毎日新聞が17日、奈良市埋蔵文化財調査センターの調査で同市大和田町の富雄丸山古墳(円墳・直径約86m、4世紀)の出土品とされてきた弥勒寺(奈良市中町)の三角縁神獣鏡「三角縁吾作銘二神二獣鏡」(市指定文化財)が、同古墳の出土品ではない可能性が高いことが分かったと報じた。古墳時代前期に富雄周辺に別の古墳があったことになり、この地域の歴史を考える上で重要な発見という。
鏡は、中国で3世紀後半ごろに作られたとみられる銅鏡。直径約22cmで、鏡の素晴らしさをたたえる銘文(注1)がある。同じ型のもの(注2)が、高松市歴史資料館に1枚保存されている。古文書から、江戸時代には同寺にあったことが分かっているが、それ以前の伝来は不明。これまでは、寺近くの富雄丸山古墳から出土したと考えられてきた。
昨年3月、鏡が市指定文化財に指定されたのを機に、同センターが天理参考館(天理市)所蔵の同古墳出土とされる別の三角縁神獣鏡3枚と比較。錆びの様子などが大きく異なり(注3)、同じ古墳からの出土とは考えにくいことが分かった。
同センターの森下所長は「別の場所から寺に移された可能性は低い。今では存在が知られていない別の前期古墳が周辺にあったのかもしれない。この地域の豪族の存在などを考える上でも興味深い」と話している。
鏡は来月1日から同センター(奈良市大安寺西2)で公開される。
[参考:毎日新聞]
(注1)吾作明竟莫大好除去不羊宜古市上有東王父西王母渇飲玉泉飢食棗・・・参考文献A.より
(注2)伝香川県内出土品(個人蔵)直径21.5cm・・・参考文献A.より
(注3)天理参考館蔵の3面と比較すると「実物を見ると一見百年以上も昔に出土したことが分かる」と記している。・・・参考文献B.より
参考文献A:「三角縁神獣鏡新鑑」/樋口隆康(新潮社1992)
参考文献B:「奈良市史考古編」(吉川弘文館S43.8発行)
参考文献B.「奈良市史考古編」(吉川弘文館S43.8発行)より抜粋
丸山古墳の遺物は (略) 箱書によってその出土時期が明治末であること、また、収容されてある各種遺物の合計53個、のちに「重要美術品等」の法的指定を受けていることも分かる。これらは、京都在住の守屋孝蔵氏が収集され、その死後近親者に分属の後、京都博物館に収納された。(略)
工(昭10.8.3)伝奈良県生駒郡富雄村丸山古墳出土品3面
銅製画象帯竜虎鏡 同 獣帯五神四獣鏡 同四神四獣鏡 吾作明竟 云々ノ銘アリ
の3面が記される。(略)
一、鏡
伝丸山出土という鏡は4面あり、そのうち3面は現在天理参考館に収蔵し、一面は古墳所在地元の弥勒寺にある。すべて伝というため二等資料たらざるを得ないが関係遺物の主なるものである。四面中、銘文を持つものが2面あり、他は文様のみであるが、日本古墳出土の漢式鏡の中でも優れた部類に属する。弥勒寺収蔵の鏡は少し劣る。古墳内での所在箇所の関係か銅質の差か、外観からの判断では決定できない。天理参考館の3面は銅色もそろっているし、発掘後の保存もよい。(略)
(1) 四神四獣鏡 鏡面の径21.7cm、鏡背径20.3cm、鏡背径20.3cm、縁の厚さ1cm、(略)
(2) 神獣獣帯鏡 鏡面径21.7cm、鏡背径20.7cm、縁の厚さ1.1cm、(略)
(3) 盤龍画象鏡 鏡面径24.8cm、鏡背径22.5cm、縁の高さ1.3cm、(略)
(4) 吾作銘二神二獣鏡 鏡面径21.63cm、縁の高さ10mm、弥勒寺蔵、(略)
さらに、(4)の弥勒寺蔵の鏡については、①実物を見ると一見百年以上も昔に出土したことが分かる。 ②添付の書類に天保五年(1834)二月および天保六年の年記がある。この記録によると、この寺はむかし登美山の付近にあったため、山崩れか何かのときに埋もれてあったものか、という意味のことが記してある ③天保二年秋、狩谷掖斎(注5)に会った宗淵僧都なるものが、掖斎の収蔵する漢鏡の銘を写して弥勒寺蔵の漢鏡銘と比較するため、その当時の住職だろうか詮海(注6)に送ってきたことを記してある。(略)僧詮海の記録によっても、この鏡は茶臼山(注7)もしくは丸山出土という確証はない。何れは付近の古墳から発掘もしくは何れかの機会に検出せられたものとは考えられる。(略)
と記されている。
