歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

前橋市・富田大泉坊A遺跡 全国初の「草の茎製」の結歯式竪櫛が初出土

2009年02月21日 | Weblog
 群馬県県埋蔵文化財調査事業団は19日、富田大泉坊A遺跡(同市富田町)から四世紀(古墳時代前期)とみられる草の茎製の結歯式竪櫛(けっししきたてぐし)の一部が出土したことを明らかにした。
 古墳時代ごろの結歯式竪櫛は全国で千点以上出土しているが、大半が竹製で、茎製は全国で初めて。県内出土の結歯式竪櫛四十数点では最古ともなる。
 結歯式竪櫛とは主に竹を細長く切り、糸などで束ねた「結歯式」の縦長の櫛。
 茎製の竪櫛は約三年前、県道の工事に伴う発掘調査で、集落に近い水田跡の水路から出土。昨年、埼玉県の分析会社に分析を依頼しところ、イグサ類などの茎を使ったことが判明した。
 出土したのは、竪櫛からすべての歯が取れた「頭」の部分で縦3.1cm、横3.5cm、厚さ0.3cm。 直径約0.8mmの茎を20本並べて中央を束ね、逆U字形に曲げた後、頭と歯の境を糸で24回巻くなどして留め、黒漆を塗って固めた。茎を20本束ねて曲げたため、歯は40本あったとみられ、歯の長さは約10cmと推測される。
[参考:東京新聞]
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名古屋市・平手町遺跡 日本最古(約二千年前)の舟形木棺が出土

2009年02月21日 | Weblog
 北区平手町1-1の平手町遺跡から、日本最古(弥生時代中期後半、約二千年前)の舟の形をした木棺が見つかった。これまで最古とされた京都府京丹後市の「金谷一号墓」のものより約200年遡る。

 舟形木棺は、敷地周辺に溝をめぐらした方形周溝墓(縦11m、横7.5m)から出土。棺は木をくりぬいて作られ、長さ2.8m、幅80cm、深さ10cm。内部から上あごや歯、鎖骨、足の骨の一部が見つかり、船尾を頭に遺体が置かれていた。性別は不明だが、身長155cm以上の成人と推測される。近くの墓から別の舟形木棺らしき一部も発見され、いずれも船首が南西を向いていることから、あの世に旅立たせるために太陽の沈む西方に向けたとみる。
注)船首(人の足先)が南西を向いているとするのは、中日で、毎日・産経・日経は北西を向いているとしている。
[参考:中日新聞、時事通信、共同通信、毎日新聞、産経新聞、日経新聞]
日本最古の舟形木棺出土=弥生中期の遺跡から-名古屋(時事通信) - goo ニュース
日本最古の舟形木棺発見 名古屋、弥生時代中期か(共同通信) - goo ニュース
FNNおよび中京エレビでは、ビデオ・ニュースを配信している。

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 平手町遺跡は庄内川と矢田川の合流点より2km南下した標高5m前後の沖積地に立地するという。堆積状況はハマグリを主体とする混貝土層が大きく3層、その間に炭化物層と焼土層を挟むと観察されている。
 また、隣接する西志賀貝塚は、昭和5年に発掘され弥生時代の前期から後期の貝塚と考えられ、当時すでに米作りも行われていたことが確認されているという。
 そうなると、当然、平手町遺跡は弥生時代には海に近いあるいは海の中にあった時代があり、舟を利用していたことになる。
 舟形木棺といっても、使わなくなった舟を木棺に転用したのかもしれない。

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佐紀陵山古墳・桃山陵墓地の伏見城跡 宮内庁が立ち入り調査を許可

