奈良文化財研究所と興福寺が25日、興福寺(奈良市登大路町)で、創建された8世紀前半の奈良時代のものとみられる「南大門」の基壇跡や、柱を支える礎石、階段などが出土したと発表した。
南大門は平城京遷都(710年)から間もない時期に建立され、罹災のたびに再建。享保2(1717)年の焼失後は再建されず、釘貫門(くぎぬきもん)と呼ばれる簡略な形式だったとみられていた。
「興福寺流記」(平安末―鎌倉初め)によると、正面幅は5間(柱6本)で、室町時代の資料にも二重の南大門が描かれている。今回の調査で、文献や絵図の記載通り、基壇は東西31m、南北16・7m、高さ最大1・4mで、「版築」の工法で造られていた。柱穴は東西3列、南北5列の計15か所出土し、直径2~2・5m程度。一部の穴では礎石も残っていた。基壇の上面が近代以降に削られた東側と合わせて計18本の柱があったとみられ、南大門は東西23・4m、南北9m、高さは20m前後と推定される。同時期では東大寺(東西28・8m、南北10・8m)や薬師寺(東西25・8m、南北9・6m)などに次ぐ規模だったことがわかった。興福寺は「調査結果をもとに基壇を復元したい」としている。
一方、東西両端では火災で失われたとされる2体の「金剛力士像」が安置された台座の基礎(2・8m四方)も見つかった。1辺1m弱の大きな凝灰岩の切り石を十数個並べ、上面を平らに整えた。その下からは焼けた土が見つかり、最初に焼失した1046年(平安時代)以降に再建されたらしい。穴の大きさなどから、像の高さは6~7mだったとみられる。南大門は、現在の三条通りに当たる三条大路に面するがけの上に立っていた。現在の三条通りの路面から門の基壇上までの高低差は約5・2mもある。
現地見学会は27日午前10時30分から。
[参考:読売新聞、共同通信、毎日新聞、2009.6.21奈良新聞]
興福寺、南大門の基壇跡出土…壮大な規模実証(読売新聞) - goo ニュース
南大門は平城京遷都(710年)から間もない時期に建立され、罹災のたびに再建。享保2(1717)年の焼失後は再建されず、釘貫門(くぎぬきもん)と呼ばれる簡略な形式だったとみられていた。
「興福寺流記」(平安末―鎌倉初め)によると、正面幅は5間(柱6本)で、室町時代の資料にも二重の南大門が描かれている。今回の調査で、文献や絵図の記載通り、基壇は東西31m、南北16・7m、高さ最大1・4mで、「版築」の工法で造られていた。柱穴は東西3列、南北5列の計15か所出土し、直径2~2・5m程度。一部の穴では礎石も残っていた。基壇の上面が近代以降に削られた東側と合わせて計18本の柱があったとみられ、南大門は東西23・4m、南北9m、高さは20m前後と推定される。同時期では東大寺(東西28・8m、南北10・8m)や薬師寺(東西25・8m、南北9・6m)などに次ぐ規模だったことがわかった。興福寺は「調査結果をもとに基壇を復元したい」としている。
一方、東西両端では火災で失われたとされる2体の「金剛力士像」が安置された台座の基礎(2・8m四方)も見つかった。1辺1m弱の大きな凝灰岩の切り石を十数個並べ、上面を平らに整えた。その下からは焼けた土が見つかり、最初に焼失した1046年(平安時代)以降に再建されたらしい。穴の大きさなどから、像の高さは6~7mだったとみられる。南大門は、現在の三条通りに当たる三条大路に面するがけの上に立っていた。現在の三条通りの路面から門の基壇上までの高低差は約5・2mもある。
現地見学会は27日午前10時30分から。
[参考:読売新聞、共同通信、毎日新聞、2009.6.21奈良新聞]
興福寺、南大門の基壇跡出土…壮大な規模実証(読売新聞) - goo ニュース