歴歩

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『三国史記』の就利山は公州・燕尾山か? 大規模な石壇・新羅土器を発掘

2009年02月17日 | Weblog
 百済滅亡5年後の665年8月、唐の太宗の勅使・劉仁願と新羅の文武王、元百済太子・扶余隆が共に就利山に登り、3人が山河の神を祭り、白馬の血を共に歃(すす)った後、盟約の文を読み交わしたと記されている。「就利山会盟」である。(『三国史記』)
 公州大博物館は、昨年12月に忠清南道公州市にある燕尾山(海抜239m)の頂上を試掘調査した際、大規模な石積みの祭壇(16m×11m×1.7m)を発見したと発表した。燕尾山はこれまで、学界で「就利山会盟の地」として名前が挙がっていた候補地の一つ。盟約がなされた場所は、この燕尾山だという主張が出されている。
 大田大のイ・ハンサン教授は、「祭壇は7世紀ごろに築造されたと見られ、山頂部の岩盤を削って土台を固め、そこに採取した石を整然と積み上げ壇を作ったもの。石の間には粘土、焼け土、炭のかたまりが詰められていた。海抜239mの山の頂に大規模な祭壇を作るのは、国家やそれに準ずる勢力だけが可能だった」と話す。教授は、燕尾山を就利山と見る地理的・言語的根拠も挙げた。
●燕尾山は周辺一帯で最も高い山であり、また川べりに位置しているため集まりやすい場所だという点(地理的)
●就利山と、燕尾山の別名「鷲尾山(チュイミサン)」の発音が類似している点(言語的)
 同時に出土した馬蹄形文土器は、6世紀中盤から後半に流行した新羅の典型的な土器。7世紀の遺物が多数出土した扶余郡扶余邑陵山里寺址や定林寺址でも発掘例があり、百済滅亡期に新羅から持ち込まれたものと見られている。この土器が百済の都城だけでなく公州の燕尾山からも出土したということは、同じ時期ごろ新羅人がこの山の頂で活動していたことを示す証拠とし、祭壇の築造年代も7世紀とした。
 発掘団の中には「石壇はのろし台として使われていた可能性もある」という慎重論もあるが、イ教授は「火を燃やした跡が全くなく、のろし台と見るのは難しい」と語った。しかし燕尾山が『三国史記』に出てくる就利山かどうかを確認するには、本格的な発掘を通じ、さらに遺跡が出土するのを待たなければならないようだ。
[参考:2009.2.3朝鮮日報]

三國史記・卷第六・新羅本紀第六・文武王五年(665) 
 秋八月 王與勅使劉仁願 熊津都督扶餘隆(615-682) 盟于熊津就利山 初百濟自扶餘璋與高句麗連和 屢侵伐封場 我遣使入朝求救 相望于路 及蘇定方(692-667)既平百濟 軍廻 餘衆又叛 王與鎭守使劉仁願・劉仁軌(602-685)等 經略數年 漸平之 高宗(628-683)詔扶餘隆 歸撫餘衆 及令與我和好 至是 刑白馬而盟 先祀神祗及川谷之神 而後歃血 

扶余隆
 1920年に扶余隆の墓誌(56.7x57x10㎝)が中国の落陽で見つかった。
 この墓誌と文献記録を土台に作成した扶余隆の年譜は次のようになる。(台湾中央研究院歴史語言研究所の判読文による)
 百済武王16年(615) 義慈王の三番目の息子として誕生。.
 百済義慈王4年(644) 太子に冊封される。 (長男孝が太子に冊封されたのを間違って記録したという説もある).
 唐顕慶5年(660) 百済が滅亡するや義慈王等と共に唐の首都へ強制連行される。 同年義慈王が死んだ後、扶余隆を司農卿に叙す。
 龍朔2年(662) 7月、水軍および兵糧船を導いて福信、扶余豊などが復興運動を行った周留城に進軍する。これらを平定して唐に帰る。
 麟徳2年(665) 熊津都督、百済郡公、熊津道管兼馬韓と馬韓道安撫大使に任命されて、熊津城に赴任.
 同年8月、劉仁軌の斡旋で熊津城・就利山で新羅文武王と和親を結ぶ儀式に参加する。劉仁軌が帰国した後、新羅の迫害を受けて、唐に帰る。
 儀鳳2年(677)2月、扶余隆を光禄大夫、太常員外卿、熊津都督、帯方郡王に任命して、百済の昔の地に戻って、遊民を安撫しようとしたが、新羅がすでに占拠していて結局戻ることができなかった(『旧唐書』巻5参照).
 永淳元年(682) 68才を最後に家で死亡。朝廷から輔国大将軍を追贈して諡号をもらう。同年12?月24日 洛陽の北芒清善里で葬儀が行われた。
[参考:2008.6.3聯合ニュース]
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田辺市・熊野本宮大社 大斎原に江戸後期の石積み護岸 東西100m以上

2009年02月17日 | Weblog
 和歌山県教委文化遺産課などは16日、世界遺産の熊野本宮大社旧社地「大斎原(おおゆのはら)」(田辺市本宮町本宮)に面した熊野川の河岸で、江戸時代後期に造られたとみられる石積みの護岸が見つかったと発表した。大社の壮大さ、強い信仰心を伝える貴重な史料という。
 大斎原は、熊野川と音無川に挟まれた中州にあり、明治22年(1889)の大洪水で流されるまで、熊野本宮大社が社殿を構えていた。水の神様としても知られていた。現在は高さ約34mの大鳥居が建っている。今回、県の河川改修工事にあわせて発掘調査を実施した。
今回発見された石積み護岸は3カ所。いずれも横5~10m、縦7m、高さ4m。旧本宮大社・本殿正面位置の護岸は高さ約4m、幅約10m。当時の船着き場へと下りたと思われる石段(20段、幅1・8m)も良好な状態で残っている。
 ほかの2カ所の護岸は、石積みの手法が違い、工事の時期が異なるとみられる。
 石積み護岸は、上層と下層で異なる石積み手法などが確認され、繰り返し改修されたとみられるという。上面の石の表面が火災跡と思われる炭化物が付着しており、同大社が焼失した江戸時代後期(1770年)の火災の跡の可能性があるとしている。
 調査、記録した後、月末にはいったん埋め戻す予定。
 21日午後1時から、現地説明会を開催する。問合せは県教委文化遺産課へ。
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