歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

明日香村・檜隈寺跡 L字型かまど付竪穴住居跡 渡来系の証し

2009年09月17日 | Weblog
 奈良文化財研究所が17日、古代の渡来系有力氏族、東漢氏の氏寺とされ明日香村の檜隈寺跡で、7世紀前半~中頃の「L字形カマド」の石組のある竪穴住居跡が見つかったと発表した。
 かまどは排気用の煙道がL字形をした渡来系特有の構造。後の檜隈寺につながる仏堂のような建物が造られたころとみられ、同研究所は「生活の痕跡も少なく、造営にあたった工人が詰めた事務所だったのではないか」としている。
 竪穴住居跡は檜隈寺の講堂跡(7世紀後半造営)から北西約25mで見つかり、4.8m×3.5mの長方形。南西隅の壁際に人頭大の石を積み重ねて、かまどを設けていた。かまどの上部は崩れていたが、本来は粘土で覆われていたとみられる。
 煙道はたき口から延びて壁で直角に曲がり、長さ2・1m。煙道の幅はたき口約50cm、L字屈曲部約35cm、終点部約25cm。かまどのそばには壁を掘り込んで棚を作っていた。
 L字形カマドは、煮炊きした煙がすぐに屋外に出ないように煙道が設けられている。床下に煙道を設けた朝鮮半島の床暖房「オンドル」と同様に暖房の役割があるとされる。国内では4~8世紀の約40遺跡で確認されているが、石組みのものは滋賀県内の2遺跡(7世紀末と8世紀初頭)でしか確認されていない。
 カマドからは7世紀前半の瓦も出土。竪穴式建物は7世紀中ごろには埋め戻されていた。
 周辺でほかに住居跡が見つからないことから、一般の集落ではなく、寺にかかわる特殊な建物と判断した。
 日本書紀などによると、檜隈寺は7世紀後半から金堂や講堂を整備し、本格的な寺院になったとされる。
[参考:共同通信、産経新聞]

過去のニュース・情報
 2008.11.30 明日香村・檜隈寺跡 「呉」の異体字記した瓦出土
 2008.6.11 明日香村・檜隈寺跡 白鳳-天平期の金銅仏出土
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韓国・釜山新港工事現場から4千年以上前の新石器時代土器片が出土

2009年09月17日 | Weblog
 釜山地域では2007年に訥次島巨加大橋(눌차도 거가대교)工事現場で倭城の跡が発見されたりもしたが、最近、新石器遺跡が出土して、学界が注目している。
 17日文化財発掘調査研究専門団体の韓国文物研究院によれば去る3日、釜山江西区天加洞の新港浚渫土投機場事業敷地内の4千52㎡の遺跡発掘調査結果、新石器時代、三韓時代の竪穴遺構(一種のかまど)と瓦、柱穴、土器片が多量に出土した。
 今回の調査は本格的な遺跡発掘に先立ち実施したことで該当地域に幅2m、長さ15~25mのトレンチ23ヶ所を掘りおこして、地形と土壌の様相、遺構の分布可否などを部分的に把握した。
主な出土品
① 新石器時代の土器片は大部分が土器の口縁部片で影島東三洞貝塚(영도 동삼동 패총)、欲知島貝塚(욕지도 패총)など南海岸地域新石器遺跡で出土する土器と模様が似ており、時期は新石器時代中期で少なくとも4千年前以上のものと推定される。
② 影島(영선동)土器(宝物597号)のような無紋土器(무문토기)がほぼ完全な形で出土した。
③ 主に白頭山付近にだけ見られる黒曜石も出土した。文物研究院側はむしろ火山岩が多い日本との交流が活発な可能性に重きを置いている。

 韓国文物研究院は、出土状況から見ると、泗川勒島遺跡(사천 늑도유적)や鎭海龍院遺跡(진해 용원유적)など南海岸新石器遺跡と類似の跡を見せると話す。
[参考:聨合ニュース]
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木津川市・上津遺跡 泉津の大蔵省施設(コンテナターミナル)跡か

2009年09月17日 | Weblog
 木津川市教育委員会が16日、奈良時代に河川港の「泉津(いずみのつ)」として栄えた上津(こうづ)遺跡(同市木津宮ノ裏)で、建物跡から、奈良時代後期(8世紀後半)の漆が付着した壺や甕の土器片が出土したと発表した。
 当時、漆は税物の「調」の一つで国家に納められていた。地方から港に集められた漆を荷揚げし、甕に移すなどして管理・配分していたとみられ、市教委は「平城京にあった大蔵省の出先機能を持つコンテナターミナルだった可能性が高い」としている。
 市教委によると、発掘は、御霊神社北側の木津川堤防べり約100㎡で、8月から行った。直径15~30cmほどの掘立柱跡が約50見つかり、配置から、2棟以上の倉庫があったとみられる。今回新たに見つかった倉庫群とみられる掘っ立て柱建物跡から、内側に漆の付いた須恵器の長頸壺(ちょうけいこ)約20個分、甕(高さ、幅各40~50cm)3個分を確認した。製塩土器の破片や税物だった水銀朱が付いた須恵器もあった。人名の一部とみられる「足」と記された墨書土器もあった。
 長頸壺は高さ22~30cm、胴の直径が18cm前後で、最大約2ℓの容量があった。いずれも頸部が切り落とされ、胴部が割れていた。
 壺の形状は数タイプあり、北陸や山陰などさまざまな産地から漆が運ばれてきたこともうかがわせた。
 市教委は、当時の役人が漆を検査後、この建物で一部を貯蔵用の甕に移し替えて管理。ほかの役所にも配分し、仏像制作などに利用したとみている。
 現地説明会は20日午前10時と午後1時から行われる。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞、読売新聞]


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