歴歩

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西尾市・西尾城跡 愛知県で2例目の障子堀発見 現地説明会2/7

2009年02月06日 | Weblog
 市教委は3日、歴史公園整備の事前調査として西北角の約1000㎡を発掘し、西尾城跡発掘調査の概要を発表した。
 戦国時代に造られた外掘から、幅6・7m深さ2・5mの土盛りが見つかった。堀の中が障子の桟のように仕切られ障子堀とみられる。
 障子堀は、県内では安城市・安祥城に次いで2例目の発見という。
 現地説明会は、7日午前10時30分から開かれる。
[参考:2009.2.4 読売新聞]
 
 西尾城は、承久3年(1221)鎌倉幕府の執権北条泰時(1183-1242)に仕える足利義氏(1189-1255)が承久の乱(1221)の戦功により三河の守護職となり築城したのが始まりで、西条城と名づけられたという。
 足利義氏は西条城の東にも東条城を築城した。長男長氏(1211-1290)を西条城主とした。足利長氏は地名にちなみ吉良氏と称し、西条城は吉良氏14代の居城となった。

前出参考:障子堀
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かつらぎ町・西飯降Ⅱ遺跡 竪穴住居跡140棟を確認 現地説明会2/7

2009年02月06日 | Weblog
 県文化財センターは5日、西飯降Ⅱ遺跡で、弥生時代から古墳時代にかけて07年度の調査と合せて、東西幅約160mの集落に竪穴住居跡計約140棟を確認したと発表した。
 弥生中期(約2000年前)の竪穴住居跡は、直径6~10mの円形で、石で作られた稲刈りの道具や武器も出土した。
 縄文時代や鎌倉時代の遺構もあり、長期間、この地域の中心的な集落として存続していたとする。
 07年度に見つかった集落東端の溝(幅約3m、深さ約1・2m)に続き、西端の溝(幅約2~3m、深さ約50~70cm)を確認。出土品から弥生時代中期(約2000年前)のものとみられる。弥生時代中期から古墳時代(約1700~1500年前)の竪穴住居跡計約60棟も新たに発見した。
 このほか、奈良時代の掘立柱建物跡とその近くから硯が出土し、周辺が役所のような役割を果たしていたと考えられるとする。
現地説明会は7日午後1時半から。
[参考:毎日新聞、読売新聞、紀伊日報]
参考:前出:かつらぎ町西飯降遺跡、西飯降Ⅱ遺跡、中飯降遺跡
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兵庫県多可町・高岸・五反田遺跡 荘園の集落跡を確認

2009年02月06日 | Weblog
 町教委は、多可町中区高岸の道路工事現場で、平安時代末期(12世紀)から鎌倉時代(13世紀)にかけての荘園の集落跡を確認したと発表した。近くでは過去に豪族集落跡も見つかっている。
 確認されたのは、掘っ立て柱建物6棟分の柱跡や土杭など。また、通常は土器の内側に描かれる青海波(せいがいは)が表面側に描かれた須恵器が、県内で初出土した。このほか、土師器、中国製の青磁や白磁の破片、銅銭4枚などが出土した。
 町教委によると、古文書などから、周辺は「安田庄」と呼ばれる荘園だったらしい。約200m南の地点では豪族クラスの遺跡「思い出遺跡群」も見つかっている。
 町教委は今回見つかった集落跡を「高岸・五反田遺跡」と命名し、来年度も周辺を調査する。
現地説明会は7日午前10時から開催される。問合せ先は那珂ふれあい館。
[参考:毎日新聞]

備考: 吾妻鏡 文治二年(1186)六月小九日乙卯。
去四月之比。政道事。殊可致興行之趣。付議卿令 奏聞給了。 勅答之條々。執職事目録。師中納言被進之。今日所到來也。
 條々
(中略)
一 播磨國武士押領所々事
 委細成敗之條。返々所感思食也。人々愁已散歟。但挊保。桑原五ケ庄。上蝙。東這田庄等。猶令召進去文給。式或國領眼也。或難去思食。凡景時申状。一旦雖似有其謂。張行國中之時。爲免一日之命。有寄附所。或自由有押領之地。以之稱相傳歟。安田庄。自領家若狹局。雖稱預給。全不可然。以之察。可謂彼男一類偏蔑如國務。早可被誡仰也。於此國一國者。可然者可去進由。今被仰也。度々可随仰之由言上訖。仍仰能保朝臣。被遣仰畢。一旦雖逃去。猶隱居傍庄。催當國之輩伺隙。又致濫妨。能々可被誡仰也。桑原事。殊有被仰之旨候。
 
 当時、播磨の国は梶原景時が守護地頭。安田庄の領家は若狭局(?-1203、頼朝の乳母「比企の尼」の孫で、比企能員(?-1203)の娘。源頼家(1182-1204)の妾妻。)であった。

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