歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

羽曳野市・庭鳥塚古墳 南河内初ののこぎり(鉄片)が出土

2009年09月18日 | Weblog
羽曳野市・庭鳥塚古墳 南河内初ののこぎり(鉄片)が出土
 同市教委が17日、平成17年に「庭鳥塚古墳」(同市東阪田)で見つかった板状の鉄片6枚はのこぎりであることが分かったと発表した。
 のこぎりの出土例は全国でも21例しか報告されておらず、南河内地方では初めて。市教委は「被葬者は新しい工具をいち早く入手できる立場だった」と分析している。
 鉄片は、17年の発掘調査で、木棺の周りに埋められていた副葬品とともに見つかった。鉄片は腐食が進んでおり、発見時は鉄剣の一部と考えられていた。その後の調査で、復元したところ全長約25cm、幅約3cmとなり、剣の一部とされていた鉄片の刃部分に厚みがなく、両端に柄が付いていたことをうかがわせる木の破片が残っており、ノコギリと判断した。
 鉄片は10月10日~12月13日、近つ飛鳥博物館(河南町)の企画展「河内平野の集落と古墳」で展示される。
[参考:産経新聞、読売新聞]

過去のニュース・情報
 2005.9.1 羽曳野市・庭鳥塚古墳 4世紀後半の古墳発見、三角縁神獣鏡・筒型銅器など出土
 羽曳野市教委が31日、庭鳥塚古墳(4世紀後半、全長約50mの前方後方墳)で、未盗掘の埋葬施設から中国製とみられる三角縁四神四獣鏡が見つかったと発表した。邪馬台国の女王・卑弥呼が死んだ直後の3世紀半ばに作られた古いタイプの三角縁神獣鏡という。静岡県磐田市の新豊院山D2号墳で見つかった鏡と同型だった。
 三角縁神獣鏡は、邪馬台国やヤマト政権が権威付けのため有力首長に配布したとの説があり、被葬者は早くからヤマト政権と結び付きを持ち、政権の軍事の一端を担った首長だった可能性が高いとする。
 後方部にある埋葬施設は箱型木棺(コウヤマキ製)を粘土で覆った粘土槨で、木棺は腐ってなくなっていたが、棺内とみられる場所から直径21・5cmの三角縁四神四獣鏡1枚と鉄剣1本と鉄器が発掘された。 
 棺外からは、東側でヤリ先1本、銅鏃13本、鉄鏃35本、筒形銅器1点、西側で鉄刀1振、銅鏃6本、鉄鏃14本、筒型銅器1点、鉄斧2点が出土した。多数の武器類が出土していることから、被葬者は武人的性格の強い首長とみられる。
 周辺には4世紀末以降の天皇陵級の古墳が集まる「古市古墳群」があり、同古墳群の形成を解明する上で重要な資料となりそうだ。
 9月3日に現地説明会が開催される。
[参考:共同通信、毎日新聞、朝日新聞、羽曳野市教育委員会HP]
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明日香村・檜隈寺跡 L字型かまど付竪穴住居跡 渡来系の証し

2009年09月17日 | Weblog
 奈良文化財研究所が17日、古代の渡来系有力氏族、東漢氏の氏寺とされ明日香村の檜隈寺跡で、7世紀前半~中頃の「L字形カマド」の石組のある竪穴住居跡が見つかったと発表した。
 かまどは排気用の煙道がL字形をした渡来系特有の構造。後の檜隈寺につながる仏堂のような建物が造られたころとみられ、同研究所は「生活の痕跡も少なく、造営にあたった工人が詰めた事務所だったのではないか」としている。
 竪穴住居跡は檜隈寺の講堂跡(7世紀後半造営)から北西約25mで見つかり、4.8m×3.5mの長方形。南西隅の壁際に人頭大の石を積み重ねて、かまどを設けていた。かまどの上部は崩れていたが、本来は粘土で覆われていたとみられる。
 煙道はたき口から延びて壁で直角に曲がり、長さ2・1m。煙道の幅はたき口約50cm、L字屈曲部約35cm、終点部約25cm。かまどのそばには壁を掘り込んで棚を作っていた。
 L字形カマドは、煮炊きした煙がすぐに屋外に出ないように煙道が設けられている。床下に煙道を設けた朝鮮半島の床暖房「オンドル」と同様に暖房の役割があるとされる。国内では4~8世紀の約40遺跡で確認されているが、石組みのものは滋賀県内の2遺跡(7世紀末と8世紀初頭)でしか確認されていない。
 カマドからは7世紀前半の瓦も出土。竪穴式建物は7世紀中ごろには埋め戻されていた。
 周辺でほかに住居跡が見つからないことから、一般の集落ではなく、寺にかかわる特殊な建物と判断した。
 日本書紀などによると、檜隈寺は7世紀後半から金堂や講堂を整備し、本格的な寺院になったとされる。
[参考:共同通信、産経新聞]

