歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

東京・練馬区 谷原の庚申塔 練馬区の区登録文化財に

2010年02月20日 | Weblog
 練馬区教委は徳川家光の朱印状を含む「愛染院文書」を区指定文化財に、ケヤキの大木に囲まれた「井口家の屋敷林」(立野町)、丸山東遺跡(豊玉北6丁目)出土の石棒(縄文時代中期)、谷原の庚申塔(1709年建立、富士見台4丁目)の3件を区登録文化財に加えた。
[参考:産経新聞、東京新聞]

 早速、行ってきました。江戸時代に創建された稲荷神社(富士見台3-42)のすぐ近くに、その庚申塔(写真)があります。
 総高150㎝、塔身高さ90㎝、幅34㎝、奥行き24㎝。塔身部・笠部・頂部の3つの石(安山岩製)からなります。正面には青面金剛立像が、右側面には地蔵菩薩立像、左側面には阿弥陀如来立像が浮彫りされています。さらに文字としては、正面右側には「奉造立青面金剛現當二世祈所」、左には「宝永六己丑天 十月吉祥日」「願主 観照院」が、また右側面には「武州豊嶋郡谷原村」、左側面には「庚申講結衆二十二人」が刻まれています。
 宝永六年とは1709年であり、観照院とは江戸名所図会にも登場する長命寺(現高野台3-10)の塔頭の一寺(19世紀初めまでに廃寺)です。
 長命寺の現在の正式名称は「東高野山妙楽院長命寺」ですが、旧名称(1640年)は「谷原山(こくげんざん)妙楽院長命蜜寺」と号したそうです。
[参考:練馬区HP、江戸名所図会、新編武蔵風土記稿]
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高島市・天神畑遺跡 金剛般若波羅蜜経38枚を含む「こけら経」115枚が見つかる 「見せ消ち」も初確認

2010年02月20日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が19日、高島市鴨の天神畑遺跡から細長く薄く剥いだ木の板に経典が墨書きされた「こけら経」115枚が見つかったと発表した。15~16世紀の室町期のものとみられ、バラエティー豊富に7種類の経典などが書かれていた。中国の禅宗で重んじられたとされる経典「金剛般若波羅蜜経(金剛般若経)」が書かれた全国でも珍しい38点も含まれており、「妙法蓮華経(法華経)」が69点、ほかに5種8点があった。
 金剛般若経記載の「こけら経」出土は柳遺跡(滋賀県草津市)、清洲城下町遺跡(愛知県清須市)に次いで3例目という。
 県内には中国の僧が開いた東近江市の永源寺があり、また比叡山がある湖国の仏教文化の多様性を示す今回の「こけら経」の発見は中国仏教の強い影響を受けた当時の地域性が伺え、「こけら経」の役割を知る上で貴重な発見であり、禅の文化の広がりを裏付ける貴重な資料としている。
 高島市鴨にある天神畑遺跡は、縄文時代から中世にかけての複合遺跡で、「こけら経」は2009年2月、天神畑遺跡東側の中世後半の時代に水が流れていたとみられる旧河道に密集した状態で発見された。下半分が欠損しているものがあり、長さ10~30cm、横幅21mm、厚さ1mm以下の針葉樹製。供養などのために1枚に17文字ずつ縦書きで写経し、通常20~40枚を1組として、ひもで縛っていたと推測される。「こけら経」は全国102の遺跡から出土し、その大半が法華経という。
 また、「見せ消(け)ち」と呼ばれる方法で、妙法蓮華経(法華経)の誤字を修正した「こけら経」2枚が含まれていることがわかった。これは全国初の発見という。
 「見せ消ち」は写経で文字を訂正する際、誤字を消さず、そばに符号などを記す手法で、飛鳥時代に定着したとされる。
 木板は法華経などを写しており、「他」の文字を書くところに誤って「佛」と書いたため、左側に誤りを示す片仮名の「ヒ」に似た印を入れ、右側に「他」と訂正していた。
 今回発見された「こけら経」は、21日午前9時から午後5時まで行われる県立安土城考古博物館(安土町)の「あの遺跡は今! Part10」で一般公開される。同日午後1時から報告会(要予約)もある。
[参考:BBCびわ湖放送、中日新聞、読売新聞、共同通信、産経新聞、京都新聞]
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佐久市・西一里塚遺跡群 弥生時代後期の土偶形容器が出土

