歴歩

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奈良市・興福寺 創建当初の南大門の基壇跡出土

2009年09月25日 | Weblog
 奈良文化財研究所と興福寺が25日、興福寺(奈良市登大路町)で、創建された8世紀前半の奈良時代のものとみられる「南大門」の基壇跡や、柱を支える礎石、階段などが出土したと発表した。
 南大門は平城京遷都(710年)から間もない時期に建立され、罹災のたびに再建。享保2(1717)年の焼失後は再建されず、釘貫門(くぎぬきもん)と呼ばれる簡略な形式だったとみられていた。
 「興福寺流記」(平安末―鎌倉初め)によると、正面幅は5間(柱6本)で、室町時代の資料にも二重の南大門が描かれている。今回の調査で、文献や絵図の記載通り、基壇は東西31m、南北16・7m、高さ最大1・4mで、「版築」の工法で造られていた。柱穴は東西3列、南北5列の計15か所出土し、直径2~2・5m程度。一部の穴では礎石も残っていた。基壇の上面が近代以降に削られた東側と合わせて計18本の柱があったとみられ、南大門は東西23・4m、南北9m、高さは20m前後と推定される。同時期では東大寺(東西28・8m、南北10・8m)や薬師寺(東西25・8m、南北9・6m)などに次ぐ規模だったことがわかった。興福寺は「調査結果をもとに基壇を復元したい」としている。
 一方、東西両端では火災で失われたとされる2体の「金剛力士像」が安置された台座の基礎(2・8m四方)も見つかった。1辺1m弱の大きな凝灰岩の切り石を十数個並べ、上面を平らに整えた。その下からは焼けた土が見つかり、最初に焼失した1046年(平安時代)以降に再建されたらしい。穴の大きさなどから、像の高さは6~7mだったとみられる。南大門は、現在の三条通りに当たる三条大路に面するがけの上に立っていた。現在の三条通りの路面から門の基壇上までの高低差は約5・2mもある。
 現地見学会は27日午前10時30分から。
[参考:読売新聞、共同通信、毎日新聞、2009.6.21奈良新聞]



興福寺、南大門の基壇跡出土…壮大な規模実証(読売新聞) - goo ニュース
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香川県観音寺市・椀貸塚古墳 横穴式石室の羨道の一部を確認

2009年09月25日 | Weblog
 観音寺市教委が墳丘規模確認を目的に発掘調査を進めてきた椀貸塚(わんかしづか)古墳(同市大野原町)で、これまで不明だった横穴式石室の羨道の一部を確認した。
 古墳時代後期~終末期(6世紀後葉~7世紀中頃)、大野原に巨石を用いた巨大な横穴式石室や大規模な墳丘のある椀貸塚古墳、角塚古墳及び平塚古墳が連続して築造された。
 椀貸塚古墳は、6世紀後半から7世紀前半にかけて築造された大型円墳(直径35m、高さ7m)で、玄室は香川県内最大規模。周濠があり、周囲110m。横穴式石室は全長10.1m、玄室長さ6.7m、巾3.25m、高さ3.8m、羨道長さ3.4m。
 現地説明会が26日午後1時半から行われる。(小雨決行)
[参考:四国新聞、観音寺HP]



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