過去のニュース・情報
 2008.11.30 明日香村・檜隈寺跡 「呉」の異体字記した瓦出土
 2008.6.11 明日香村・檜隈寺跡 白鳳-天平期の金銅仏出土
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韓国・釜山新港工事現場から4千年以上前の新石器時代土器片が出土

2009年09月17日 | Weblog
 釜山地域では2007年に訥次島巨加大橋(눌차도 거가대교)工事現場で倭城の跡が発見されたりもしたが、最近、新石器遺跡が出土して、学界が注目している。
 17日文化財発掘調査研究専門団体の韓国文物研究院によれば去る3日、釜山江西区天加洞の新港浚渫土投機場事業敷地内の4千52㎡の遺跡発掘調査結果、新石器時代、三韓時代の竪穴遺構(一種のかまど)と瓦、柱穴、土器片が多量に出土した。
 今回の調査は本格的な遺跡発掘に先立ち実施したことで該当地域に幅2m、長さ15~25mのトレンチ23ヶ所を掘りおこして、地形と土壌の様相、遺構の分布可否などを部分的に把握した。
主な出土品
① 新石器時代の土器片は大部分が土器の口縁部片で影島東三洞貝塚(영도 동삼동 패총)、欲知島貝塚(욕지도 패총)など南海岸地域新石器遺跡で出土する土器と模様が似ており、時期は新石器時代中期で少なくとも4千年前以上のものと推定される。
② 影島(영선동)土器(宝物597号)のような無紋土器(무문토기)がほぼ完全な形で出土した。
③ 主に白頭山付近にだけ見られる黒曜石も出土した。文物研究院側はむしろ火山岩が多い日本との交流が活発な可能性に重きを置いている。

 韓国文物研究院は、出土状況から見ると、泗川勒島遺跡(사천 늑도유적)や鎭海龍院遺跡(진해 용원유적)など南海岸新石器遺跡と類似の跡を見せると話す。
[参考:聨合ニュース]
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木津川市・上津遺跡 泉津の大蔵省施設(コンテナターミナル)跡か

2009年09月17日 | Weblog
 木津川市教育委員会が16日、奈良時代に河川港の「泉津(いずみのつ)」として栄えた上津(こうづ)遺跡(同市木津宮ノ裏)で、建物跡から、奈良時代後期(8世紀後半)の漆が付着した壺や甕の土器片が出土したと発表した。
 当時、漆は税物の「調」の一つで国家に納められていた。地方から港に集められた漆を荷揚げし、甕に移すなどして管理・配分していたとみられ、市教委は「平城京にあった大蔵省の出先機能を持つコンテナターミナルだった可能性が高い」としている。
 市教委によると、発掘は、御霊神社北側の木津川堤防べり約100㎡で、8月から行った。直径15~30cmほどの掘立柱跡が約50見つかり、配置から、2棟以上の倉庫があったとみられる。今回新たに見つかった倉庫群とみられる掘っ立て柱建物跡から、内側に漆の付いた須恵器の長頸壺(ちょうけいこ)約20個分、甕(高さ、幅各40~50cm)3個分を確認した。製塩土器の破片や税物だった水銀朱が付いた須恵器もあった。人名の一部とみられる「足」と記された墨書土器もあった。
 長頸壺は高さ22~30cm、胴の直径が18cm前後で、最大約2ℓの容量があった。いずれも頸部が切り落とされ、胴部が割れていた。
 壺の形状は数タイプあり、北陸や山陰などさまざまな産地から漆が運ばれてきたこともうかがわせた。
 市教委は、当時の役人が漆を検査後、この建物で一部を貯蔵用の甕に移し替えて管理。ほかの役所にも配分し、仏像制作などに利用したとみている。
 現地説明会は20日午前10時と午後1時から行われる。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞、読売新聞]


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松江市・一の谷古墳 古墳から石の枕を置いた埋葬施設が発見される

