歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

韓国・益山市 弥勒寺址 解体中の石塔心柱から金製舎利具などを発見 「国宝中の国宝」と評価

2009年01月25日 | Weblog
 弥勒寺は、百済武王(在位600-641)とその王妃が龍華山麓の池から弥勒三尊が現れたため、池を埋めて伽藍を作ったと伝わる。
 1980~1996年の発掘で寺の伽藍配置が明らかになった。
 中央の木塔を中心として、その東西に九層石塔があり、各々塔の後方(北)には金堂がある三院一寺式の寺院である。東西3金堂の後方にはひとつの講堂とさらにその後方には僧房がある。また、中央木塔の前方(南)には南門を配置する。
 17世紀頃にはすでに廃寺になり、半分程破損している西塔と幢竿支柱など一部だけ残っている。
 2001年から、西塔の解体・補修作業に入り、原形は9層であるが、それを復元するには無理があるものと見られ、2014年までを目標に6層までを復元する方針という。
 今回の新たな大発見は、その解体作業中にあったものである。

 2009.1.18 弥勒寺址西塔の解体作業の中で、1層心柱上面中央で舎利孔を発見、その中から舎利具が見つかる。
 2009.1.19 一般公開される。それまでは、内容の発表については緘口令が轢かれる。以降詳細が続いて発表される。

1.主な出土品
 舎利具(金製舎利壺)および金製舎利奉安記
 円形盒、銀製冠装飾、毛抜き、金製小平板など遺物500点余り
2.金製舎利奉安記には、創建者、創建日、造成経緯などが記されている。
 横15.5㎝、縦10.5㎝の大きさの金板を利用して、字を陰刻と朱漆で書いた。
 文字は前面と裏面に全て確認され、前面には1行9字ずつ全11行にかけて99字、裏面にも11行にかけて94字が書かれている。
 文章は4字と6字で、対句を使うのを特徴とする「四六駢儷文(べんれいぶん)」で書かれている。
 書体は「北朝時代」跡が濃く現れ、一部では高句麗の影響がある。
 この舎利奉安記には王妃を「王后」、王を「大王陛下」と呼んでいる点は、百済がこの頃中国皇帝から冊封を受ける形式を取りながらも、百済国内では彼らなりの独自の天下観を持っていることがうかがえるとする。
 また、年代についても武王年を使用しているわけではないし、中国の年号も使用せず単に己亥年と記している。
2.弥勒寺の創建者は、武王の王后(佐平沙乇積徳女)
   注)武王の王后と佐平沙乇積徳女の両者の創建とも読む見解もあるとする。
3.創建時期は己亥年正月廿九日
 武王の在位中であるとすれば、AD639年となる。
4.薯童謠(ソドンヨ)説話崩れるか
 TVドラマでも人気のあった「薯童謠」の説話は、百済武王(幼少時に薯童と呼ばれた)とその王妃の新羅真平王の娘・善花が恋に落ちて結婚したというもの。そして、後に弥勒寺を建て、その建設にあたっては真平王も新羅の多くの工人を送り援助したとする。
 その王妃が佐平沙乇積徳の娘となると、実際には対立関係のある新羅からの援助はなかったのかもしれない。
5.沙乇氏
 沙乇氏は「国中大姓八族」のひとつで「沙氏」である。ほかに沙宅、沙咤、砂宅とも表記されたりもする。
 文献での初見は、三国史記百済王の伝記東城王6年(484)の記録で、内法佐平沙若思。日本書紀では欽明天皇4年(543)に上佐平(そくさへい)沙宅己婁(さたくこる)が現れる。
 百済滅亡事実を伝える日本書紀斉明天皇6年(660) 7月の記録には唐の将帥・蘇定方に捕虜になった百済人らを羅列する中に当時官僚として大佐平沙乇千福の名が一番先に登場する。この沙乇千福は扶余・定林寺5階石塔に蘇定方の百済征伐を記念して刻んだ金石文にも登場する。
[参考:聯合ニュース2009.1.18~23]


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 平等院鳳凰堂・仏後壁(国宝... | トップ | 長塚古墳/名古屋市守山区 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事