2010年02月20日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは19日、佐久市平塚の西一里塚遺跡群で、弥生時代後期(約1800年前)の「土偶形容器」(高さ約28cm、頭部の直径約12cm)が出土したと発表した。弥生時代前・中期のものは県内外で確認されているが、後期は県内初出土。
 上部は頭や腕など人間の姿で、下部は容器のようになっている。左手に5本指の跡があるなど写実的な表現や胴部に開口部があるのが特徴で、祭事的な用途に使われた可能性が高いという。
 同遺跡群では、2004年から06年にかけて発掘調査が行われ、09年4月から見つかった破片の接合作業が進められ、土偶形容器であることが判明した。
 土偶形容器は県立歴史館(千曲市屋代)で、3月13日~5月9日に開催される「長野県の遺跡発掘2010」で展示される。
[参考:読売新聞、信濃毎日新聞、長野県考古学会HP、長野県埋蔵文化財センターHP]
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伊勢原市 西富岡・向畑遺跡 4000年前の漆塗り土器が出土 2/20現場見学会

2010年02月19日 | Weblog
 かながわ考古学財団による西富岡・向畑(むこうばた)遺跡(同市西富岡120)の発掘調査で、縄文時代の漆塗り土器が出土した。完全な形のものは全国的に珍しいという。
 土器は漆で赤と黒に塗り分けた壺型。谷底の水を利用したさらし場とみられる水場遺構から出土し、周辺からは水の流れを制御するための杭いや穴も見つかった。一緒に出土した木材やクルミの殻から、約4千年前とみられる。
 西富岡・向畑遺跡は、第二東名高速道路建設に伴う事前調査として、2007年4月から発掘調査を実施している。遺跡は、富岡丘陵の西側から南側にかけて南北約2kmわたって広がる遺物散布地。旧石器時代、縄文時代、古墳時代、奈良・平安時代、中世の遺構・遺物が見つかっている。縄文時代では主に後期(4,000~3,000年前)の遺構が中心となっている。
 20日(土)午前10時~11時30分と午後1時~15時に現場見学会が開かれる。
[参考:産経新聞、かながわ考古学財団HP]

追記:2010.2.20
 2月20日に現場見学会が行われた。250名が訪れたという。
 漆塗り土器は高さ17cm、胴回り24cm、口径14cm。渦巻き文様で赤く色付けされている。




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奈良県斑鳩町・中宮寺跡 心柱立てる櫓の柱穴とみられる遺構を確認