2009年09月16日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財センターは15日、一の谷古墳(松江市下東川津町)から、埋葬された人の頭を置く枕石がある埋葬施設を発見したと発表した。墓坑が中心より東に偏っているのも特徴。
 古墳時代中期(5世紀後半)の方墳で、一辺18m、高さ2m。本来、中心に配置されるべき墓坑(3.2m×0.6m)が東へ約1・5m寄った位置で掘り出された。箱形木棺を納めたとみられ、直径10cm程度の自然石製の枕石が2つ並べられていた。自然石の枕石は県内で10例目となる。木棺の傍らには、鉄鏃14本が副葬されていた。
 中心に墓坑が無いことなどから、本来葬られるべき人物が埋葬されず、その下位にあたる人物だけが葬られた可能性があるとみる。古墳の中央に配置されていない墓坑が発見されたのは県内初。
 並行して調べていた、北西500mにある平安時代の集落「古屋敷II遺跡」と併せて、19日午前10時から現地説明会が開かれる。
[参考:2009.9.16中国新聞、2009.9.18毎日新聞、島根県教育庁埋蔵文化財調査センターHP]
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宝塚市・長尾山古墳 埋葬儀礼用?土師器片を発見、大和政権の結びつきを示す?

2009年09月16日 | Weblog
 発掘調査を行っている同市教委と大阪大考古学研究室は15日、同市山手台東の長尾山古墳(4世紀初頭)で木棺が納められていた後円部の頂上部分で、葬送儀礼に使われたとみられる土師器片が多数見つかったと発表した。大和政権の初期古墳でも見つかっているが、県南東部から大阪府北西部にかけての猪名川流域では初めて。被葬者と大和政権との結びつきを示す資料となる。
 後円部の頂上には、棺を設置するために掘られた8~5mの穴の跡があった。その中心部分には木棺が朽ちて土が落ち込んだとみられるくぼみ(長さ3.3m、幅60cm)があり、土の中から、こぶし大ほどの大量の石とともに約50点の土師器のかけらが見つかった。
 古墳の周囲の斜面部分からは、石が敷き詰められた跡が見つかっており、長い年月のうちに、石が流出したらしい。土師器は丸底の壺とみられ、同研究室では埋葬が終わった後に、飲食を伴う儀礼を行った跡とみている。
 葬送儀礼の形跡は、古墳時代前期(3世紀後半から4世紀)の大型前方後円墳が集中する奈良県桜井、天理両市で見つかっている。
 現地説明会は19日午前10時30分から行われる。
[参考:読売新聞]

過去のニュース・情報
 2008.9.19 宝塚市・長尾山古墳 摂津地域最古の埴輪列が出土
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韓国・京畿金浦で3世紀の馬韓勢力墳墓を大量に発掘し、鉄器類、鉄製武器類などが多数出土

2009年09月16日 | Weblog
 京畿金浦の漢江流域で3世紀頃の馬韓(마한)勢力の墳墓群が大量に発掘された。
埋蔵文化財専門調査機関の漢江文化財研究院は16日、漢江下流に隣接した海抜65mの丘陵頂上部にある金浦市雲陽洞発掘調査現場で青銅器時代住居址3基と原三国~三国時代の墳墓17基、統一新羅~高麗時代の石槨4基などを確認したことを明らかにした。
 原三国~三国時代墳墓は3世紀始め~後半代のことで、墓周辺を方形あるいは円形の溝で囲まれている。
 この周溝墓(주구묘)は主に忠清湖南地域で確認された馬韓の墓形態で、最近仁川東陽洞金浦鶴雲里などの地でも発掘された。
 墓と共に土器類と鉄器類、装身具など遺物も出土したが、特に環頭大刀(환두대도)などの鉄剣など鉄製武器類が多く、金製装身具は現在まで国内で類例のない最も早い時期の金製品だという。
 また長さ120cmの鉄剣と水晶玉などを見ると、この遺跡の周溝墓は、当時楽浪など周辺地域との交易で重要な役割をした支配階層の墓であるようだ。馬韓の墓は金剛流域や栄山江流域で主に出てきたし、仁川と金浦など漢江下流側から1-2基が出てきたことはあるが10基以上大量発掘されたことは今回が初めてであり、土器類と鉄器類など楽浪と嶺南から持ち込まれた遺物が出土して、この地域と違った地域と多様な交流をしたという事実が明らかになったとする。
[参考:2009.9.16聨合ニュース]
(注1) ソウルから東北東方向に約30km、漢江の南側に位置する。

