歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

京田辺市・南山遺跡 弥生中期の方形堅穴式住居跡が出土

2009年04月16日 | Weblog
 京田辺市教委は15日、南山遺跡(同市三山木越前)から約2000年前の地層から方形の竪穴式住居跡10棟が見つかったと発表した。
 住居跡は、大きいものは縦6・3m、横5m、小さいものは縦3m、横2.5m。
 同時代の住居跡は円形が主で方形の住居が中心の集落は珍しい発見としている。
 少し古い地層からは円形の住居跡3個も見つかった。
 他に、鉄製の斧や石包丁のほかに甕、壺、高杯、鉢など多数の土器類が見つかった。
 出土した土器類から紀元前4世紀から1世紀ごろの弥生時代中期の集落跡とみられるという。
 現地説明会が18日午後1時半から行われる。
[参考:京都新聞、毎日新聞]


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連続テレビ小説「つばさ」からの一場面 喜多院・五百羅漢

2009年04月15日 | Weblog
 NHKの朝ドラ「つばさ」がかなり面白い。つばさ役の多部未華子の頑張る演技が可愛らしいし、全体的にテンポ、リズムがよい。
 また、知っている川越の場面が現れるのがうれしい。残念ながら、その場面にはテロップが出てこないので、知っている人には分かるけれど、知らない人には分からないので、ちょっと不親切かもしれない。
 今朝は、川越大師・喜多院の五百羅漢(写真)で、つばさがアンテナの受信周波数を探す場面が映っていた。
 喜多院は正式名称を天台宗星野山(せいやさん)無量寿寺喜多院という。何度か焼失し、再建されているが、故事によれば創建は奈良時代まで遡るという。
 五百羅漢は、約200年前に建立されたもので540体が鎮座している。
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秋田県・角館 武家屋敷の桜

2009年04月14日 | Weblog
 
 角館には、5回ほど桜の季節に足を運びました。そのうち、3回は行くのが早すぎて満開の桜を味あうことは出来ませんでした。
 また、しだれ桜が武家屋敷に映えるな~と、そに都度感心をしていました。
 でも、角館の歴史を知ると、桜の美しさにさらに重みを感じました。
 今年(2009)の角館の開花予想は、しだれ桜が4月20日、ソメイヨシノが4月21日、そして満開は開花の5日後です。したがって、25(土)、26日(日)がちょうど見頃のようです。
[関連記事・情報]
 葦名氏
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青森市・三内丸山遺跡 環状配石墓の石は堤川上流の荒川から運搬か

2009年04月10日 | Weblog
 県文化財保護課は、三内丸山遺跡(青森市大字三内)の2008年度発掘成果を発表した。
 同遺跡南西部にある縄文時代の環状配石墓の周りに置かれた石は、長さ15cm~30cm程度のものが多く、大きなものは1m以上あり、遺跡から南に約10km離れた堤側上流の荒川河川敷から運ばれた可能性が高いことが分かった。また、環状の配石ごとに埋葬部が一つずつあることも確認された。
 これまでの調査で、墓からは矢尻や赤色顔料が見つかっており、上位階層の人物を埋葬したとみられている。
[参考:毎日新聞]、三内丸山遺跡HP]
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日光市・男体山頂祭祀遺跡 三鈷鐃など50点が昨年10月に発見されていた

2009年04月10日 | Weblog
 昨年10月に、男体山(2486m)の男体山頂祭祀遺跡で密教法具「三鈷鐃(さんこにょう)」が見つかっていたことが9日わかった。
 過去に6点の三鈷鐃(いずれも国重要文化財)が出土しているが、精密な毛彫りの文様があり、保存状態も良く一級品としている。
 山頂の太郎山神社周辺の南西斜面で県の治山工事中に出土し、県が遺失物として日光署に届け出た。現在は、男体山を所有する日光二荒山神社が保管している。神社は、所有権が神社に移る6月以降、国や県と協議した上で、出土品の調査に踏み切りたい考え。
 出土した三鈷鐃は青銅製とみられ、長さ約20cmで先端が三つに分かれた柄と丸い鈴の部分でできている。鈴の部分に花びらとチョウの模様が彫られ、鈴子も残っており、振ると音が出る。一緒に古刀や土器破片など約50点が見つかった。
 同遺跡では、大正13年(1924)と昭和34年(1959)に発掘調査が行われ、計約一万点の埋納品が出土し、銅製5個、鉄製1個の三鈷鐃が見つかっている。八世紀ごろから男体山が信仰の拠点になっていたことを裏付けられている。
[参考:下野新聞、読売新聞] 

