歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

福井県美浜町・興道寺廃寺 南門や講堂跡を確認

2009年09月19日 | Weblog
 美浜町教委は17日、興道寺廃寺で、「南門」の跡や、「講堂」とみられる建物跡を新たに確認したと発表した。
 これまでの調査で、金堂、中門、塔の三つの建物の基壇跡を確認しており、寺域内に多くの建物を備えた本格的な寺院だった可能性が高まったとする。
 南門などの跡は、6月から9月末までの予定で進められている今年度の調査で確認。同町教委によると、南門跡は石積みが残った状態で見つかり、南北約5m×東西約6mの規模とみられる。
 また、南門跡の北約60mでは、東西約16mにわたって建物の基壇となる土の盛り上がりを確認。金堂や塔との位置関係から講堂跡と推定した。南門、講堂ともに地質などから再建期のものとみている。
 現地説明会は19日午前10時から行われる。

過去のニュース・情報
2008.10.17興道寺廃寺遺跡 如来仏の塑像の一部出土

2008.10福井県美浜町・興道寺廃寺
 金堂基壇の位置・規模を確認: 2時期の金堂基壇が南北に重複して所在することを確認。寺院の伽藍配置は法起寺式と推定。
  創建期基壇 南北16.2m×東西17.8m
  再建期基壇 南北17.8m×東西12.6m
 中心伽藍東限施設を確認: 回廊、築地塀跡は見られず。8世紀前半の工房跡と見られる竪穴建物(南北6m×東西4m)を発掘。
 中心伽藍北方の諸施設を確認: 複数の時期の掘立柱建物群が重複して所在することを確認。6世紀前半の大型掘立柱建物跡があり、寺院建立前の古墳時代後期の豪族居館跡と想定される。
[参考:福井県教育庁埋蔵文化財調査センターHP]

2007.11.9 福井県美浜町・興道寺廃寺・中門 創建時の瓦や再建時の基壇とみられる石列が見つかる
 美浜町教委は8日、興道寺廃寺遺跡(同町興道寺)の中門付近から創建時(7世紀頃)のものと思われる瓦や、再建時(8世紀後半)の中門基壇とみられる石列などが見つかったと発表した。
 中門に瓦を使っていたことから、興道寺がかなりの勢力を持っていたことが分かるという。基壇の大きさが確認できたことと合わせ、貴重な発見。当時の同地域にしては珍しい本格的な寺院で、大きな勢力を持つ豪族が建設にかかわったとみられる。
 出土した瓦は平瓦や丸瓦で約100点。同遺跡では以前も瓦が見つかっているが、中門に使われたものは初めて。また、基壇とみられる石列は、縦1・8m、横0・8mで、以前にも見つかっている基壇跡と合わせると、基壇全体の大きさは縦8・2m、横8・0mと確認された。
 また、中門の北70m地点からは僧坊とみられる竪穴式住居の柱跡4点なども見つかった。周辺からは6~13世紀の住居跡や須恵器なども出土しており、同地域が古代から中世にかけて大きく栄えていたことが分かる。
 遺跡公開は10日午前10時から午後3時行われる。
[参考:産経新聞]
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京都市東山区・法観寺 国内最古級? 白鳳期のせん仏が出土

2009年09月19日 | Weblog
 市埋蔵文化財研究所が18日、東山区の法観寺(通称・八坂の塔)境内の発掘調査で、塔南側の整地層から白鳳時代(7世紀後半)の塼仏が見つかったと発表した。
 塼仏は破片状態で、縦9cm、横5cm。型で仏を造形し、焼き固めたもの。弥勒如来を中心に配した三尊の左脇侍とみられる。目鼻や光背が鮮明に残り、国内では最古級の出土例とみられる。表面には金箔も一部残っている。
 今回と同型の塼仏は9例出土しており、遣唐使に随行した僧道昭(629~700)が持ち帰ったものを元にしたとみられる。今回の塼仏は、最も良好に残る阿弥陀谷廃寺跡(奈良市)のものに匹敵するという。
 19日~10月4日に京都市考古資料館(上京区)で展示される。
[参考:京都新聞]
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和歌山市・秋月遺跡 5~6世紀の古墳4基をあらたに発掘、埋葬方式は「木棺直葬」

