歴歩

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善光寺の阿弥陀如来立像 快慶作とは断定できずも、係わったことは確か

2009年04月01日 | Weblog
 長野市の善光寺史料館で所蔵する阿弥陀如来立像が、鎌倉時代の仏師・快慶作の可能性が高いとみられ、昨年11月26日東京芸術大に運ばれ、立像の内部などを本格的に調査が行われたが、調査を担当した籔内佐斗司・東京芸大大学院教授(文化財保存学)31日、快慶作とは断定できないが、快慶がかかわっていることはほぼ間違いないと結果を発表した。
 快慶の真作とされる像の多くには、足裏の突起部分や像内に作者名を示す「銘文」が残されているが、今回の調査では確認されなかった。ただ、1本の木を割り、中を空洞にした上でつなぎ合わせる「割矧(わりはぎ)」と呼ばれる構造などが快慶の中期の作風と酷似しているという。
 立像内部に縦58cm、横31cmの紙が巻かれて入っていたことが判明。「定快(じょうかい)」「南無阿弥陀仏」などと記された墨書が発見されたが、作者銘ではなく、造立にかかわった僧侶の名前の可能性が高いという。また、立像が1716年頃、善光寺大本願から信濃町の寺に移され、大正以降に善光寺に戻ったことも、信濃町で見つかった古文書で判明した。
 快慶の弟子で「定快」という人物は確認できなかったが、定快の銘文がある仏像が東京都青梅市の寺にあることが分かった。青梅市の像は稚拙で作風が違うため、定快は絵を描いた僧の名前ではないかとしている。
 如来立像は調査の際に、指などの暫定的な修復を施して31日に寺に戻った。
 御開帳期間中(5日~5月31日)、寺史料館で展示される。その後は再び東京芸大に移送し、来年3月までさらに全面解体をして修復、再調査する予定。
[参考:毎日新聞、読売新聞、共同通信、産経新聞]
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 2009.11.22
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宮城県登米市 石森館跡

2009年04月01日 | Weblog
 平成20年8月23日(土曜日)に現地説明会が開催された。そして、調査報告書が平成21年3月25日に発行されたので、概略をまとめてみた。
 調査期間: 平成20年5月26日(月)〜8月28日(木)
 調査主体: 宮城県教育委員会

 石森館跡(いしのもりたてあと)は、石森小学校の裏山全体を利用して築かれた館跡。鎌倉時代には石森氏、江戸時代に入ると笠原氏が御屋敷を構えたという記録が残っている。
 今回の発掘調査は、館跡の南東部を調査しており、当時の御屋敷の一部とみられる掘建柱建物跡・堀跡・溝跡などが確認された。また、平安時代の竪穴住居跡が見つかり、古くからこの地が生活の舞台であったこともわかった。板碑や東海地方産の焼きものなどが出土している。

1. 主な出土遺構および遺物
縄文時代
 縄文時代の遺構は確認されていないが、縄文時代の土器片1点、石匙1点、磨製石斧1点が出土した。
古代
 古代の遺構は、溝跡1条と柱穴群、竪穴住居跡1軒を確認したのみである。遺物は土師器の坏・須恵器の坏と甕が見つかっている。
中・近世
 掘立柱建物跡8棟、水濠跡2条、溝跡(溝状遺構を含む)21条、井戸跡5基、土坑14基、整地層2ヵ所を検出した。区画溝をもつ中世の屋敷跡の一端が明らかとなった。
 遺物は中世から近世の陶磁器類(常滑産や在地産の陶器甕・鉢、相馬産の陶器碗、中国産の染付磁器碗)、土器(土師器・須恵器、茶臼、瓦質土器の火鉢)、木製品、石製品(五輪塔、砥石板碑)、金属製品、古銭、鉄滓などが出土した。

2. 板碑
 中田町では、これまでに569基の板碑が確認されているという。今回の調査で、6基の板碑が出土した。このうち3基が金で種子や銘文が装飾された、いわゆる「金装板碑」であった。
 中でも状態の良好な1点は、「貞治三年七月廿二日」と南北朝時代の北朝年号の紀年銘があり、年代は西暦30年(1364)である。

3. 石森館跡の歴史
 平泉藤原氏時代には、既に石森館が存在し、奥州合戦(1189年)時には藤原秀衡の家臣猪塚修理清明が居住したとの記載がある。(『石森村明治風土記』)
 中世に入ると葛西氏の領有となり、石森館はその領地支配の拠点のひとつを担うようになった。中世における館主の記録としては、承久三年(1221)葛西氏の家臣右近将監康次が、当館に拠って石森氏を称したとある。天正十八年(1590)には、秀吉の奥州仕置によって葛西領は没収され、康次の末孫も主家とともに没落した。
 旧領は、秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられたが、彼らの暴政に対して「葛西大崎一揆」が勃発する。これを鎮めた伊達政宗が、これ以降当地方を支配することになる。寛永21年(1644)、伊達氏の家臣笠原出雲盛康が江刺郡角懸村と石森村の領地替えを希望し許可され、当館に移り住み、石森を知行することになる。(中田町史編さん委員会2004)。

 文治の初(1185~1186)平泉藤原氏の臣猪塚修理が居住したが藤原氏没落後承久三年(1221)葛西氏の一族石森右近将監康次が居住した、天正十八年(1590)主家葛西氏が豊臣秀吉の小田原出陣に参陣しなかった左近晴康の代所領を没収され没落した。天正十八年(1591)遠藤出雲守高康が居住、寛永八年(1631)間野四郎左衛門が居住した。寛永十六年(1639)伊達氏の家臣笠原出雲盛康が江刺郡角懸村から移居。
 天和元年(1881)の古絵図に画かれている環濠がめぐり、当時を忍ぶ護城河である。
 城跡屋敷の北四方には笠原家の廟所がありその西に守護神である石大神社が祀られている。笠原出雲盛康が寛永十六年(1639)に建立したと伝えられる。                    平成六年三月三十一日 中田町教育委員会  (現地案内板より)
[参考:宮城県文化財調査報告書第220集石森館跡ほか]
[参考:宮城県ホームページ・教育庁文化財保護課平成20年7月29日]

備考:
 前述で名前が出た氏族以外に小野寺氏、二ツ木氏、加賀野氏、飯塚氏などがいる。
 とくに小野寺氏は、吾妻鏡に出てくる小野寺太郎道綱が奥州征伐従軍により登米を賜ったものと伝わる。
 漫画家の石ノ森 章太郎(いしのもり しょうたろう、1938-1998)氏は、石森町生まれで、1984年までは石森章太郎の名前を用い、その後姓を石ノ森にあらためた。本名は小野寺章太郎である。
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