歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市・伝富雄丸山古墳出土三角縁二神二獣鏡(弥勒寺蔵) 同古墳の出土品でない可能性が大

2010年02月17日 | Weblog
 毎日新聞が17日、奈良市埋蔵文化財調査センターの調査で同市大和田町の富雄丸山古墳(円墳・直径約86m、4世紀)の出土品とされてきた弥勒寺(奈良市中町)の三角縁神獣鏡「三角縁吾作銘二神二獣鏡」(市指定文化財)が、同古墳の出土品ではない可能性が高いことが分かったと報じた。古墳時代前期に富雄周辺に別の古墳があったことになり、この地域の歴史を考える上で重要な発見という。
 鏡は、中国で3世紀後半ごろに作られたとみられる銅鏡。直径約22cmで、鏡の素晴らしさをたたえる銘文(注1)がある。同じ型のもの(注2)が、高松市歴史資料館に1枚保存されている。古文書から、江戸時代には同寺にあったことが分かっているが、それ以前の伝来は不明。これまでは、寺近くの富雄丸山古墳から出土したと考えられてきた。
 昨年3月、鏡が市指定文化財に指定されたのを機に、同センターが天理参考館(天理市)所蔵の同古墳出土とされる別の三角縁神獣鏡3枚と比較。錆びの様子などが大きく異なり(注3)、同じ古墳からの出土とは考えにくいことが分かった。
 同センターの森下所長は「別の場所から寺に移された可能性は低い。今では存在が知られていない別の前期古墳が周辺にあったのかもしれない。この地域の豪族の存在などを考える上でも興味深い」と話している。
 鏡は来月1日から同センター(奈良市大安寺西2)で公開される。
[参考:毎日新聞]

(注1)吾作明竟莫大好除去不羊宜古市上有東王父西王母渇飲玉泉飢食棗・・・参考文献A.より
(注2)伝香川県内出土品(個人蔵)直径21.5cm・・・参考文献A.より
(注3)天理参考館蔵の3面と比較すると「実物を見ると一見百年以上も昔に出土したことが分かる」と記している。・・・参考文献B.より

参考文献A:「三角縁神獣鏡新鑑」/樋口隆康(新潮社1992)
参考文献B:「奈良市史考古編」(吉川弘文館S43.8発行)

参考文献B.「奈良市史考古編」(吉川弘文館S43.8発行)より抜粋
 丸山古墳の遺物は (略) 箱書によってその出土時期が明治末であること、また、収容されてある各種遺物の合計53個、のちに「重要美術品等」の法的指定を受けていることも分かる。これらは、京都在住の守屋孝蔵氏が収集され、その死後近親者に分属の後、京都博物館に収納された。(略)
工(昭10.8.3)伝奈良県生駒郡富雄村丸山古墳出土品3面
 銅製画象帯竜虎鏡  同 獣帯五神四獣鏡  同四神四獣鏡  吾作明竟 云々ノ銘アリ
の3面が記される。(略)
一、鏡
 伝丸山出土という鏡は4面あり、そのうち3面は現在天理参考館に収蔵し、一面は古墳所在地元の弥勒寺にある。すべて伝というため二等資料たらざるを得ないが関係遺物の主なるものである。四面中、銘文を持つものが2面あり、他は文様のみであるが、日本古墳出土の漢式鏡の中でも優れた部類に属する。弥勒寺収蔵の鏡は少し劣る。古墳内での所在箇所の関係か銅質の差か、外観からの判断では決定できない。天理参考館の3面は銅色もそろっているし、発掘後の保存もよい。(略)
(1) 四神四獣鏡 鏡面の径21.7cm、鏡背径20.3cm、鏡背径20.3cm、縁の厚さ1cm、(略)
(2) 神獣獣帯鏡 鏡面径21.7cm、鏡背径20.7cm、縁の厚さ1.1cm、(略)
(3) 盤龍画象鏡 鏡面径24.8cm、鏡背径22.5cm、縁の高さ1.3cm、(略)
(4) 吾作銘二神二獣鏡 鏡面径21.63cm、縁の高さ10mm、弥勒寺蔵、(略)