2009年09月19日 | Weblog
 県文化財センターは、県立向陽中・高校の敷地内にある秋月遺跡(和歌山市太田)から、古墳時代中期から後期(5~6世紀)につくられたとみられる古墳4基を新たに発掘したと発表した。
 今回見つかったのは、5世紀前半に建造されたとみられる12m四方の方墳1基と、6世紀前半のものという円墳3基(それぞれ直径約14m、約12m、約10m)。死者を埋葬する石室がなく、状況から木製の棺を直接埋葬(「木棺直葬」)されていた可能性があるという。
 古墳はいずれも全体が残っているわけではなく、周囲の溝から形が判明した。後の時代に削り取られ、奈良時代には建物が建てられていたとみられる。
 方墳の周囲から、勾玉や、青色の管玉、ガラスの小玉などの装飾品も計13点が出土した。また、円墳の囲りからは、鮮やかなオレンジ色が残る素焼き甕(高さ約50cm)や、群青色の須恵器の碗など約50個が見つかったという。
 明月遺跡から約2km東に岩橋千塚古墳群があるが、規模・埋葬方法などから、同古墳群とは別の系譜の一族が築いた可能性がある。
 秋月遺跡では、これまでに同校の校舎の下の発掘調査で、古墳時代前期の古墳計6基が見つかっている。
 19日午前10時30分から、現地説明会と見学会が行われる。
[参考:読売新聞、朝日新聞]
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霧島市・大隅国府跡・気色の杜遺跡 草仮名文字の書かれた平安時代前期の土器が出土

2009年09月19日 | Weblog
 霧島市教委は18日、同市国分府中町の大隅国府跡・気色(けしき)の杜遺跡から、仮名文字の書かれた平安時代の土器が見つかったと発表した。
 出土した土器は、2007年1月、同市国分府中町の宅地造成に伴う発掘調査で見つかった。直径約15cm、高さ約3cmの土師器の椀状の土器で儀礼用の器とみられ、漢字から平仮名が作られる移行期に使われた「草仮名(そうがな)文字」9文字が墨で書かれていた。9世紀後半~10世紀初めに作られたものとみられ、文字数、配列から、「ちとせは□とも」「さ□□□あれ□」としたためられた和歌の下の句とみられる。「ちとせ」(千歳)という文字があることから、大隅国府で働いていた役人が宴で祝いの歌を詠んだものとも想像できるという。
 平安京から遠く離れた大隅国に豊かな文化があったことを示す貴重な史料」としている。
 草仮名文字が書かれた土器は富山県の赤田1遺跡、茨城県の小作遺跡などでも見つかっており、九州では初。
 土器は鹿児島市の県歴史資料センター黎明館の企画展「古代のロマン北南」で19日から11月3日まで展示される。
[参考:共同通信、読売新聞]
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甲賀市・春日北遺跡 平安時代中期の緑釉陶器窯が出土

2009年09月19日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会は18日、県道の拡幅工事に伴い4月から行っていた調査で、春日北遺跡(同市水口町春日)で、平安時代中期(10世紀後半)の緑釉陶器を焼いた窯跡が出土したと発表した。
 製品を窯詰めして焼き上げる焼成室が焚口より約1m高い特徴があり、緑釉陶器窯の構造史や平安京と生産地の関係などを知るうえで重要な発見としている。
 窯跡は高さ1m、幅1m、奥行き約2・7mで、丘陵地裾の南西斜面で出土した。内部は上下2層構造で、下部で薪をくべて火を燃やし、上部の台の上に陶器を積み重ね、一度に約300個を焼くことができたとみられる。
 焼成室(奥行き約1・5m、最大幅約0・9m)は底がほぼ平坦で、火の通る溝(幅約0・2m)が3本あった。また、椀や皿などを載せる粘土塊の焼台が横に4個並び、そのひとつに一部が欠けた碗(直径約15cm、深さ約6cm)1個が焼いたままの状態で置かれていた。窯の大きさから焼台は5個ずつが6列ほど並んでいた可能性がある。碗などを重ねる際に使う三ツ又状の「三叉(さんさ)トチン」と呼ばれる窯道具も出土した。
 窯は、壁の焼け具合から釉薬をかけた後の二度焼き用で、素焼きは別の窯で行われたと見られる。窯跡の後には作業場や不良品の廃棄場と推測できる跡もあった。
 近江は愛知・岐阜、京都、山口と並ぶ緑釉陶器の四大生産地の一つで、県内では作谷(つくりや)遺跡(日野町中山、県指定史跡)に次いで2例目の発見。平安京などに供給していたのだろうとしている。
 22日午後1時から現地説明会が行われる。
[参考:京都新聞、共同通信、びわ湖放送]



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