(注5)日本・中国古典研究者(1775-1853)、 (注6)正は、毎の下に水
(注7)丸山古墳の北、約200mの場所に茶臼山古墳と呼ばれる小高い築山がある。この古墳のことか? (以上)
鏡は、中国で3世紀後半ごろに作られたとみられる銅鏡。直径約22cmで、鏡の素晴らしさをたたえる銘文(注1)がある。同じ型のもの(注2)が、高松市歴史資料館に1枚保存されている。古文書から、江戸時代には同寺にあったことが分かっているが、それ以前の伝来は不明。これまでは、寺近くの富雄丸山古墳から出土したと考えられてきた。
昨年3月、鏡が市指定文化財に指定されたのを機に、同センターが天理参考館(天理市)所蔵の同古墳出土とされる別の三角縁神獣鏡3枚と比較。錆びの様子などが大きく異なり(注3)、同じ古墳からの出土とは考えにくいことが分かった。
同センターの森下所長は「別の場所から寺に移された可能性は低い。今では存在が知られていない別の前期古墳が周辺にあったのかもしれない。この地域の豪族の存在などを考える上でも興味深い」と話している。
鏡は来月1日から同センター(奈良市大安寺西2)で公開される。
[参考:毎日新聞]
(注1)吾作明竟莫大好除去不羊宜古市上有東王父西王母渇飲玉泉飢食棗・・・参考文献A.より
(注2)伝香川県内出土品(個人蔵)直径21.5cm・・・参考文献A.より
(注3)天理参考館蔵の3面と比較すると「実物を見ると一見百年以上も昔に出土したことが分かる」と記している。・・・参考文献B.より
参考文献A:「三角縁神獣鏡新鑑」/樋口隆康(新潮社1992)
参考文献B:「奈良市史考古編」(吉川弘文館S43.8発行)
参考文献B.「奈良市史考古編」(吉川弘文館S43.8発行)より抜粋
丸山古墳の遺物は (略) 箱書によってその出土時期が明治末であること、また、収容されてある各種遺物の合計53個、のちに「重要美術品等」の法的指定を受けていることも分かる。これらは、京都在住の守屋孝蔵氏が収集され、その死後近親者に分属の後、京都博物館に収納された。(略)
工(昭10.8.3)伝奈良県生駒郡富雄村丸山古墳出土品3面
銅製画象帯竜虎鏡 同 獣帯五神四獣鏡 同四神四獣鏡 吾作明竟 云々ノ銘アリ
の3面が記される。(略)
一、鏡
伝丸山出土という鏡は4面あり、そのうち3面は現在天理参考館に収蔵し、一面は古墳所在地元の弥勒寺にある。すべて伝というため二等資料たらざるを得ないが関係遺物の主なるものである。四面中、銘文を持つものが2面あり、他は文様のみであるが、日本古墳出土の漢式鏡の中でも優れた部類に属する。弥勒寺収蔵の鏡は少し劣る。古墳内での所在箇所の関係か銅質の差か、外観からの判断では決定できない。天理参考館の3面は銅色もそろっているし、発掘後の保存もよい。(略)
(1) 四神四獣鏡 鏡面の径21.7cm、鏡背径20.3cm、鏡背径20.3cm、縁の厚さ1cm、(略)
(2) 神獣獣帯鏡 鏡面径21.7cm、鏡背径20.7cm、縁の厚さ1.1cm、(略)
(3) 盤龍画象鏡 鏡面径24.8cm、鏡背径22.5cm、縁の高さ1.3cm、(略)
(4) 吾作銘二神二獣鏡 鏡面径21.63cm、縁の高さ10mm、弥勒寺蔵、(略)
さらに、(4)の弥勒寺蔵の鏡については、①実物を見ると一見百年以上も昔に出土したことが分かる。 ②添付の書類に天保五年(1834)二月および天保六年の年記がある。この記録によると、この寺はむかし登美山の付近にあったため、山崩れか何かのときに埋もれてあったものか、という意味のことが記してある ③天保二年秋、狩谷掖斎(注5)に会った宗淵僧都なるものが、掖斎の収蔵する漢鏡の銘を写して弥勒寺蔵の漢鏡銘と比較するため、その当時の住職だろうか詮海(注6)に送ってきたことを記してある。(略)僧詮海の記録によっても、この鏡は茶臼山(注7)もしくは丸山出土という確証はない。何れは付近の古墳から発掘もしくは何れかの機会に検出せられたものとは考えられる。(略)
と記されている。
(注5)日本・中国古典研究者(1775-1853)、 (注6)正は、毎の下に水
(注7)丸山古墳の北、約200mの場所に茶臼山古墳と呼ばれる小高い築山がある。この古墳のことか? (以上)