 写真は、中禅寺湖湖畔から見た男体山。鳥居を通って左へ700m行くと、二荒山中宮祠がある。

備考:
 日光山の開祖・勝道上人(735-817)は、補陀洛山(二荒=男体山)の頂を極めようと、32歳(767)で山に入り15年の修行を重ねた末、天応2年(782)に頂を極めたという。[参考[:輪王寺・宝のものがたり]/東京美術]
「奥宮」(すなわち男体山の山頂に鎮座)は、782年に創建された。[参考:ふたらさん/二荒山社務所]

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釈迦生誕祭 ー 花祭

2009年04月08日 | Weblog
 今日4月8日はお釈迦様の誕生日である。
 呼び方、別名が種々あるようで、誕生会、降誕会、潅仏会、浴仏会・竜華会、仏生会、花祭など。
 もっとも、日本では新暦で行うが、中国・韓国では旧暦で行う。(今年の旧暦4月8日は、5月2日)
 日本では、潅仏会と日本在来の「卯月八日」の行事が結合されて現在の法会になったという。
 おそらく中学生時代に行ったのが最後で、久しぶりに行く。
 行った場所は新井薬師(真言宗豊山派・新井山梅照院薬王寺)。新田義貞関連の寺で、目の病に効くというので、お年寄りが多い。境内には、植木などの露天商が並び結構と賑やか。
[参考]
灌仏会/お花祭り/釈迦生誕祭
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奈良県斑鳩町・中宮寺 金堂跡基壇、再建時も同じ柱位置

2009年04月08日 | Weblog
 斑鳩町教育委員会は7日、聖徳太子が建立したとされる中宮寺(斑鳩町法隆寺東2丁目)で、金堂基壇の柱の礎石抜き取り穴から、飛鳥時代前半(7世紀前半)の創建期の礎石を支える「根石」が見つかったと発表した。
 金堂跡は1963年と84年に発掘調査が行われ、後世に再建・改修されていたことが知られる。さらに詳細な基礎資料を得るため昨年8月から、史跡整備に伴い室町時代に移築した現在の中宮寺から東約400mのところ約270㎡を学術調査し、版築が使われた基壇などを見つけ。また、再建時に瓦を積み上げた基壇が新たに2か所見つかった。
 根石は長さ約40cmで、砂と粘土を突き固めた創建時の版築の途中に据え付けられていた。根石の上層で礎石の抜き取り穴17個を検出し、穴は版築の上から掘り込まれているため、平安から鎌倉時代の再建時のものと考えられるという。
 また、別の柱穴からは、焼けた凝灰岩の根石も見つかり、創建時の基壇から転用したとみられ、当初の金堂が火災で焼けた可能性が高まったとする。
 金堂の創建時の基壇は推定で東西約17.2m、南北14.6m。建物は東西6本、南北5本の柱を2.6m間隔で並べた構造。
 創建時は周囲に切り石を巡らせていた。12―13世紀に再建した際に瓦積みとなり、その後17世紀までには盛り土と簡素な造りに変わっていった。このような再建の変遷があったが、柱の配置は創建時と変わらなかったとみられる。
 飛鳥時代前半の法起寺(斑鳩町)の瓦も見つかり、同寺とのつながりもうかがわれる。
 発掘調査は3年計画で、今年度は塔の基壇のほか、講堂、回廊があると推定される場所を調査する。
 現地説明会が11日、12日両日に行われる。11日は町民対象で午後1時~4時。12日は一般対象で午前10時~午後4時。小雨決行。
[参考:読売新聞、奈良新聞、日経新聞、毎日新聞]


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垣内遺跡/淡路市 国内最大の弥生後期の鉄器工房

2009年04月04日 | Weblog
垣内遺跡 鍜治工房跡、保存を決定
 同遺跡は本来なら調査終了後に取り壊す計画だったが、歴史的価値が高いことから、埋め戻した上で保存することが決まった。
 市教委が県や地元の理解を得て計画変更をまとめた。
 早ければ今月末頃から作業を始め、将来の史跡指定を目指す。
[参考:2009.4.4読売新聞]

1月26日掲載分 現地説明会
 1月25日、雪化粧された丘陵地の現地説明会に900人が集まったようです。
[参考:読売新聞]

