橿原市教委が18日、推古天皇と息子の竹田皇子が一時的に埋葬された合葬墓とされ「植山古墳」(東西約40m、南北約30mの方墳、6世紀末~7世紀前半)で、墓域の周囲に設けた塀跡とみられる柱列の延長が約100mに達することが分かったと発表した。
史跡公園整備に伴い調査したところ、平成13年に続いて、新旧2時期の柱列を新たに発見した。古い柱列は、前回見つかった「へ」の字形の列からさらに南東に約30m延び、総延長は約100mになった。新しい柱列は、前回とは別の場所で南北約4.3m、東西約10mのL字形で見つかった。
柱列には新旧2つの時期があり、新しい柱列は見つかった土器片などから藤原京期(7世紀末)とほぼ特定した。藤原京の開発域が古墳のすぐ北側に迫っていることから、市教委は「藤原京整備に伴い、墓域を守る塀をリニューアルしたのでは」としている。 柱穴はいずれも直径約30cmで、深さは最大約80cm。間を板などでふさいで高さ2mほどの板塀にしたとみられる。
植山古墳は、東西約40m、南北約30mの長方形墳。竹田皇子が死亡した6世紀末ごろに造営され、628年に死亡した推古天皇を合葬。7世紀中ごろ、大阪府太子町の山田高塚古墳に改葬されたと想定され、市教委は「改葬で空になった後も塀を造り直して立ち入りを制限するなど、重要な空間と認識され続けたことが分かる」としている。現地説明会は行われない。
[参考:共同通信、産経新聞]
史跡公園整備に伴い調査したところ、平成13年に続いて、新旧2時期の柱列を新たに発見した。古い柱列は、前回見つかった「へ」の字形の列からさらに南東に約30m延び、総延長は約100mになった。新しい柱列は、前回とは別の場所で南北約4.3m、東西約10mのL字形で見つかった。
柱列には新旧2つの時期があり、新しい柱列は見つかった土器片などから藤原京期(7世紀末)とほぼ特定した。藤原京の開発域が古墳のすぐ北側に迫っていることから、市教委は「藤原京整備に伴い、墓域を守る塀をリニューアルしたのでは」としている。 柱穴はいずれも直径約30cmで、深さは最大約80cm。間を板などでふさいで高さ2mほどの板塀にしたとみられる。
植山古墳は、東西約40m、南北約30mの長方形墳。竹田皇子が死亡した6世紀末ごろに造営され、628年に死亡した推古天皇を合葬。7世紀中ごろ、大阪府太子町の山田高塚古墳に改葬されたと想定され、市教委は「改葬で空になった後も塀を造り直して立ち入りを制限するなど、重要な空間と認識され続けたことが分かる」としている。現地説明会は行われない。
[参考:共同通信、産経新聞]