2009年02月21日 | Weblog
<2009年2月20日立ち入り調査実施>
午後から、伏見城の本丸跡も立ち入り調査
明治天皇と昭憲皇太后の陵墓がある京都市伏見区桃山町の桃山陵墓地(約86万平方m)が20日、日本考古学協会など考古学、歴史学の十六研究団体に初めて公開された。豊臣秀吉や徳川家康が造営した伏見城の本丸跡など中核部分の立ち入り調査が行われた。
 午後1時半から約3時間、研究者14人が宮内庁職員の案内で、本丸や二の丸の遺構、空堀に架かる土橋などを巡回し、斜面の様子や郭(くるわ)の形状などを念入りに観察した。
 その結果、石垣の石がほとんど抜き取られており、徳川家光によって行われた城の破壊が徹底的だったことが分かった。
ただ、豊臣秀吉が築いたとみられる石が一部で残っていたことも確認した。家康の頃には用いない花こう岩や流紋岩など多様な種類の石垣が確認され秀吉の頃の石垣だろうとする。
また二の丸の中央部に、直径10数m、高さ5mの謎の土盛りが発見された。城郭を描いた絵図などには記載がないため、研究者からは「未発見の古墳では」という声も上がり、今後の研究に向けて大きな謎が浮かび上がった。
 調査では他に、20数m四方の天守閣の土台(高さ6~7m)も見つかった。
[参考:京都新聞、産経新聞、共同通信、読売新聞]

午前中、佐紀陵山古墳の学会調査始まる 
 20日佐紀陵山古墳で、日本考古学協会など考古・歴史系15学会の代表による墳丘の立ち入り調査があった。
 陵墓への立ち入りは、昨年2月の五社神(ごさし)古墳(神功皇后陵、奈良市)に次いで2例目。午後には明治天皇陵と皇后の昭憲皇太后陵がある伏見城跡の桃山陵墓地(京都市伏見区)に立ち入る。
 茂木雅博・茨城大名誉教授ら15人が、宮内庁の福尾正彦・陵墓調査官らの案内で墳丘に入り、最下段部を約2時間かけて調べた。
後円部にあるとされる埴輪や西側の周濠にある島の形をした遺構の状態を観察するだけで、遺物の採取や発掘などはしていない。
 佐紀陵山古墳は全長200mを超す前方後円墳で、3段の墳丘を持つ。4世紀後半から末ごろの築造とみられる。中世の盗掘記録などから、複数の銅鏡や多数の石製品を伴う石棺が竪穴石室にあったことがわかっている。桃山陵墓地は、宮内庁管理の近現代の陵墓地では考古・歴史系学会として初の調査となる。豊臣秀吉が築いた伏見城跡(16世紀)にある。陵墓そのものは調査せず、城跡の石垣の保存状態などを観察する。
 陵墓は関西を中心に天皇・皇后の188の陵と、皇子や皇女ら552の墓がある。宮内庁は「陵墓の静安と尊厳の保持のため」として一般の立ち入りを禁じている。だが、宮内庁が指定する被葬者の年代と推定される築造時期が一致しない個所が多く、1970年代以降、学会側が公開を求め、昨年2月に初めて学術目的の調査が許可された。
[参考:共同通信、朝日新聞]
奈良の日葉酢媛陵 研究者ら立ち入り(産経新聞) - goo ニュース

2009.2.14掲載分
 宮内庁は13日、陵墓のうち、垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵とされる佐紀陵山古墳(奈良市)と、明治天皇陵などの桃山陵墓地の伏見城跡(京都市伏見区)について、日本考古学協会などによる立ち入り調査を20日に認めると発表した。
 学会代表による陵墓の立ち入り調査は昨年の五社神古墳(神功皇后陵・奈良市)に続いて2回目。
 佐紀陵山古墳(注1)は前方後円墳。1916年に石室が盗掘され、修理時の調査で確認された出土品などから4世紀後半(~5世紀初め)に造られたとみられる。日本書紀によれば、日葉酢媛は3世紀の第11代垂仁天皇の皇后。
 伏見城は16世紀末に豊臣秀吉が築いた城で、天守閣などがあった本丸跡周辺に明治天皇陵、昭憲皇太后陵が築かれたため、城跡の主要部分は桃山陵墓地として宮内庁が管理している。
 立ち入り調査には考古・歴史学系の16学会から代表1人ずつが入り、午前中に佐紀陵山古墳、午後に伏見城跡を調査する予定。
 幹事役を務める日本考古学協会理事の福永伸哉・大阪大学教授(考古学)
(注1)日葉酢媛陵については、読売新聞は古墳時代前期(4世紀後半~5世紀初め)、全長207mとするが、朝日新聞は4世紀後半、全長約203mとしている。
[参考:1/19読売新聞、2/19時事通信、2/19朝日新聞]
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