1月22日掲載分
 淡路市教育委員会が22日、標高約200mの丘陵地にある垣内(かいと)遺跡で弥生時代後期(100-220年ごろ)の鉄器工房とみられる建物跡8棟が見つかったと発表した。過去の発見と合わせると計10棟になり、同時期の鉄器工房跡としては全国で最大規模という。これまでは、松江市の上野2遺跡で弥生時代後期後半とみられる工房跡が6棟見つかっており、最大とされてきた。
 弥生時代の鉄器製造は九州北部で始まったとされるが、弥生後期には瀬戸内海東部まで拡大していたことになる。日本列島で政治の中心が九州北部から近畿へ移る時期とも重なっており、今後、遺跡の性格が大きな注目を集めそうだ。
 市教委によると、昨年5月から始まった調査で弥生時代後期の竪穴建物跡11棟が見つかり、うち8棟の床面に強い熱を受けて赤く焼けている炉跡があった。最も大きい建物跡は円形で直径が10.5m。床面には10カ所の炉跡があった。
 建物跡やその周辺からは、鉄鏃、鉄板の裁断片など鉄製品45点をはじめ、石鎚31点、鉄床(かなとこ)石などの工具が多数出土した。また、同遺跡東端の竪穴建物跡(直径9・7m)からは、朝鮮半島か中国から輸入されたとみられる大型の鉄製品(長さ約20cm、幅約5cm、厚さ約3cm、重さ564g)も見つかった。弥生時代後期(西暦50~220年ごろ)の鉄器とみられる。当時、国内で鉄素材を調達することはできなかったという。
 昨年、2月には同遺跡から弥生時代後期前半(50-120年ごろ)の竪穴住居跡一棟が発見され、鉄器の工房跡の可能性が高いことが発表された。弥生時代後期後半(120-210年ごろ)の本位田権現谷A遺跡(佐用町)で確認済みの工房跡を遡る、県内最古の発見例とみられるとされていた。
 現地説明会は25日午前10時半と午後1時半に行われる。
[参考:共同通信、毎日新聞、産経新聞、読売新聞、2008.2.28神戸新聞]
淡路島に最大規模の鉄器工房 弥生後期の垣内遺跡(共同通信) - goo ニュース
弥生時代最大級の鍛冶工房跡、淡路島で出土…砥石や鉄板も(読売新聞) - goo ニュース


キーワード: 五斗長垣内遺跡
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福岡市・鋤崎古墳群 出土した6世紀後半ごろの「飾り大刀」にハート型文様

2009年04月03日 | Weblog
 福岡市教委は、鋤崎(すきさき)古墳群(西区今宿)から94年に出土した古墳時代(6世紀後半ごろ)の「飾り大刀」(長さ約1m)に、東北・関東で多くみられるハート形の文様(約1cm)があることが、最新のエックス線CTスキャンで判明したと発表した。
 ハート形は、楕円形の鍔(縦7cm、幅6cm)の両面と、刃を固定する鎺(はばき)の部分に模様が刻まれていた。
 出土当時から、銀象嵌模様の存在は確認できていたが、錆に覆われていて文様の種類まで解析できなかった。このため、九州国立博物館(太宰府市)に解析を依頼し、発見につながった。
 飾り大刀は、今月の12日まで福岡市博物館(早良区百道)で開催中の「悼みの考古学」(~12日)で展示される。
 今月21日から5月10日までは埋蔵文化財センター(博多区井相田)で開かれる「調査速報展」で展示される。
[参考:毎日新聞]


