歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

朝来市・池田古墳 水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪出土

2009年02月20日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館(播磨町)が20日、古墳時代中期(5世紀前半)の王墓とされる「池田古墳」(同市和田山町平野)の周濠を横断して墳丘に通じる渡土堤(わたりどて)の部分から、最古の水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪が計11体全国で初めて出土したと発表した。
 水鳥形埴輪は死者の魂を運ぶ目的があるとされ、通路と見られていた渡土堤が、葬送儀礼に使われた可能性を示す貴重な発見という。
「水を使った『導水祭祀』の道具として置かれたらしい」としている。
 池田古墳は全長約141mで、但馬地方最大の前方後円墳。
 渡土堤は墳丘の東西両側で確認。東側の渡土堤は長さ約20m、幅約4m、周濠の底からの高さは約70cmで、周囲には盛り土の崩壊を防ぐ葺石が確認されるなど、規模や形状が初めて明らかになった。西側は長さ約23m、幅約6.5m、高さ約50cm。いずれも法面に護岸のための葺石が敷かれ、土が盛られていた。
 水鳥形埴輪はガンやカモをかたどっており、東側の渡土堤と墳丘の裾付近から、いずれも3m間隔で7体(高さ約40~50cm)出土。このうち1体の周囲には子鳥の埴輪が計4体(長さ約10cm、高さ約6cm)あった。出土状況から、親鳥の周りを囲むように置かれた可能性が高いという。「子持ち水鳥形埴輪」の出土例としては国内最古という。
 同博物館によると、渡土堤は他の古墳でも存在する例はあるが、陵墓のため発掘できなかったり、後世に改変されたりして詳しく発掘されたのは珍しいという。
 現地説明会は3月1日午後1時半から。問合せは池田古墳現地事務所
[参考:産経新聞、神戸新聞、朝日新聞、共同通信]
「渡土堤」ほぼ完全な形で発見 朝来市・池田古墳(神戸新聞) - goo ニュース
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八幡市・石清水八幡宮 左甚五郎作瑞籬の彫刻を含む欄間彫刻の修復完了、3月一般公開

2009年02月20日 | Weblog
 「平成の大修造」を行っている石清水八幡宮で、本殿などを飾る欄間彫刻の修復作業がこのほど完了し、急ピッチで取り付け作業を進めている。18日には、本殿や幣殿の欄間に極彩色の鮮やかな彫刻が次々に取り付けられ、美しい姿がよみがえった。
 同八幡宮は、2005年3月から本殿の大修復工事を始めた。工事は今月完了の予定で、4月25日に本殿遷座祭を控える。
 この日は、本殿の瑞籬(みずがき)や幣殿の欄間彫刻の取り付けが行われた。幣殿の東西には、孔雀、極楽鳥、牡丹、麒麟などが鮮やかに描かれた幅約3m、高さ約1m、重さ約50kgの大彫刻2枚が設置された。
 また、本殿の周りを囲う瑞籬(25m四方)には、極彩色で花鳥風月を表した欄間(横1・5m、縦0・3m)が次々とはめ込まれた。欄間彫刻としては珍しいカマキリやオシドリ、キツツキなどが生き生きと描かれている。同宮によると、瑞籬の彫刻計59枚(重文)は江戸時代の名工左甚五郎の作と伝わるという。
 同宮によると、1634年に石清水八幡宮の本殿が徳川家光によって現代の姿に改築された時、左甚五郎が社殿や回廊の彫刻約200点(全て重文)を手がけたとの言い伝えがあるという。
 欄間彫刻は、3月14日~4月12日の「未公開文化財特別拝観」で、他の神宝とともに一般公開される。本殿内も一部公開され、織田信長が奉納した「黄金の樋(とい)」が観れる。
[参考:京都新聞、朝日新聞、毎日新聞]
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佐野市・唐沢山城跡 麓の隼人屋敷跡から新たに石垣が出土