 さらに、(4)の弥勒寺蔵の鏡については、①実物を見ると一見百年以上も昔に出土したことが分かる。 ②添付の書類に天保五年(1834)二月および天保六年の年記がある。この記録によると、この寺はむかし登美山の付近にあったため、山崩れか何かのときに埋もれてあったものか、という意味のことが記してある ③天保二年秋、狩谷掖斎(注5)に会った宗淵僧都なるものが、掖斎の収蔵する漢鏡の銘を写して弥勒寺蔵の漢鏡銘と比較するため、その当時の住職だろうか詮海(注6)に送ってきたことを記してある。(略)僧詮海の記録によっても、この鏡は茶臼山(注7)もしくは丸山出土という確証はない。何れは付近の古墳から発掘もしくは何れかの機会に検出せられたものとは考えられる。(略)
 と記されている。
  (注5)日本・中国古典研究者(1775-1853)、  (注6)正は、毎の下に水 
  (注7)丸山古墳の北、約200mの場所に茶臼山古墳と呼ばれる小高い築山がある。この古墳のことか? (以上)
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奈良市・平城宮東院地区・発掘調査 淳仁天皇時代(758-764)の遺構を確認

2010年02月17日 | Weblog
 平城第446次発掘調査現地説明会が、2月20日(土)13時30分から開催される。
 それに先立ち、奈良文化財研究所が16日に調査概要を発表した。
 平城宮跡東院地区(奈良市)は奈良時代に、天皇や皇太子の邸宅が置かれた。
① 倉庫とみられる建物群(②参照)や通路跡(③参照)が見つかった。中枢部の外側だが、藤原仲麻呂(706―764年)が専制政治を行った時期には宮殿状に大改造されていた。奈良時代を通じて6時期の変遷があり、仲麻呂の専制期に重なる遺構が初めて確認された。
 主殿や脇殿を意識した建物配置で、柱を全面に立てる総柱建物でもなかったことから、宮殿的な施設と判断した。礎石を伴った可能性があり、地固めに敷いたとみられる石も残っていた。 [参考:奈良新聞]
② 淳仁天皇(在位758~764)時代の建物跡が出土したと発表した。建物はのちに別の建築物に変わっており、聖武天皇以降、5代の天皇が即位するたびに、大規模な建て替えを行ったことが確実になったとしている。
 過去の調査では聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁と続く5代のうち、淳仁期(758-764)の遺構だけ未確認だった。
 出土したのは、幅12m以上、奥行き6mの建物と、礎石の上に柱を立てたとみられる建物の2棟。その後の称徳期には、倉庫とみられる幅18mの掘っ立て柱建物に建て替えられていた。
 建て替えは、前の代の天皇を否定する意味もあったのではないかとの見解もある。 [参考:読売新聞]
③ 東西に伸びる幅約15mの通路も見つかった。奈良時代末には、両側の塀が中枢部とみられる地区の手前で北と南に90度屈曲。通路の先に中枢施設が眠る可能性が強まったとする。 [参考:奈良新聞]
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ツタンカーメンの母は父アメンホテプ4世の姉妹

2010年02月17日 | Weblog
 17日付の米医学誌「ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション(略称:JAMA)」は、ツタンカーメン(BC.1342?-1324?、新王国第18王朝)は、アクエンアテン(アメンホテプ4世、BC.1362?-1333?)とその姉妹の1人との間に生まれ、骨折にマラリアが重なって死亡した可能性が高いことが、エジプト考古学チームによるDNA鑑定やCTスキャンの調査で分かったと伝えた。イタリア、ドイツの専門家も加わり、ツタンカーメンを含むミイラ16体を2年がかりで調査した。母親の名は特定されていない。
 ツタンカーメンは、若く虚弱で、骨壊死症のために歩くのに杖を必要とし、ときにフライバーグ病(第2ケーラー病)の痛みに苦しみ、右足は欠指症で、左足は内反足だったとする。
 ■遺伝子検査の結果、ツタンカーメンが、致死性のマラリアを引き起こすことの多い熱帯熱マラリア原虫(plasmodium falciparum)に感染していたことを示す痕跡が見つかった
 ■ツタンカーメンが、一族の多くがかかった複数の疾患を抱えていた。疾患には、骨疾患や内反足などもみられたという。
 ■ツタンカーメンには2人の女児ができたが、いずれも母親の胎内で亡くなった。
[参考:時事通信、AFPニュース]