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韓国全南羅州市 永洞里古墳群 蜂の巣型古墳を確認

2009年04月03日 | Weblog
 永洞里古墳群(영동리 고분군)は、羅州市の中心部から西に7km、有名な伏岩里(복암리)古墳群からは西北に2kmも離れていない場所にあり、南に3kmほどで栄山江に辿り着く。
 東新大博物館の調査により、その場所から伏岩里3号墳と同じように、「蜂の巣型」あるいは「アパート型」と呼ばれる古墳が3基確認され、3世紀頃から5-6世紀の400年間における多様な埋葬施設が発見された。
 確認されたのは、「蜂の巣型古墳」3基(1,4,6号墳)とその内部あるいは周辺から甕棺墓(옹관묘)26基、石室墓(석실묘)8基、石槨墓(석곡묘)6基など約40基。
  1号墳は東西約32m、南北約40m大きさの土の墓中に、甕棺3基、石室7基、石槨7基があった。
  4号墳は甕棺18基
  6号墳は甕棺4基
 石室墓では、人骨計21個体分が収集された。人骨は概して数個体ずつが、北壁と南壁の壁に頭を揃え、お互いに向かい合うように仰向けに埋葬されている。
 特に1号墳2号石室と3号石室では、各々の石室中で4-6人に達する死体が埋葬されていた。このような埋葬方式を多葬制と呼び、湖南地方では3世紀に甕棺墓として確認され始める。死体を他の所で腐らせた後、骨だけを集めて安置したいわゆる洗骨葬(세골장)風習があった可能性が大きいとみている。
 築造した封墳に、初めは甕棺墓、5-6世紀には石室墓、その後には典型的な百済石室墓と石槨墓を築造したとする。 
 永洞里古墳群は以前の調査で、典型的な百済土器と新羅土器が一度に出土し非常な関心を集めた。特に百済土器を代表する三足器(삼족기)は足を引き離して胴体にして、蓋は半円形のキャンパス模様を入れた典型的な新羅土器を結合させた土器が出土して学界を当惑させた。さらに調査を進めた結果、焼いた跡からみて、現地で合作して製作したとみている。
[参考:2009.4.1聯合ニュース]
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古代エジプト王妃ネフェルティティの胸像 最新CTスキャン技術により内部が明らかに

2009年04月02日 | Weblog
 3300年前に作られたネフェルティティ王妃(紀元前14世紀中葉)の胸像に、整形が加えられていることを、ドイツの研究チームが突き止めた。
 CTスキャンの結果、漆喰の表層の下には精密に彫刻された石灰石の素像が隠れていた。
 土台はやや彫りが浅く、顔には表面にない幾筋もの皺が刻まれており、鼻筋の出っ張りがあるという。
 像は古代美術の傑作でドイツのベルリン旧博物館に展示されているが、エジプトが返還を求めている。
 ネフェルティティはファラオ・アメンホテプ4世(アクエンアテン、Akhenaton、在位:前1352-1336年)王の妃で、古代エジプトの3大美女とされる。
[参考:読売新聞、ナショナルジオグラフィック日本版、APF]
過去の関連記事
 父:アメンホテプ3世
 
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善光寺の阿弥陀如来立像 快慶作とは断定できずも、係わったことは確か

2009年04月01日 | Weblog
 長野市の善光寺史料館で所蔵する阿弥陀如来立像が、鎌倉時代の仏師・快慶作の可能性が高いとみられ、昨年11月26日東京芸術大に運ばれ、立像の内部などを本格的に調査が行われたが、調査を担当した籔内佐斗司・東京芸大大学院教授(文化財保存学)31日、快慶作とは断定できないが、快慶がかかわっていることはほぼ間違いないと結果を発表した。
 快慶の真作とされる像の多くには、足裏の突起部分や像内に作者名を示す「銘文」が残されているが、今回の調査では確認されなかった。ただ、1本の木を割り、中を空洞にした上でつなぎ合わせる「割矧(わりはぎ)」と呼ばれる構造などが快慶の中期の作風と酷似しているという。
 立像内部に縦58cm、横31cmの紙が巻かれて入っていたことが判明。「定快(じょうかい)」「南無阿弥陀仏」などと記された墨書が発見されたが、作者銘ではなく、造立にかかわった僧侶の名前の可能性が高いという。また、立像が1716年頃、善光寺大本願から信濃町の寺に移され、大正以降に善光寺に戻ったことも、信濃町で見つかった古文書で判明した。
 快慶の弟子で「定快」という人物は確認できなかったが、定快の銘文がある仏像が東京都青梅市の寺にあることが分かった。青梅市の像は稚拙で作風が違うため、定快は絵を描いた僧の名前ではないかとしている。
 如来立像は調査の際に、指などの暫定的な修復を施して31日に寺に戻った。
 御開帳期間中(5日~5月31日)、寺史料館で展示される。その後は再び東京芸大に移送し、来年3月までさらに全面解体をして修復、再調査する予定。
[参考:毎日新聞、読売新聞、共同通信、産経新聞]
過去の記事
 2009.11.22
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宮城県登米市 石森館跡

2009年04月01日 | Weblog
 平成20年8月23日(土曜日)に現地説明会が開催された。そして、調査報告書が平成21年3月25日に発行されたので、概略をまとめてみた。
 調査期間: 平成20年5月26日(月)〜8月28日(木)
 調査主体: 宮城県教育委員会