2010年02月19日 | Weblog
 斑鳩町教委は18日、国史跡・中宮寺跡(同町法隆寺東2)で創建当初(7世紀前半)の塔の中心を貫く心柱を立てるために使った櫓の柱穴とみられる遺構が見つかったと発表した。
 古代寺院で心柱を立てるための施設跡が確認されたのは初めてという。塔の建築方法を考える上で貴重な発見としている。
 昨年8月から、室町時代に移築された現・中宮寺の東約400mにある塔の基壇跡を調査。以前の発掘調査で地表面から深さ約2.5mに心柱の礎石があることが分かっていた。今回は礎石の西側で柱穴2つ(深さ80cm超)を確認。礎石をはさんで南北にそれぞれ約5mずつ、西に約50cm離れた位置にあり、礎石の近くに建てられた櫓の柱穴とみられる。柱は基壇(約14m四方)を造る途中に抜き取られていた。櫓の底面は四角に組まれていたと考えられることから、今回発見された柱穴の西側にもさらに2か所あったとみられる。
 調査の結果、「版築」の手法で基壇を造る途中で掘られ、基壇完成後に版築で埋め戻されていたことが分かった。
 塔の基壇跡は1963、84年度にも調査。心礎の石は花崗岩製で東西1・75m、南北1・35m、厚さ0・8mの直方体。当時の地表から深さ約2mに埋められており、東側に幅約3m、奥行き3・5mの土の斜面が作られていた。この斜面に先端部分に綱などをくくり付けた柱を置き、西側に建てた櫓の頂上に滑車などを置き、綱などをかけて人力で心柱を立ち上げたらしい。
 中宮寺は飛鳥時代に聖徳太子が建立し、金堂や塔が一直線に並び、塔は絵図などから三重塔とみられ、近くにある同時代の法起寺三重塔(国宝)などとの比較により、高さは約20mと推定される。
 今回の調査では、金堂を挟んで塔の北側にあるとされる講堂の推定地も発掘したが、土が深く削られていたため、遺構は確認できなかった。10年度は南門の推定地などを調査する。
 現地説明会は21日(日)午前10時~午後4時に開かれる。
[参考:2/18毎日新聞、共同通信、2/19読売新聞]

過去のニュース・情報
 2009.4.8 奈良県斑鳩町・中宮寺 金堂跡基壇、再建時も同じ柱位置
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岐阜市岐阜公園内 織田信長公居館跡発掘調査 「手水」のための穴と池が出土

2010年02月19日 | Weblog
 岐阜市教委は18日、「織田信長公居館跡地」(岐阜市大宮町岐阜公園内)の第4次調査による発掘調査の結果、池と手を洗う「手水(ちょうず)」とみられる穴(水溜)の遺構の一部を発見したと発表した。周辺から、瀬戸・美濃産の陶器や中国磁器などが出土し、出土品から信長が岐阜城に入城した1567年から関ケ原の合戦の前哨戦で落城した1600年までの間に造られたと推定される。近くでは、巨石を用いた石組みも確認され、一帯は庭園だったとみられる。
 手水や池は、室町時代の将軍邸の庭によく見られ、革新的なイメージが強い信長が将軍家の伝統や権威も取り入れようとしていた可能性があるという。
 金華山西側の約300㎡を調査し、穴と池は山裾の斜面から見つかった。池は東西約4m、南北約5m、深さ約30cm。穴(水溜)は直径90cm、深さ30cmで、穴の周囲は石で丸く囲まれていた。池の底には砂や小石、川原石が敷かれ、周囲には護岸用の石組みがあった。
 山の斜面を流れる水が水溜に入り、そこからあふれた水が池に流れ込む仕掛けだったとみられる。手水や池は居館の奥にあり、こうした配置は、室町将軍足利義政の別荘「東山殿」などに類似しているという。
 これらの発見は、1569年に岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの書簡に記されている庭や池、茶室の描写と整合性があるという。
 27日午後0時半~午後3時、調査現場が公開される。
[参考:毎日新聞、読売新聞]

過去のニュース・情報
 2008.10.7 岐阜市岐阜公園内 織田信長公居館跡発掘調査 茶室の遺構発見か
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松原市・羽曳野市・河内大塚山古墳 陵墓参考地を立ち入り調査、古墳が未完成の可能性が浮上

2010年02月19日 | Weblog
 去る12日宮内庁の許可を得て、日本考古学協会など16の学会16人は18日午後、大塚陵墓参考地に指定される全国で5番目の規模を誇る巨大前方後円墳・河内大塚古墳(全長335m、松原市・羽曳野市)の立ち入り調査を行った。前方後円墳の前方部北西の渡り堤から墳丘内に入り、約2時間にかけて墳丘外縁部を歩いて全体の形状などを観察した。
 その結果、前方部が後円部のような盛り土がほとんどなく、平坦だったことが分かった。通常の古墳の前方部は山のように盛り上がっていることから、古墳が未完成で被葬者が納められていない可能性が浮上した。また、墳丘内に埴輪や葺石が存在しないことが確認された。
 河内大塚山古墳は、これまでの宮内庁の測量調査で、後円部(高さ20m)に比べて前方部(高さ5m)が極端に低いとされているが、詳細は不明だった。
 古墳は中世に城として利用された(注1)と伝えられ、築城の際に前方部が平坦に整地されたとの見方もあったが、研究者からは「大量の土を移動させた痕跡が見当たらない」との意見があり、前方部が未完成のまま造営工事が終了するという、巨大古墳では極めて異例な状況だった可能性が浮かび上がった。その一方、古墳の築造時期などに結びつく遺物などは見つからなかったという。
[参考:産経新聞、読売新聞、日経新聞]

