古代の関所「律令三関(さんかん)」の一つで、亀山市にある鈴鹿関の西城壁は全長700m以上の規模で日本最大の関であったったことが市教委の発掘調査で分かった。
西城壁の遺構はこれまで、同市関町新所の「観音山」の裾で確認されていた。市教委が新たに先月から、観音山の南約500mにある「城山」西側の約170㎡を調べたところ、同様に土塁状になっている遺構が見つかった。
観音山の遺構の北端と城山の南端を結ぶと700m以上になる。三関のうち、既に発掘調査された不破関(岐阜県関ケ原町)は約500m四方の規模で、鈴鹿関の方が大きいことが実証されたという。
また、西城壁は「築地(ついじ)塀」という瓦葺の壮大な土塀だったとみられており、今回の調査地点からも大量の丸瓦や平瓦が出土。築地塀を造る際に柱で足場を組んでいた跡も見つかった。築地塀の底部の幅は2・1mと推定。築地塀の規模は底部の幅によって決められていたとされ、10世紀前半の「延喜式」の規定をさかのぼって当てはめると、高さは4mを超えていたとみられる。
【鈴鹿関】古代の法律「律令」に基づき、都から東国へ延びる幹線道に設置された関所の一つ。不破関(岐阜県関ケ原町)、愛発関(福井県)と合わせ「律令三関」と呼ばれる。文献では「日本書紀」の壬申の乱(672年)の記述に「鈴鹿関司」が登場するのが初めて。789年、ほかの二関とともに制度上廃止された。
[参考:中日新聞]
西城壁の遺構はこれまで、同市関町新所の「観音山」の裾で確認されていた。市教委が新たに先月から、観音山の南約500mにある「城山」西側の約170㎡を調べたところ、同様に土塁状になっている遺構が見つかった。
観音山の遺構の北端と城山の南端を結ぶと700m以上になる。三関のうち、既に発掘調査された不破関(岐阜県関ケ原町)は約500m四方の規模で、鈴鹿関の方が大きいことが実証されたという。
また、西城壁は「築地(ついじ)塀」という瓦葺の壮大な土塀だったとみられており、今回の調査地点からも大量の丸瓦や平瓦が出土。築地塀を造る際に柱で足場を組んでいた跡も見つかった。築地塀の底部の幅は2・1mと推定。築地塀の規模は底部の幅によって決められていたとされ、10世紀前半の「延喜式」の規定をさかのぼって当てはめると、高さは4mを超えていたとみられる。
【鈴鹿関】古代の法律「律令」に基づき、都から東国へ延びる幹線道に設置された関所の一つ。不破関(岐阜県関ケ原町)、愛発関(福井県)と合わせ「律令三関」と呼ばれる。文献では「日本書紀」の壬申の乱(672年)の記述に「鈴鹿関司」が登場するのが初めて。789年、ほかの二関とともに制度上廃止された。
[参考:中日新聞]