 石森館跡(いしのもりたてあと)は、石森小学校の裏山全体を利用して築かれた館跡。鎌倉時代には石森氏、江戸時代に入ると笠原氏が御屋敷を構えたという記録が残っている。
 今回の発掘調査は、館跡の南東部を調査しており、当時の御屋敷の一部とみられる掘建柱建物跡・堀跡・溝跡などが確認された。また、平安時代の竪穴住居跡が見つかり、古くからこの地が生活の舞台であったこともわかった。板碑や東海地方産の焼きものなどが出土している。

1. 主な出土遺構および遺物
縄文時代
 縄文時代の遺構は確認されていないが、縄文時代の土器片1点、石匙1点、磨製石斧1点が出土した。
古代
 古代の遺構は、溝跡1条と柱穴群、竪穴住居跡1軒を確認したのみである。遺物は土師器の坏・須恵器の坏と甕が見つかっている。
中・近世
 掘立柱建物跡8棟、水濠跡2条、溝跡(溝状遺構を含む)21条、井戸跡5基、土坑14基、整地層2ヵ所を検出した。区画溝をもつ中世の屋敷跡の一端が明らかとなった。
 遺物は中世から近世の陶磁器類(常滑産や在地産の陶器甕・鉢、相馬産の陶器碗、中国産の染付磁器碗)、土器(土師器・須恵器、茶臼、瓦質土器の火鉢)、木製品、石製品(五輪塔、砥石板碑)、金属製品、古銭、鉄滓などが出土した。

2. 板碑
 中田町では、これまでに569基の板碑が確認されているという。今回の調査で、6基の板碑が出土した。このうち3基が金で種子や銘文が装飾された、いわゆる「金装板碑」であった。
 中でも状態の良好な1点は、「貞治三年七月廿二日」と南北朝時代の北朝年号の紀年銘があり、年代は西暦30年(1364)である。

3. 石森館跡の歴史
 平泉藤原氏時代には、既に石森館が存在し、奥州合戦(1189年)時には藤原秀衡の家臣猪塚修理清明が居住したとの記載がある。(『石森村明治風土記』)
 中世に入ると葛西氏の領有となり、石森館はその領地支配の拠点のひとつを担うようになった。中世における館主の記録としては、承久三年(1221)葛西氏の家臣右近将監康次が、当館に拠って石森氏を称したとある。天正十八年(1590)には、秀吉の奥州仕置によって葛西領は没収され、康次の末孫も主家とともに没落した。
 旧領は、秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられたが、彼らの暴政に対して「葛西大崎一揆」が勃発する。これを鎮めた伊達政宗が、これ以降当地方を支配することになる。寛永21年(1644)、伊達氏の家臣笠原出雲盛康が江刺郡角懸村と石森村の領地替えを希望し許可され、当館に移り住み、石森を知行することになる。(中田町史編さん委員会2004)。

 文治の初(1185~1186)平泉藤原氏の臣猪塚修理が居住したが藤原氏没落後承久三年(1221)葛西氏の一族石森右近将監康次が居住した、天正十八年(1590)主家葛西氏が豊臣秀吉の小田原出陣に参陣しなかった左近晴康の代所領を没収され没落した。天正十八年(1591)遠藤出雲守高康が居住、寛永八年(1631)間野四郎左衛門が居住した。寛永十六年(1639)伊達氏の家臣笠原出雲盛康が江刺郡角懸村から移居。
 天和元年(1881)の古絵図に画かれている環濠がめぐり、当時を忍ぶ護城河である。
 城跡屋敷の北四方には笠原家の廟所がありその西に守護神である石大神社が祀られている。笠原出雲盛康が寛永十六年(1639)に建立したと伝えられる。                    平成六年三月三十一日 中田町教育委員会  (現地案内板より)
[参考:宮城県文化財調査報告書第220集石森館跡ほか]
[参考:宮城県ホームページ・教育庁文化財保護課平成20年7月29日]

備考:
 前述で名前が出た氏族以外に小野寺氏、二ツ木氏、加賀野氏、飯塚氏などがいる。
 とくに小野寺氏は、吾妻鏡に出てくる小野寺太郎道綱が奥州征伐従軍により登米を賜ったものと伝わる。
 漫画家の石ノ森 章太郎(いしのもり しょうたろう、1938-1998)氏は、石森町生まれで、1984年までは石森章太郎の名前を用い、その後姓を石ノ森にあらためた。本名は小野寺章太郎である。
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