(注1) 大塚山古墳は、中世に丹下氏によって丹下城が墳丘内に築かれた。また、江戸時代には前方部に大塚村の集落が形成され、後円部には天満宮(大塚社)が祀られた。大正14年に陵墓参考地となり、昭和3年に立ち退いた。
 「ガウランド 日本考古学の父」/ヴィクター・ハリス、後藤和雄(編)(朝日新聞社、2003)にはガウランドが撮影した明治前期の写真が掲載されており、一文には「墳丘は一部開墾されていて、背の低い苗木らしいものが見える。墳丘の段築の有無については現在疑問視する説もあるが、写真は歴然としていて、3段の様子がよくわかる。」と記されている。

過去のニュース・情報
 2010.2.13 河内大塚古墳 陵墓参考地、18日より府内初調査
 2008.12.10 河内大塚山古墳 発掘中の陵墓参考地を考古学研究者らが見学 周濠浅かった
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向日市・長岡宮跡 内裏跡から甲冑の一部「小札」が30点出土

2010年02月18日 | Weblog
 市埋蔵文化財センターが18日、長岡宮跡(784~794年)で天皇が居住した「東宮」の中枢部に当たる内裏跡の脇殿基壇の切石の抜き取り穴から、6世紀末~8世紀末とみられる甲冑の部品「小札(こざね)」約30点(27枚分)が見つかったと発表した。皇位を象徴する御物として甲冑が約200年にわたって伝えられ、内裏で保管されていた可能性があるとしている。
 小札は短冊形の薄い鉄板で、小さな穴を開けてひもで1000枚前後をつなぎ合わせ、胴などを守る甲冑の部品。胴体本体のほか付属具の手甲か肩甲とみられる小札もあった。
 最小で1cm四方、最大で長さ9cm、幅2cm。厚さはいずれも2mm以内。大きさなどから、6世紀末から8世紀後半にかけての4時期に分けられる。X線写真を解析した結果、小札同士を結ぶ組紐や革付きのものもあり、形や大きさ、穴の配列などから8タイプに分類できた。
 ほかの遺跡の小札を基に製造年代をみると、6世紀末~7世紀後半と8世紀前、中、後期の計4期に分かれた。藤ノ木古墳や飛鳥寺、東大寺大仏殿で発見されたり正倉院が所蔵する御物と同じものもあり、ほとんどが伝承品と分かった。ほかにも、地方からの貢ぎ物とみられる小札も確認された。
 さらに今回、小札が「脇殿」遺構から出土したことで、これまで文献で武具の収納庫とされていた脇殿の用途が初めて裏付けられたとしている。小札は、平安遷都に伴い長岡宮を解体するため「東院」に移った際、脇殿を解体してその遺構内に埋めたとみられる。
 19日から4月25日まで、向日市の市文化資料館で開く「新発見の考古資料展」で公開する。
[参考:読売新聞、共同通信、京都新聞]

天皇のよろい部品見つかる 京都・長岡京跡(共同通信) - goo ニュース
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浜松市・稲荷山古墳 大和と共通する造り方、市指定史跡へ

