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山口市(旧・小郡町) 奈良時代中期の河川の改修用?石板に「秦氏」「飾磨」が刻まれていた

2009年02月27日 | Weblog
 山口県内で1963年に出土した奈良時代中期(8世紀中頃)の小型石板に、古代の渡来系氏族名「秦」や「飾磨(しかま)」(現在の兵庫県姫路市)の地名などが、刻まれていたことがわかり、神戸大大学院・坂江渉講師(日本古代史)らの研究チームが26日、発表した。
 用途は不明だが、河川改修現場で使われた可能性があり、秦氏の活動を裏付ける貴重な遺物としている。
 石板は将棋の駒に似た五角形で、縦約23cm、横約15.9cm、厚さ約3cm、重さ約2・7kg。
表には「餝磨郡因達郷秦益人石(しかまぐん・いだてごう・はたのますひと・いし)」、裏には「此石者人□磨?石在」と線刻され、飾磨郡の秦益人という人物が持っていた石とみられる。
 集落の最小単位が「郷」になったのは740年(天平12年)以降で、字体も書風から同時期に書かれた文字と一致していた。
 上部に直径約1cmの穴があり、ひもなどを通して携行していたとみられる。側面には線状に削られた跡があり、砥石としても使用されたと考えられる。
 1963年に山口県吉敷郡小郡町(現山口市)の民家の敷地内で出土、現在は山口市の小郡文化資料館(山口市小郡下郷)が所蔵し展示している。
 出土地付近は聖武天皇が752年(天平勝宝4年)に建立した奈良・東大寺大仏に使われた銅の積み出し港とされる川があり、飾磨とともに同寺領の荘園だった。坂江講師は「朝廷の命を受けた飾磨郡の秦氏が、河川改修に派遣されたのでは」としている。
 朝鮮半島から渡来した秦氏は聖徳太子ら有力者を補佐して勢力を伸ばした。本拠の山背国(現在の京都市)で治水を手がけ、後の平安京遷都(794年)に大きな役割を果たしたとされる。
[参考:読売新聞、中国新聞、共同通信]

備考:
①続日本紀・天平2年(730)3月13日 「周防国熊毛郡にある牛嶋の西の汀と、同国吉敷郡の達理山から産出する銅を、治金精錬してみたところ、いずれも実用に堪えることがわかった。そこで周防国に命じて採鉱・冶金させ、隣りの長門の行なう鋳銭に充てさせた。」
②東大寺文書に「吉敷郡椹野(ふしの)庄」の名が見え、椹野川は銅を運ぶのに利用されている。椹野庄は小郡以南の地域という。

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