歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

栃木県壬生町・藤井39号墳 直径35mの円墳と確認 

2009年02月10日 | Weblog
 町教委は9日までに、国指定史跡・吾妻古墳(全長127.8mの前方後円墳)の西に隣接する藤井39号墳(下都賀郡壬生町大字藤井)が墳丘直径約35mの円墳で、河原石が組み上げられた石室を持つことを確認した。
 吾妻古墳に埋葬された人物と近しい人の墓だろうとする。
 調査によると、同古墳は吾妻古墳より約50-70年後の七世紀前半に造られたとみられる。二段墳丘のうち一段目が極端に広い「下野型古墳」。
 横穴式石室があり、幅約2m、高さ約1.8m、奥行き約5mで、河原石が「持ち送り」と呼ばれる当時の技術で組み上げられ、壁面は丸みを帯びた形状に仕上げられている。
 吾妻古墳の石室壁は青みがかった巨大一枚岩だが、藤井39号墳との材質や大きさの違いは、古墳を築造できる豪族でも権力に大きな開きがあったことをうかがわせるという。
 現地説明会は午前10時から。問合せは町歴史民俗資料館電話0282・82・8544。
[参考:下野新聞、前出・吾妻古墳]
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明日香村・飛鳥浄御原宮 北限溝の北に大型建物跡が出土

2009年02月10日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所が9日、明日香村の飛鳥京跡で、天武、持統両天皇の飛鳥浄御原宮(672~694年)の北限とされてきた溝の北側から、大型建物跡など2棟が出土したと発表した。
 飛鳥寺南門跡の南約100m付近を計約300㎡調査した。2007年に見つかった石組みの東西溝の東側で同様の溝が見つかり、その北側で小さな建物跡が出土。さらに東約60mで、東西15m以上、南北7m以上の大きな建物跡や砂利敷きの広場を確認した。
 大型建物跡は東西15m、南北7m分が確認され、南側に庇をもつ切り妻造りとみられる。建物跡の南側には砂利を敷き詰めた広場(東西8m、南北約15m)が見つかり、政治的儀礼が行われたと推定される。
 大型建物跡の西側には、東西方向の長さ8m分の精巧な石組み溝を検出。幅1・8mで、両側には60cm大の石を2~3段積み重ね、底にも石を敷き詰めていた。同様の溝は、2007年に西約40mの地点でも見つかっており、長さ60m以上にわたって宮内を延びていたことが分かった。
 これまで、宮の規模は、石組み溝を北限とする南北約800m、東西約500mの範囲ともみられる一方で、石神遺跡を含む南北1・4kmに及んだ可能性も指摘されてきた。ただ、今回見つかった大型建物跡方向に北東側だけ張り出した特異な構造との指摘もあり、議論を呼びそうだ。
 現地説明会は14日午前10時30分~午後3時30分。(小雨決行)
[参考:毎日新聞、読売新聞、産経新聞]
飛鳥浄御原宮の北に大型建物跡…想定超える規模を確認(読売新聞) - goo ニュース

2007.2.6
飛鳥浄御原宮は南北800m=北端?の石組み溝を発見-奈良
 奈良県立橿原考古学研究所は6日、天武、持統両天皇の都だった飛鳥浄御原宮(672~694年)の北端とみられる7世紀後半の石組み溝を見つけたと発表した。
 現場は飛鳥寺南門跡の南西約150mで、石組み溝は、河原石を並べた構造で幅1.5~1・7m、深さ0.5~0・7mで東西に約13m分を検出。天皇の正殿があった「内郭」の北約400mで見つかった。20~70cmの巨岩と小石を積み分けた2段構造。溝の南側には、南北の石組み溝(長さ2.3m、幅40cm、深さ35cm)が直角に築かれていた。水流調整のため溝と溝の合流地点で深さを変えるなど高度な設計。近くを流れる飛鳥川への排水路とみられる。同宮には正殿のほか、官庁街や大庭園の「苑池(えんち)」などが造られた。二つの溝はたい積土の状況などから同時期に造られ、藤原京遷都(694年)に伴って埋められたという。
 同宮は、天皇の住まいの内郭と役所の外郭からなる。外郭の東端からは石組み溝と、その5m内側に板塀跡が見つかっている。土地の形状などから、南端は内郭の南東で出土した「大極殿」遺構の南側、西端は飛鳥川と推定されている。この石組み溝を北限とすると、鳥浄御原宮は推定で南北約800m、東西は最大で約500mとなり、飛鳥盆地全体に広がる大規模な宮だったと推測される。
 飛鳥浄御原宮は、中国にならって造営した日本最初の本格的都城とされる藤原京(694~710年)に先立つ都で、その構造を知る貴重な手掛かりとなる。
[参考:2007.2.6 毎日新聞、朝日新聞、読売新聞、時事通信]
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京都・木津城山遺跡 弥生後期の尾根上に深い溝

2009年02月10日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは9日、弥生時代後期の高地性集落遺跡の木津城山遺跡(木津川市木津片山)で、尾根上にあった集落の北端を区切る長さ50mの溝が見つかったと発表した。
 同遺跡は、JR木津駅東側の城山(106m)で、山城地域を見渡せる山上にある南北300m、東西130mの高地性集落跡。昨年10月から尾根の北側などを発掘調査した。
 この結果、標高96mの等高線上に隣り合って並ぶ竪穴式住居跡4基を含む計6基が見つかり、その麓側から幅3-5mの溝が見つかった。深さは、麓側から見ると、まず50cmほど落ち込み、急な斜面を2-3m這い上がらないと住居側に辿り付けない仕組みであった。
 また、室町時代に木津城の主郭があった城山山頂の北西約50mで、尾根筋を分断する堀とみられる幅4・6m、深さ2mという大きなV字溝の跡が検出された。
 弥生後期と室町時代という戦乱の時代に、防御性をより高める工夫が行われていたとみる。
 現地説明会が13日午後2時から行われる。(小雨決行)
[参考:京都新聞、産経新聞、京都府埋蔵文化財調査研究センター前出]
備考:
木津城(相楽郡木津町木津字片山): 応仁・文明年間(1467-87)に領主・木津氏が築城したといわれる
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