2010年02月18日 | Weblog
 浜松市文化財保護審議会は17日、古墳時代中期前半(5世紀前半)の稲荷山古墳(同市浜北区内野)を市指定史跡に上申する。教育委員会の審議を経て3月中に正式指定される。
 一昨年の試掘調査では、二段上の墳丘(2段築成)が確認され、人工造成の二段目に並んだ葺き石は、関西の大型前方後円墳と同様の工法を用いたことが判明。大和との係わりを示す構造は、市内に残る古墳の中でも珍しいという。
 段の間には平坦面(テラス)がみられたが、残念ながら埴輪は見つかっていない。
 稲荷山古墳は直径37m、高さ4・3mの円墳。三方原台地東縁にある内野古墳群の一つ。南側近くの県指定史跡・赤門上古墳(注1)の埋葬者に続き、天竜川平野を治めた首長を葬ったとされる。
 円墳としては市内で3番目の大きさ。墳頂部は盗掘などで壊された形跡がなく、埋葬品が眠る可能性もある。葺石などは調査後、埋め戻してある。
 史跡指定後は現地で見学会を開く予定。
[参考:中日新聞、浜松市HP→浜松の文化財]

(注1)赤門上古墳(浜松市浜北区内野)
前方後円墳、全長56.3m、後円部の直径36.2m、高さ4.9m、前方部は幅14.7m、高さ1.15m。後円部が北。
築造: 4世紀後半または末
出土品: 後円部よりクスノキ製木棺(全長5.58m)、副葬品として内部より華紋日月天王四神四獣鏡(三角縁神獣鏡、椿井大塚山古墳や佐味田宝塚古墳と同范)、銅製の鏃、剣、直刀、鉄製の斧頭、鉄製の鍬、鉈など金属製品が多数発掘されている。
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大津市・穴太遺跡 古墳時代後期の大壁造り建物2棟などの跡が出土

2010年02月18日 | Weblog
 市教委が17日、縄文―平安時代の複合遺跡・穴太(あのう)遺跡(大津市穴太2丁目)で、朝鮮半島から伝来したとされる古墳時代後期(6世紀中―後期)の大壁造り建物2棟などの跡が見つかったと発表した。
 大壁造り建物は、建物の周囲を巡る溝に柱を何本も立て、柱を芯にして土壁を塗り込める工法。
 同遺跡では、これまでにも同形式の建物跡や暖房装置・オンドルなどが多く検出されており、渡来人が広範囲に集落を営んでいたことを裏付ける発見としている。
 柱材計11本と溝が見つかった。建物跡1棟は9m四方とみられ、溝には柱が7本、ほぼ完全な形で残っていた。2棟は溝などが重なっており、建て替えられたとみられる。朝鮮の特徴を持つ移動式の竈や甕など土器の破片も多数見つかった。
 このほか、掘立柱建物跡1棟も検出。大壁造り建物と同時期で、用途や身分によって建物を使い分けていた可能性があるという。
 同遺跡を含む大津市坂本―錦織にかけての比叡山麓は、同時期の古墳の密集地域。横穴式石室の形をドーム状にしたり、炊飯具のミニチュアを副葬したりするなど全国的にも珍しい特徴があり、渡来人との関係が深い地域とされる。
 大壁造りは滋賀や奈良で100例ほど確認されているが、渡来人の集住地とされる限られた地域でしか見つかっていない。密閉性の高い様式で日本には向かず、渡来人も来日直後に住んだ地域にしか作らなかったのではとみている。
 約400m東には、飛鳥時代の創建とされる国史跡・穴太廃寺跡もある。
 現場説明会が21日(日)午後1時半に開かれる。
[参考:読売新聞、京都新聞、毎日新聞]