これまでの出土品より100年遡る、金製イヤリングと推定される金製装身具が出土
 全3点が確認された金製装身具は反円錘形(長さ2.5㎝)であり、上部の狭い側を切り取って巻き上げたのが特徴である。
 これまでに確認された最も古い時期のイヤリング、百済・石村洞古墳出土品(4世紀)と新羅・慶州月城路古墳出土品(4世紀末)、より100年以上古いイヤリングが出土した模様としている。中国東北方の金製イヤリングと類似しているという。
 出土品としては、ほかにも水晶玉、玉類などがある。
[参考:2009.9.17ソウル新聞ほか]

キーワード:雲陽洞遺跡
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桜井市・箸墓古墳 2重の周濠が巡らされていたことが確実に

2009年09月15日 | Weblog
 市教育委員会が15日、邪馬台国の女王卑弥呼の墓の説がある桜井市の箸墓古墳(前方後円墳、全長約280m、3世紀半ば~後半)で、外濠の外縁部に盛り土の跡が見つかったと発表した。
 盛り土跡が見つかったのは古墳前方部の南側で、高さ約1m、幅5~11m。盛り土の内側は深さ約1・2~1・6m、幅50m以上の掘り込みになっており、外濠にあたるとみられる。堤のような施設とみられ、外濠が人為的に整備されたことを裏付ける史料。
 墳丘の周りではすでに内濠の跡が確認されており、市教委は「墳丘に2重の周濠が巡らされていたことが確実になった。」としている。
 さらに、その内側には高さ約1・5m、幅約6mの土の盛り上がりが新たに見つかり、内濠と外濠を隔てる「内堤」とみている。
 箸墓古墳の周濠はこれまでの調査で、内濠と外濠とみられる地面の落ち込みが部分的に確認されていたが、墳丘の築造に必要な土を手に入れるために地面を削り取ったまま放置したのか、人為的に整備したのか不明だった。
 二重周濠は古墳時代中期(5世紀)以降に多く、これまで最古の二重周濠は4世紀後半の津堂城山古墳(大阪府藤井寺市)とされていた。 外側の盛り土が堤ならば、津堂城山古墳を100年以上さかのぼることになり、箸墓古墳の特殊性を改めて裏付ける。
 現地はすでに埋め戻されており、説明会の予定はない。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、朝日新聞、読売新聞]

過去のニュース・情報
 2008.8.27桜井市 箸墓古墳 前方部に幅60mの外濠
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沼津市・辻畑古墳 現地説明会に1200人が集まる

2009年09月14日 | Weblog
 国内最古級の3世紀に築造された可能性が出てきた沼津市東熊堂の「辻畑古墳」で13日、発掘調査現地説明会が開かれ、約1200人が集まった。
 見学者たちは遺構の後方から、舟形の木棺跡がある高さ4mの墳丘に登り、前方からも見渡して全体像を確かめた。
[参考:毎日新聞、静岡新聞、中日新聞、朝日新聞]

おさらい
大きさ:全長約62m、後方部幅(推定)35m、墳丘高さ約4.5m、前方部最大幅(推定)24m、墳丘高さ約4m、くびれ部幅9.6m、周溝あり
 主軸は南北方向(前方部が南側)で、沼津市の3つの前方後円墳(注)の主軸が東西方向(前方部が西側)であるのに比べて相異。
  (注)子の神古墳(全長48m)、神明塚古墳(全長54m、5世紀後半)、長塚古墳(全長54m、6世紀前半)
埋葬施設:1箇所(後方部墳長1.2m下)、木棺直葬・木棺の形状:舟形木棺(推定)、頭部は東側
出土遺物:銅鏡1~2面、槍1点、鉄鏃10点以上、ヤリ鉋1点、土器類(高杯、壺、甕など)
 土器類には、廻間II式期の有段高杯、東海系加飾壺やS字甕、大廓式土器が含まれるという。
 築造時期は3世紀、さらに3世紀前半の230年頃との指摘もある。

過去のニュース・情報
 2009.9.7 沼津市・辻畑古墳

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上越市・聚楽第行幸図屏風 一般公開が始まる(10月4日まで)

