守護し給う。
当社の起源は、古く鎌倉初期秩父重継が江戸貫主を名乗り館に山王社を勧請し、文明年中(1469-1486)太田道灌が城内に、更に徳川家康入府に際し、紅葉山に新社殿を造営し、江戸城の鎮守神、将軍家の産土神とあがめた。後に元山王の地(今の国立劇場)に遷祀され、更に四代将軍家綱によって溜池に臨む景勝の地に祀られ今日に至る。・・・(略)・・・」と記されている。
すなわち、①では文明十年(1478)太田道灌が川越の山王社から勧請した説と、②では鎌倉初期に秩父重継(江戸氏の始祖、注2)が山王社を勧請した説の2つを
別々の説明板として立てている。
(注1)新日吉神社(いまひえじんじゃ) 京都市東山区妙法院前側町451-1
永暦元年(1160年)10月16日、後白河上皇が法住寺殿の鎮守として、皇居守護の山王七社の神々を、比叡山東坂本の日吉大社から迎えて祀った事が創祀であり、…(略)・・・明治30年豊 国廟復興に際し、現在地に移転した。≪京都府神社略記より≫
河越重頼(?-1185)の父能隆(よしたか、注3)が河越荘の総鎮守として領内に祀ったと伝えられる。
(注2)江戸重継は秩父重綱の三男で、兄に秩父重弘、河越重隆(注3)がいる。
(注3)河越能隆の父は河越重隆。
追記(2010.7.28)
「落穂集」(校注 荻原龍夫・水江漣子/S42.5.10 人物往来社)の(注)に、南北朝時代(貞治年間 1362-1368)、(略)「那智山文書」によっても、下平川村の鎮守として山王社は太田道灌より古くから祭祠されていたらしい。」と記されている。