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市川市・北下遺跡 下総国分寺近くで祭祀跡を発見

2010年02月18日 | Weblog
 千葉県教育振興財団文化財センターにより発掘調査が行われている市川市国分の北下遺跡で、千年以上前の人々の祭祀跡が豊富に発見された。
 西に300mのところには奈良時代に創建された下総国分寺があり、約40m離れたところには昭和40年代にその瓦を焼いた下総国分寺瓦窯跡が見つかっている。
 今回の調査では昨年10月から古代に国分川が流れていたと見られる湿地帯の地下3mほどを発掘している。木製品なども良好な状態で見つかった。
 皿や椀、杯、斎串(いぐし)、人形(ひとがた)など祭祀に使われる道具のほか、大量の瓦も出土した。国分寺、尼寺の特徴である宝相華文のくっきり残った軒丸瓦、失敗したらしい平瓦の塊や墨書土器も見つかった。
 川沿いのこの付近が、下総の国の祭祀とかかわりが深い場所だと確認できたという。大量の瓦が「失敗作」として捨てられたのか、儀式で使われたのかは、今後の研究課題とする。
見学会は20日午前11時から午後2時に開かれる。午前11時、同11時45分、午後0時15分、同1時、同1時45分にそれぞれ15分程度の解説がある。出土品の展示もある。
[参考:朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2004年10月 2基の窯跡(登り窯1基、平窯1基)が発見され、窯跡と同じ台地斜面の下部より青銅の鋳造遺構が確認された。
 2005年度 鋳造遺構を調査した結果、奈良時代8世紀後半に下総国分寺の梵鐘を製造した遺構であることを確認した。



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奈良市・伝富雄丸山古墳出土三角縁二神二獣鏡(弥勒寺蔵) 同古墳の出土品でない可能性が大

2010年02月17日 | Weblog
 毎日新聞が17日、奈良市埋蔵文化財調査センターの調査で同市大和田町の富雄丸山古墳(円墳・直径約86m、4世紀)の出土品とされてきた弥勒寺(奈良市中町)の三角縁神獣鏡「三角縁吾作銘二神二獣鏡」(市指定文化財)が、同古墳の出土品ではない可能性が高いことが分かったと報じた。古墳時代前期に富雄周辺に別の古墳があったことになり、この地域の歴史を考える上で重要な発見という。
 鏡は、中国で3世紀後半ごろに作られたとみられる銅鏡。直径約22cmで、鏡の素晴らしさをたたえる銘文(注1)がある。同じ型のもの(注2)が、高松市歴史資料館に1枚保存されている。古文書から、江戸時代には同寺にあったことが分かっているが、それ以前の伝来は不明。これまでは、寺近くの富雄丸山古墳から出土したと考えられてきた。
 昨年3月、鏡が市指定文化財に指定されたのを機に、同センターが天理参考館(天理市)所蔵の同古墳出土とされる別の三角縁神獣鏡3枚と比較。錆びの様子などが大きく異なり(注3)、同じ古墳からの出土とは考えにくいことが分かった。
 同センターの森下所長は「別の場所から寺に移された可能性は低い。今では存在が知られていない別の前期古墳が周辺にあったのかもしれない。この地域の豪族の存在などを考える上でも興味深い」と話している。
 鏡は来月1日から同センター(奈良市大安寺西2)で公開される。
[参考:毎日新聞]

(注1)吾作明竟莫大好除去不羊宜古市上有東王父西王母渇飲玉泉飢食棗・・・参考文献A.より
(注2)伝香川県内出土品(個人蔵)直径21.5cm・・・参考文献A.より
(注3)天理参考館蔵の3面と比較すると「実物を見ると一見百年以上も昔に出土したことが分かる」と記している。・・・参考文献B.より

参考文献A:「三角縁神獣鏡新鑑」/樋口隆康(新潮社1992)
参考文献B:「奈良市史考古編」(吉川弘文館S43.8発行)