ツタンカーメンはきょうだい婚の子=死因は骨折とマラリア-米医学誌(時事通信) - goo ニュース
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安城市・下懸遺跡 古代の木簡が出土、2/27現地説明会

2010年02月17日 | Weblog
 筆者は、平成2年頃より10年間、安城市に住んでいた。下懸遺跡のある小川町は、西尾市あるいは蒲郡市に行くときにいつも車で通過していた。また、通り沿いに確か「餃子の王将」があって利用していた。
 下懸遺跡は、弥生時代から古墳時代前期を中心とする集落遺跡である。また、三河地域で初めて古代の木簡が出土している。
 下懸遺跡から見つかった木簡は、平成12年12月~翌年3月の発掘調査で見つかったもので、2つに折られていたが、全長26.1cm、幅2.4cm、厚さ0.5mm。おそらく荷札用のものを転用して書いた習書木簡とみられ、時期は8~9世紀であるが、8世紀初頭の可能性が高いとしている。木簡の内容は一面が「春春春秋秋尚尚書書律(律)」、裏面が「令令文文□□(是)是人(人)」(カッコ内は推測)である。
 合わせると「春秋尚書律令文□是人」の文字が復元できる。儒教経典の五経に関連する文字に律令という文字が加わっている。
 さて、この下懸遺跡から再び木簡が発見されたということで、何が書かれているか楽しみ。(愛知県埋蔵文化財センターHPでは出土木簡の写真も添付されているが、荷札木簡?)
 現地説明会が2月27日(土)午前10時から安城市小川町下懸遺跡調査区で開かれる。(調査成果の説明、出土品の展示)
[参考:愛知県埋蔵文化財センターHP、
 下懸遺跡出土の木簡/池本正明・福岡猛志(愛知県埋蔵文化財センター 研究紀要 第3号 23-30p.発行:2002.03.)]

追記:2010.8.14
(注1) 2010.7.1付け愛知県埋蔵文化財センターHPで、「下懸遺跡出土の木簡について」として、この木簡の出土状況および途中状況が記されています。
 薄い板状の木簡(長さ138mm×幅38mm×厚さ3mm)で、「・□□米物受被□□」と書かれており、米を含む物品の受け取りにかかわる文書ということです。




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総社市・窪木遺跡 庇付きの大型建物跡が出土、賀夜郡衙跡か

2010年02月17日 | Weblog
 総社市教委が発掘調査している窪木遺跡(同市窪木)で15日までに、格式の高い庇付きの大型建物を中心に大溝などが規則的に配され、鍛冶工房跡も付属した藤原京期(7世紀末〜8世紀初め)の遺構群が出土した。所在地不明だった賀夜郡衙跡とみられるという。
 同遺跡は郡名寺院である栢(かや)寺廃寺の約200m東にあり、北に鬼ノ城を望める場所にある。
 古代・備中国は、『和名類聚抄』では都宇・窪屋・賀夜・下道・浅口・小田・後月・哲多・英賀の九郡があったとされる。賀夜郡は、南は現在の岡山市西部から北は高梁市まで及び、備中国全体の行政府・国府も所在したと記録される。だがこれまで、同時期の官衙遺跡は確認例がなかった。
[参考:山陽新聞、岡山県古代吉備文化財センターHP]

過去の関連ニュース・情報
 2008.6.21 総社市・大文字遺跡・栢寺廃寺 岡山県内最古の文字瓦出土



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