一昨年2007年、王興寺(왕흥사)木塔跡調査過程で、木塔心礎から舎利壮厳具が発見され、その中の銘文には577年に百済王・昌が亡くなった王子のために寺を建てたと刻まれていた。
国立扶余文化財研究所は29日、忠南扶余郡王興寺跡における今年度の発掘調査で6世紀百済時代寺院の中では規模が最も大きい講堂跡が確認されたと発表した。
① 金堂跡北側基壇から16m離れた地点で、東西46.8m、南北19.2mの講堂跡南側基壇を確認。
百済寺院の講堂規模
扶余・軍守里寺跡 45.5×15.2m 6世紀
扶余・金剛寺跡 45.1×19.1m 6世紀
扶余・陵山里寺跡 37.4×18.0m 6世紀
益山・弥勒寺跡 62.9×22.0m 7世紀
参考・慶州・皇龍寺跡 54.7×15.9m 6世紀(草創期・新羅)
したがって、王興寺跡講堂は百済2番目の規模、6世紀代では最大規模である。
② 講堂跡は東・西・北側基壇は30㎝前後の割石を積んで作ったが、金堂と向き合う南側基壇は整えた石材を利用した架構式(가구식)基壇であった。
③ 南側基壇の外側では10㎝前後ある石と瓦をびっしりと敷き詰めた「雨落溝」(낙수받이시설、注1)があらわれた。 このような施設は金堂跡西側建物跡でも一部確認されたことがある。
(注1) 訳すと、雨水を受ける施設あるいは雨樋であるが、雨落溝のことか。
④ 講堂跡西側基壇から1m離れた地点で、東側基壇は石、南側基壇は平瓦を積んで作った建物跡1棟が確認された。
⑤ 東西回廊と北側に続く東西建物跡の規模と範囲を確認した。
西側建物跡は東西幅13.2m、南北長48.0mであり、東側建物跡は東西幅14.0m、南北長(推定) 48.0mであった。
この二つの建物の北側基壇は講堂跡の南側基壇と一直線上に配置された。
⑥ 西側建物跡から西方に6m離れた地点で基壇石列が露われ、この一帯に他の建物跡があるということが確認された。
[参考:聨合ニュース]
国立扶余文化財研究所は29日、忠南扶余郡王興寺跡における今年度の発掘調査で6世紀百済時代寺院の中では規模が最も大きい講堂跡が確認されたと発表した。
① 金堂跡北側基壇から16m離れた地点で、東西46.8m、南北19.2mの講堂跡南側基壇を確認。
百済寺院の講堂規模
扶余・軍守里寺跡 45.5×15.2m 6世紀
扶余・金剛寺跡 45.1×19.1m 6世紀
扶余・陵山里寺跡 37.4×18.0m 6世紀
益山・弥勒寺跡 62.9×22.0m 7世紀
参考・慶州・皇龍寺跡 54.7×15.9m 6世紀(草創期・新羅)
したがって、王興寺跡講堂は百済2番目の規模、6世紀代では最大規模である。
② 講堂跡は東・西・北側基壇は30㎝前後の割石を積んで作ったが、金堂と向き合う南側基壇は整えた石材を利用した架構式(가구식)基壇であった。
③ 南側基壇の外側では10㎝前後ある石と瓦をびっしりと敷き詰めた「雨落溝」(낙수받이시설、注1)があらわれた。 このような施設は金堂跡西側建物跡でも一部確認されたことがある。
(注1) 訳すと、雨水を受ける施設あるいは雨樋であるが、雨落溝のことか。
④ 講堂跡西側基壇から1m離れた地点で、東側基壇は石、南側基壇は平瓦を積んで作った建物跡1棟が確認された。
⑤ 東西回廊と北側に続く東西建物跡の規模と範囲を確認した。
西側建物跡は東西幅13.2m、南北長48.0mであり、東側建物跡は東西幅14.0m、南北長(推定) 48.0mであった。
この二つの建物の北側基壇は講堂跡の南側基壇と一直線上に配置された。
⑥ 西側建物跡から西方に6m離れた地点で基壇石列が露われ、この一帯に他の建物跡があるということが確認された。
[参考:聨合ニュース]
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