参考文献B.「奈良市史考古編」(吉川弘文館S43.8発行)より抜粋
 丸山古墳の遺物は (略) 箱書によってその出土時期が明治末であること、また、収容されてある各種遺物の合計53個、のちに「重要美術品等」の法的指定を受けていることも分かる。これらは、京都在住の守屋孝蔵氏が収集され、その死後近親者に分属の後、京都博物館に収納された。(略)
工(昭10.8.3)伝奈良県生駒郡富雄村丸山古墳出土品3面
 銅製画象帯竜虎鏡  同 獣帯五神四獣鏡  同四神四獣鏡  吾作明竟 云々ノ銘アリ
の3面が記される。(略)
一、鏡
 伝丸山出土という鏡は4面あり、そのうち3面は現在天理参考館に収蔵し、一面は古墳所在地元の弥勒寺にある。すべて伝というため二等資料たらざるを得ないが関係遺物の主なるものである。四面中、銘文を持つものが2面あり、他は文様のみであるが、日本古墳出土の漢式鏡の中でも優れた部類に属する。弥勒寺収蔵の鏡は少し劣る。古墳内での所在箇所の関係か銅質の差か、外観からの判断では決定できない。天理参考館の3面は銅色もそろっているし、発掘後の保存もよい。(略)
(1) 四神四獣鏡 鏡面の径21.7cm、鏡背径20.3cm、鏡背径20.3cm、縁の厚さ1cm、(略)
(2) 神獣獣帯鏡 鏡面径21.7cm、鏡背径20.7cm、縁の厚さ1.1cm、(略)
(3) 盤龍画象鏡 鏡面径24.8cm、鏡背径22.5cm、縁の高さ1.3cm、(略)
(4) 吾作銘二神二獣鏡 鏡面径21.63cm、縁の高さ10mm、弥勒寺蔵、(略)

 さらに、(4)の弥勒寺蔵の鏡については、①実物を見ると一見百年以上も昔に出土したことが分かる。 ②添付の書類に天保五年(1834)二月および天保六年の年記がある。この記録によると、この寺はむかし登美山の付近にあったため、山崩れか何かのときに埋もれてあったものか、という意味のことが記してある ③天保二年秋、狩谷掖斎(注5)に会った宗淵僧都なるものが、掖斎の収蔵する漢鏡の銘を写して弥勒寺蔵の漢鏡銘と比較するため、その当時の住職だろうか詮海(注6)に送ってきたことを記してある。(略)僧詮海の記録によっても、この鏡は茶臼山(注7)もしくは丸山出土という確証はない。何れは付近の古墳から発掘もしくは何れかの機会に検出せられたものとは考えられる。(略)
 と記されている。
  (注5)日本・中国古典研究者(1775-1853)、  (注6)正は、毎の下に水 
  (注7)丸山古墳の北、約200mの場所に茶臼山古墳と呼ばれる小高い築山がある。この古墳のことか? (以上)
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奈良市・平城宮東院地区・発掘調査 淳仁天皇時代(758-764)の遺構を確認

2010年02月17日 | Weblog
 平城第446次発掘調査現地説明会が、2月20日(土)13時30分から開催される。
 それに先立ち、奈良文化財研究所が16日に調査概要を発表した。
 平城宮跡東院地区(奈良市)は奈良時代に、天皇や皇太子の邸宅が置かれた。
① 倉庫とみられる建物群(②参照)や通路跡(③参照)が見つかった。中枢部の外側だが、藤原仲麻呂(706―764年)が専制政治を行った時期には宮殿状に大改造されていた。奈良時代を通じて6時期の変遷があり、仲麻呂の専制期に重なる遺構が初めて確認された。
 主殿や脇殿を意識した建物配置で、柱を全面に立てる総柱建物でもなかったことから、宮殿的な施設と判断した。礎石を伴った可能性があり、地固めに敷いたとみられる石も残っていた。 [参考:奈良新聞]
② 淳仁天皇(在位758~764)時代の建物跡が出土したと発表した。建物はのちに別の建築物に変わっており、聖武天皇以降、5代の天皇が即位するたびに、大規模な建て替えを行ったことが確実になったとしている。
 過去の調査では聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁と続く5代のうち、淳仁期(758-764)の遺構だけ未確認だった。
 出土したのは、幅12m以上、奥行き6mの建物と、礎石の上に柱を立てたとみられる建物の2棟。その後の称徳期には、倉庫とみられる幅18mの掘っ立て柱建物に建て替えられていた。
 建て替えは、前の代の天皇を否定する意味もあったのではないかとの見解もある。 [参考:読売新聞]
③ 東西に伸びる幅約15mの通路も見つかった。奈良時代末には、両側の塀が中枢部とみられる地区の手前で北と南に90度屈曲。通路の先に中枢施設が眠る可能性が強まったとする。 [参考:奈良新聞]
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ツタンカーメンの母は父アメンホテプ4世の姉妹