2009年09月13日 | Weblog
 豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第に招いた際の光景を描いた一対の屏風が新潟県上越市で見つかり、市立総合博物館で12日、一般公開が始まった。
 「御所参内・聚楽第行幸図屏風」(各高さ1.56m、幅3.58m)は、右に天皇が乗った輿(こし)の行列が聚楽第に向かう様子が、左に秀吉の牛車の列が聚楽第から御所に向かう様子が、それぞれ描かれている。一面に金箔が施され、人物や風景が丁寧に描かれている。
 聚楽第は、秀吉が現在の京都市上京区周辺に築いた豪邸で、「聚楽第行幸」(1588年)によって自らの威勢を天下に示したとされる。しかし、建物は完成からわずか8年で解体された。
 同館によると、聚楽第を描いた屏風は3例確認されているが、秀吉の御所参内と行幸の光景がそろったものが発見されたのは初めて。
 秀吉の死後、慶長年間(1596~1615)初期に制作されたとみられ、上越市の個人が所蔵し、昨年11月、同館に鑑定を依頼した。狩野博幸同志社大教授(日本近世美術史)の鑑定で、左下に聚楽第の南門が描かれていることなどが分かった。重要文化財級の作品との評価も得たという。
公開は10月4日まで。
[参考:毎日新聞、読売新聞、新潟日報]
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福岡県上毛町・ハカノ本遺跡 奈良~平安の居館跡などを確認

2009年09月13日 | Weblog
 県教委は11日、昨年12月からで実施していたハカノ本遺跡(築上郡上毛町緒方)の第2次調査で、計28棟の建物跡を発掘し、うち西側部分から8-10世紀の奈良から平安時代の郡衙の長官で郡司か地元有力者の居館(屋敷)跡など15棟を確認したと発表した。
 同町では、同遺跡から北に1.9km離れた大ノ瀬下大坪遺跡が郡衙と推定されている。今回確認した遺跡が郡司の居館だった場合、半径約3km圏内に、官道跡、寺院跡(垂水廃寺)、瓦を製造した瓦窯跡など郡衙を構成する全要素が発見されたことになるという。
 縦58m、幅28mの柵で囲われた敷地の中央に、縦4.8m、幅5.8mの庇を持った4面庇建物が配置され、左右には対称的に細長い副屋があった。当時の公的建造物に用いられる配置法という。屋敷の周り2カ所に目隠し塀のほか、土器、瓶などの破片が約100点が見つかっており、郡司の居館とみられるという。
 このほか、鎌倉時代の武士か豪農とみられる住居跡を発掘。溝からは表に馬、裏に牛が描かれた絵馬も見つかった。
 13日午後2時から現地説明会が行われる。
[参考:西日本新聞、毎日新聞]
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滑川市・上梅沢遺跡 古墳時代初頭の円墳が出土

2009年09月12日 | Weblog
 滑川市の上梅沢遺跡(滑川市梅沢地内)で8日までに、古墳時代初期(三世紀)の円墳などが発見された。円墳は県西部で見つかることが多く、同市内で出土したのは初めて。
 調査は、県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所により8月から実施。3世紀ごろとみられる直径約20mの円墳と周囲からは祭祀に用いられる赤彩土器なども出土した。
 ほかに、古墳時代終末期の竪穴住居跡計6棟も見つかり、うち5棟にはかまど跡も確認した。
 かまど内で土器を火にかけるときの台として使われる支脚や、底には小さな穴が開いていて蒸し器のように使用した甑(こしき)、煮炊きに使ったとみられる「土師器」もあり、当時の炊事道具がほぼ一式残されていた。
 堀立柱建物跡や畑、道路とみられる遺構も見つかった。水の浸入を防ぐため、周囲に溝を巡らせた「周溝」を備える住居跡もあった。
 現地説明会が12日に行われる。
[参考:2009.9.9北日本新聞、2009.9.12中日新聞]
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磐田市・遠江国分寺跡 塔本塑像の頭部出土

