歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

大和郡山市・筒井城跡 14世紀末から15世紀前半頃の『畝堀』が出土

2009年02月26日 | Weblog
 市教育委員会が25日、筒井城跡(同市筒井町)で、敵の侵入を防ぐために造った14世紀末-15世紀前半の土塁と堀が見つかったと発表した。
 筒井城は豪族、筒井氏の居城。土塁は砂と粘土を交互に突き固めた堅固な造りで、中世の城郭としては例がないといい、築城様式の変遷を研究する上で貴重な史料。
 土塁は、本丸に当たる主郭を取り囲む堀(幅約8・5m)に沿って出土した。地面を約50cm掘り下げ、砂と粘土の層(厚さ6~20cm)を交互に重ねて埋め、さらに約80cmの高さまで積み上げていた。上面に削られた形跡があり、当初はもっと高かったらしい。寺社の築地塀の技術を応用したとも考えられるという。
 堀跡は幅8・5m、深さ1・5mが東西7mにわたって見つかり、堀の底には、両岸を結ぶように高さ最大約30cm、幅約40cmの土手のような障害物が築かれていた。西側の平面から約10cm盛り上がり、東側とは約30cmの段差があった。「畝堀」の可能性が高いという。畝堀は、後北条氏が小田原の山中城(16世紀後半)に設けたことなどで知られている。
 堀内からは土器のほか、15世紀前半の頃と見られる茶釜の銅製の蓋(直径14cm、高さ3・5cm)なども出土した。筒井氏が茶の湯に親しんだことを示すという。
 現地説明会は28日午前10時から。(小雨決行) 問合せは市教委生涯学習課。
[参考:共同通信、読売新聞、毎日新聞]
備考:
●筒井城
 筒井城の創築時期は不明だが、僧侶・満済(まんさい、1378~1435)が残した「満済准后日記」』(まんさいじゅごうにっき)に永享元(1429)年の条に、筒井館と記載されるのが初見である。当時の主は筒井順覚(?~1434)。
 今回出土した遺構が14世紀末-15世紀前半とすると、筒井順覚の頃(あるいは下って筒井順永の頃)が濃厚か。
●筒井氏
 筒井氏の出自について藤原氏の一族、近衛氏の分かれとする説、あるいは大神神社の神官・大神氏とする説など諸説あるらしい。
筒井氏は筒井庄(大和国添下郡筒井)を本拠とし、興福寺に属する僧兵から身を興した武士であるといわれる。
 今は、生駒市にある圓證寺(えんしょうじ、真言律宗)は筒井氏のゆかりの寺院だとされ、もとは筒井庄のあったといわれる。ここには順覚の4代後となる、順昭(1523-1550)を供養する五輪塔(重文)があり、天文19年(1550年)の銘がある。
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奈良県高取町・薩摩遺跡 「紀路」の道路遺構が出土

2009年02月26日 | Weblog
<現地説明会に700人。大壁建物5棟が出土>
 2月22日、薩摩遺跡の現地説明会が実施された、奈良新聞では考古学ファンら約700人が訪れたと報道されている。また、町教委の担当者のコメントとして「紀路かどうかは判断できない」としている点が気にかかる。
 一方、読売新聞の19日の記事では「紀路」より「大壁建物跡5棟」が出土したことをより強調して取上げていた。1棟は約15m四方あり、全国最大規模とのこと。
[参考:奈良新聞、読売新聞]
備考:
 大壁建物跡は朝鮮半島から伝わったとされ、全国30遺跡以上から出土しているようだが、高取町の遺跡からの出土が多い。清水谷遺跡、森カシ谷遺跡、観覚寺遺跡、羽内遺跡、薩摩遺跡など。

<2009.2.19掲載分>
 昨年末に、奈良時代末-平安時代前半(8世紀末-9世紀前半)ごろの灌漑用ため池跡や、檜前村寸の名を記した木簡などが見つかった薩摩遺跡で、奈良時代(8世紀)の道路跡が見つかったことを、町教委が18日発表した。
 飛鳥地域(明日香村)から紀州の和歌山市に向かう古代の官道「紀路(きじ)」の可能性があるという。
 町教委によると、出土した道路遺構は南北方向に長さ約20m。幅は約9mで、当時の長さの単位では3丈(1丈は約3m)に相当し、規格に基づいて造られたことが分かった。両側にそれぞれ幅約60cm、深さ約40cmの側溝が平行に走っていた。側溝の東側には、道路に沿って塀が設けられ、道路周辺も整備されていたことが判明。
 5世紀中ごろに整備された紀路は、発掘現場付近では北東から南西へ延びると想定されていたが、奈良時代に土地を南北方向に区画する条里制の施行に伴って、道路が南北方向に再整備された可能性もあるという。
 道路沿い東側からは一辺5m以上で、柱を建てるための穴が一辺1mと、しっかりした造りの大型建物跡も出土。庇が設けられ、通常の建物より格が上の施設で、地方役所の倉庫だった可能性がある。溝からは8世紀後半の須恵器の破片が見つかった。
 紀路は大和政権中心地の磐余(同県桜井市)や、飛鳥時代の飛鳥(同県明日香村)周辺と、紀の川河口の港「紀伊水門(きのみなと)」(和歌山市)を結び、交易品や海外の文化を伝えたとされる。
 万葉集には紀路を詠んだ歌が登場し、日本書紀や続日本紀にも歴代天皇が紀伊へ行幸した記述がある。中世には「高野街道」と呼ばれた。薩摩遺跡近くを経由し、紀の川沿いを通る道と推定されてきたが、出土例はなかった。
 現地説明会は22日午前10時と午後1時。小雨決行。
[参考:産経新聞、朝日新聞]

万葉集巻第一35 阿閉皇女(後の元明天皇)御作歌
 これやこの 大和にしては わが恋いふる 紀路にありとふ 名に負ふ背の山 
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