歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

沼津市・辻畑古墳(前方後方墳) 土器などの分析から日本最古級230年前後の築造か

2009年09月07日 | Weblog
 市教育委員会は7日、愛知県埋蔵文化財センターが調査を指導する沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)・高尾山穂見神社・熊野神社旧境内地の辻畑古墳(つじばたけこふん、前方後方墳、南北約62m、東西推定35m)が、日本最古級の可能性があることが分かったと発表した。
 周濠の底からは、祭事に使われたとみられる高坏1点が割れた状態で見つかった。破片もほぼ全部分あり、高さ20cm、直径25cmの杯状の器に円錐形の脚部(底面の直径約12cm)がある。脚部の上の方に、櫛で引いたような横じまが入るなど「廻間(はさま)Ⅱ式」と呼ばれる特徴があるという。調査指導する愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎調査課長は、形状などから高坏は230年前後の製造と指摘。土器片が一カ所でまとまって見つかったことなどから古墳完成後の祭事に使われ、土器の製造と同じころに古墳があったと考えられると話す。
 二つの墳丘のうち、北側の後方部が一回り大きく、高さ4.5mで墳頂の1m下に副葬品を伴う木棺跡が検出された。銅鏡や鉄鏃、壺等の副葬品の組み合わせや土器を調べたところ、3世紀中頃から後半のものという。
 3世紀半ば~後半の築造とされる弘法山古墳(長野県松本市)で似た形の鉄鏃が出土している。鏡は「破鏡」であり、壺の中には軽石を含む材質の「大廓(おおくるわ)式土器」に分類できるものがあった。それらは、3世紀代の特徴で、古墳も同時期の築造と言うことができる。
 名古屋大と共同して科学的に分析し、築造時期の特定作業を進めている。
 市教委は今年秋に発掘調査を終える予定。
 現地説明会が、13日午前10時、午後1時半の2回行われる。
[参考:中日新聞、東京新聞、毎日新聞、共同通信]



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島根県浜田市・最古の国分寺本尊か 8世紀作の可能性

2009年09月07日 | Weblog
 県立石見美術館が7日、浜田市の寺にあった仏像の頭部が奈良時代に建てられ消失した「石見国分寺」の本尊、薬師如来座像だったとみられることが分かり発表した。
 頭部は高さ69cm、幅26cmで、全体が黒く焦げており火災で焼け残ったものらしい。復元すると120cmになるとみられる。
 科学的な年代測定は行われていないが、制作時期は、一本の木を彫り抜いた土台に粘土などで肉付けする「木心塑像」であり、目鼻立ちがはっきりしていない特徴から、8世紀後半とみられるという。確認されれば全国各地にあった国分寺の本尊としては最古という。
  江戸時代の文献によると、仏像は荒廃した国分寺から農民の手に渡り、同時代に別の寺に移されていたが、仏像があった建物が火災に遭ったという。
 2005年に国分寺の跡地近くの寺に保管されているのが見つかり、同美術館が学術調査を進めていた。
 仏像は18日から11月16日まで同美術館で展示される。
[参考:共同通信、読売新聞]

石見国分寺跡
 石見国分寺跡は現在の浄土真宗金蔵寺(こんぞうじ)境内にあたり、塔跡と礎石が一部残っているのみで、全体像は明らかになっていない。
 昭和60年(1985)に塔跡が一部発掘調査され、調査の結果、塔跡の縁に並んだ磚列(せんれつ)が確認された。12~14mの基壇の上に約8m四方の塔が建っていたと考えられている。
 その後も周辺が発掘調査が行われ、真北方向に延びる溝状遺構が見つかり、炭化物、火を受けた銅造誕生釈迦仏立像(市指定)が出土した。国分寺が平安時代後半に火災にあった可能性も考えられている。
 石見国分寺は瓦・土器などから当初からこの地に造られており、国府地区が古代石見国の中心であったことを示している。
[参考:浜田市HP]
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韓国浦項市北区興海邑中城里・浦項中城里新羅碑 最古の新羅碑石と確認

2009年09月07日 | Weblog
 今年5月に浦項市北区興海邑中城里で発見された、新羅時代の碑石が最古の新羅碑と確認された。

[発見からこれまでの経緯]
 2009.05.上旬 興海邑学城里(학성리)の道路開設工事現場の端に残された扁平な石を住民(金憲道氏)が見つけ、数日間も石がそのまま放置されていたので、家に移して使おうと洗浄しているうちに文字が現れた。(11日)
 2009.05.13 金氏が浦項市に申告することによって、この碑が知られることになった。以降、文化財庁に報告して、文化財庁ではこの碑の安全な管理と保存処理などのために国立慶州文化財研究所関係者を現場に派遣して、実態調査した後、研究所で保管するように措置した。
 2009.05.15 聯合ニュースなどが報じる。この碑は、不定形の花崗岩(最大長104㎝、最大幅49㎝、厚さ12~13㎝、重さ115kg)の片面にだけ印刻され、碑の下段部に約20㎝程度余白があるだけで、上段部まで字がいっぱい刻んでいる。全12行、約200文字が確認され、当初「浦項学城里碑」(仮称)と呼ばれた。
 碑文には、「阿干支」(新羅第17官中6官など)の「干支」等の字が確認され、特に最初に書かれている「辛巳」は、この碑が建設された時期を示すもので、碑の内容からみると6世紀(辛巳年は501年、561年)ものと推定されるとしていた。 ただし、561年に建設された「昌寧真興王拓境碑」等に「阿尺干」、「沙尺干」等で表記されている官等名がこの碑では「阿干支」、「沙干支」等と現れることから、501年である可能性が高いとみられた。
 碑が発見された地点は、1989年に発見された「迎日冷水里碑」(国宝第264号、503年と推定)が発見された地点から東に約8km離れたところにある。
 2009.09.01 朝鮮日報が、「現存最古の新羅碑は財産紛争と関連した判決内容を書いた」という調査結果を報道。
 2009.09.02 国立慶州博物館で一般公開される。
 2009.09.03 国立慶州文化財研究所が慶州普門団地内ドリームセンターで、この碑石の発見記念学術大会を開催した。

[これまでに、わかったこと]
 片面に203字の漢字が陰刻で彫られている。
 この碑石は発見当時には「学城里」と報告されたが、発見地点が学城里でなく中城理(중성리)と確認され、名称が「浦項中城里新羅碑」と変更された。中城里は1989年冷水里新羅碑が発見された地点から東に約8.7km程度離れた所にある。
 碑文では王の教示を意味する「教」とか新羅6部の一つの沙喙部、村落の名前である「古利村」、官職の中の一つの「道使」とか「使人」、新羅17官のうち6番目の阿干支など「干支」が確認される。
 特に書かれた「辛巳」年から、作られた時期は501年または441年と推定され、碑文の内容が「迎日冷水里碑」と同様な財産と関連した訴訟の判決文と確認されたことから501年(智証王2年)の可能性が高いとみられている。現地人などに、後世に警告を示す内容を記載して建てたとみられる。
 碑文は「辛巳□□中折盧'□...」と記されている。解読文は全文が国立慶州博物館ホームページで公開されている。
[参考:聯合ニュース、朝鮮日報]
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