2009年09月12日 | Weblog
 同市教委が10日、奈良時代8世紀に建立された遠江国分寺の跡地(同市見付・中泉)で、七重塔跡近くから「塔本塑像」の一部が出土したと発表した。国分寺跡での塔本塑像の出土は、前橋市の上野国分寺跡に続き全国2例目。
 7層あったと推定される塔の1層目に安置されていた「塔本塑像(とうほんそぞう)」の一部とみられる。
 出土した頭部は高さ7・8cm、幅5・3cm、奥行き6cmで、奈良時代の仏像の特徴である卵形の輪郭をしている。顔料で彩色されていた跡があり、髪の生え際や鼻、耳の形が残る。如来像か菩薩像とみられ、座像なら高さ40cm前後だったと推測されるという。塔跡の北側約8mの深さ20cmの地中から、多量の瓦とともに見つかった。
 市教委によると、心棒に土を盛って作る塑像は8世紀の仏像の主流技法だが、陶器のように焼いて作るわけではないので、地中の遺跡からそのままの形で見つかることはない。今回見つかった頭部は素焼きされたような状態だった。
 遠江国分寺は平安時代の歴史書「類聚国史」に記述のある819年に火災があったとされるが、これまで火災に遭った痕跡がないとされていた七重塔が金堂などとともに焼失していたことが分かったという。
 聖武天皇が741年に建立を命じた国分寺は1国1寺の官営寺院で、塔内部の装飾などは華美でないと考えられていたが、中央や地方の有力豪族が建立した寺院と同様、塔の内部が美しく彩色された仏像群で彩られていたと推測できるとする。遠江国分寺は8世紀後半に完成。火災に見舞われながらも、11世紀頃まで続いたと推定されている。
 塔本塑像の代表格は、釈迦入滅の様子をジオラマのように表現した奈良・法隆寺五重塔の「塔本四面具」が有名。
 仏像の頭部は11~18日、市立中央図書館東側の市埋蔵文化財センターで一般公開される。
[参考:中日新聞、静岡新聞、朝日新聞]

過去のニュース・情報
  2009.1.23 遠江国分寺跡/磐田市 七重の塔の間取り判明 僧坊跡?の柱跡が出土
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高岡市・下佐野遺跡 古墳時代初期の前方後方墳(長さ20m)が出土

2009年09月11日 | Weblog
 富山県文化振興財団による発掘調査で8日までに、下佐野遺跡(高岡市佐野)から古墳時代初期(約1700年前)とみられる前方後方墳が出土し、その中に「主体部」と呼ばれる遺体を埋葬した穴が見つかった。
 出土した前方後方墳は長さ約20mで中央の主体部は長さ2.8m、幅1.3m。副葬品は出ていない。当時の権力者の墓とされる前方後方墳の主体部の発見は北陸地方では珍しい。
 庄川扇状地に位置する下佐野遺跡は弥生時代から中世までの遺構とされ、弥生土器の出土地として知られる。
 ほかに、弥生後期から古墳時代前期の溝で四角く囲んだ5m前後の方形周溝墓や弥生後期の竪穴住居跡、土師器の破片約30点などの遺物も出土した。
 12日午前9時から現地説明会が行われる。
[参考:北日本新聞、中日新聞]
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佐賀市・三重津海軍所跡 船渠は修理が主目的か、遺構を報道人に公開

2009年09月11日 | Weblog
 佐賀市教委は10日、三重津海軍所跡で初めて確認された船渠(ドッグ)跡の遺構とみられる木杭護岸を報道陣に公開した。
 木杭護岸は直径15cm程度の杭を一列に並べ、壁の崩落を防ぐため横木を渡すほか、護岸の強度を上げるため捨て石替わりに石炭が置かれていた。胴木2本も護岸と直交する形で組み込まれていた。
 船渠跡は当初、蒸気船「凌風丸」建造の可能性も考慮されたが、船の建造には水を完全に取り除く必要がある。木杭では水の浸入が防げず、市教委は主に修理に使われたドックと推測した。
[参考:佐賀新聞]

2009年09月10日 三重津海軍所跡 ドック護岸跡を確認、蒸気船建造の遺構か 
 佐賀市教委は9日、新たにドック跡の遺構とみられる木杭護岸を確認した。ドック跡は国産初の実用蒸気船「凌風丸」を建造した遺構の可能性も高い。
 調査場所は早津江川河川敷の一角約400㎡。三重津海軍所絵図によると、一帯は船渠とされ、奥行き70m、幅は最大で50mと推定される。
 見つかった護岸跡は、その一部で、地表から約1・6m掘り下げた地点で確認。長さ約3mの間に、約20本の木杭(長さ約80cm、直径約15cm)が直線に並んでいた。護岸とともに、船を固定し作業のため橋をかける胴木2本も見つかった。木杭は横木を渡し縄で固定されていた。
 周辺では既に金属加工設備の存在が裏付けられている。
[参考:佐賀新聞]

過去のニュース・情報
 三重津海軍所跡
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