2010年02月17日 | Weblog
 17日付の米医学誌「ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション(略称:JAMA)」は、ツタンカーメン(BC.1342?-1324?、新王国第18王朝)は、アクエンアテン(アメンホテプ4世、BC.1362?-1333?)とその姉妹の1人との間に生まれ、骨折にマラリアが重なって死亡した可能性が高いことが、エジプト考古学チームによるDNA鑑定やCTスキャンの調査で分かったと伝えた。イタリア、ドイツの専門家も加わり、ツタンカーメンを含むミイラ16体を2年がかりで調査した。母親の名は特定されていない。
 ツタンカーメンは、若く虚弱で、骨壊死症のために歩くのに杖を必要とし、ときにフライバーグ病(第2ケーラー病)の痛みに苦しみ、右足は欠指症で、左足は内反足だったとする。
 ■遺伝子検査の結果、ツタンカーメンが、致死性のマラリアを引き起こすことの多い熱帯熱マラリア原虫(plasmodium falciparum)に感染していたことを示す痕跡が見つかった
 ■ツタンカーメンが、一族の多くがかかった複数の疾患を抱えていた。疾患には、骨疾患や内反足などもみられたという。
 ■ツタンカーメンには2人の女児ができたが、いずれも母親の胎内で亡くなった。
[参考:時事通信、AFPニュース]

ツタンカーメンはきょうだい婚の子=死因は骨折とマラリア-米医学誌(時事通信) - goo ニュース
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安城市・下懸遺跡 古代の木簡が出土、2/27現地説明会

2010年02月17日 | Weblog
 筆者は、平成2年頃より10年間、安城市に住んでいた。下懸遺跡のある小川町は、西尾市あるいは蒲郡市に行くときにいつも車で通過していた。また、通り沿いに確か「餃子の王将」があって利用していた。
 下懸遺跡は、弥生時代から古墳時代前期を中心とする集落遺跡である。また、三河地域で初めて古代の木簡が出土している。
 下懸遺跡から見つかった木簡は、平成12年12月~翌年3月の発掘調査で見つかったもので、2つに折られていたが、全長26.1cm、幅2.4cm、厚さ0.5mm。おそらく荷札用のものを転用して書いた習書木簡とみられ、時期は8~9世紀であるが、8世紀初頭の可能性が高いとしている。木簡の内容は一面が「春春春秋秋尚尚書書律(律)」、裏面が「令令文文□□(是)是人(人)」(カッコ内は推測)である。
 合わせると「春秋尚書律令文□是人」の文字が復元できる。儒教経典の五経に関連する文字に律令という文字が加わっている。
 さて、この下懸遺跡から再び木簡が発見されたということで、何が書かれているか楽しみ。(愛知県埋蔵文化財センターHPでは出土木簡の写真も添付されているが、荷札木簡?)
 現地説明会が2月27日(土)午前10時から安城市小川町下懸遺跡調査区で開かれる。(調査成果の説明、出土品の展示)
[参考:愛知県埋蔵文化財センターHP、
 下懸遺跡出土の木簡/池本正明・福岡猛志(愛知県埋蔵文化財センター 研究紀要 第3号 23-30p.発行:2002.03.)]

追記:2010.8.14
(注1) 2010.7.1付け愛知県埋蔵文化財センターHPで、「下懸遺跡出土の木簡について」として、この木簡の出土状況および途中状況が記されています。
 薄い板状の木簡(長さ138mm×幅38mm×厚さ3mm)で、「・□□米物受被□□」と書かれており、米を含む物品の受け取りにかかわる文書ということです。




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