2009年02月20日 | Weblog
 唐沢山城跡(同市栃本町)の国史跡指定に向けた遺構調査を進めている市教委は19日、麓の根小屋地区でみつかった「隼人屋敷跡」から新たに発掘された高さ2m、長さ約11.4m、長さ30~40cmの桂岩が綿密に積まれている石垣を公開した。市内を流れる秋山川を越えて攻め込む敵を食い止める機能を果たしたとみられる。
 本丸跡付近の高石垣よりも古く、16世紀後半のものとみられる。戦国時代に軍事上の要衝として重要視された同城の構えが、年代を追って広範囲にわたって築かれたことが分かる貴重な発見となった。
 石垣が発掘された地点は、山頂の本丸から直線で西側700mの麓で田沼高東側に位置する、城主や家来が平時に生活する拠点であるかつて根小屋地区。
 これまで周辺では、土塁や堀跡など大規模な遺構が手つかずで残っているのが確認されている。今回の調査範囲は570㎡、昨年6月から調査を開始した。
 市教委は麓までしっかり築かれていたことが分かる貴重な発見とし、石積みの手法も本丸跡付近で見られる西日本の系でなく、関東の北条系の可能性が大きいとする。調査は2012年まで進められる。また、佐野氏が大規模な石垣を造ったのは、「越後の上杉氏と小田原の北条氏が勢力を争った当時、この城が要衝の地として重要視されたためではないか」と話す。
 唐沢山城は942年、藤原秀郷(別称・俵藤太)が築城したと伝えられるが、現在は出土遺物などから15世紀末の佐野盛綱(1467~1527)による築城との説が有力。以降、時の城主により度々改築が行われた。標高242mの唐沢山の頂上に本丸とみられる8m超の高石垣が残っており、関東七名城の一つに数えられる。戦国時代、上杉謙信の城攻めを幾度となく退けたことでも知られる。
 28日午前10時、同11時の2回、一般向けの現場説明会が田沼高校東側の発掘現場で開かれる。
[参考:下野新聞、毎日新聞、東京新聞]
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熊本県芦北町・花岡木崎遺跡 「駅家」の存在を示唆する木簡2点が出土

2009年02月20日 | Weblog
 県教育委員会は19日、花岡木崎遺跡(葦北郡芦北町花岡)で、古代道路に設けられた「駅家(うまや)」の具体的な名前が記された8世紀末から9世紀初めのものとみられる木簡2点が出土したと発表した。「延喜式」に記された駅家の存在を証明する貴重な史料となりそう。
 木簡は、南九州西回り自動車道芦北インターチェンジ(IC)の建設に伴う調査で、07年12月5日にIC予定地の井戸跡の底から見つかり、奈良文化財研究所などで文字の判読や保存処理などを行っていた。
 木簡は、縦18cm、幅3・5cmと縦15cm、幅4cm。「於」「佐色(さしき)」、「発向路次駅」との文字が墨で書かれていた。元は一つの木簡で「佐色へ向かって出発せよ」との意味で、何かの連絡に用いられたとみられている。
 駅家は、馬や宿を提供する施設で、延喜式には全国に402か所あったと記されている。
 花岡地区は、太宰府を中心に九州一円に広がる官道「西海道」沿いにあり、延喜式にある肥後国「佐色(佐敷)」駅という駅家があったとされる。
 以前から、佐敷は薩摩街道と人吉往還と不知火海に面する海上路の合流点であり、古くから陸海の交通の要所であったと言われてきた。
 全国で駅家の存在が確認されているのは兵庫県内の「布施駅」「野磨駅」2か所のみ。駅屋と断定するためには塀や門などを確認することが必要。このため、県教委は来年4月に現地調査を再開し「駅家であることを確認したい」としている。
 ほかに「駅」と書かれた土器が、熊本大構内の黒髪町遺跡(熊本市)からも出土している。駅家の一つ「蚕養(こかい)駅」の跡とみられているという。また、県内で古代の木簡が見つかったのは鞠智城跡に続き2例目という。 
 県教委は22日午後1時から、熊本市手取本町の県民交流館パレアで開かれる発掘調査速報会で出土した木簡2点を一般公開する。
[参考:読売新聞、西日本新聞、共同通信、朝日新聞、熊本県HP]
全国3例目 駅家跡か 「駅」「佐色」と記した木簡2点出土 芦北町の花岡木崎遺跡 古代交通の要衝?(西日本新聞) - goo ニュース
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紀の川市・北山廃寺・北山三嶋遺跡 14世紀の寺院用の瓦生産跡が出土

2009年02月20日 | Weblog
 和歌山県文化財センターは19日、貴志川町北山の「北山廃寺・北山三嶋遺跡」で鎌倉、室町期の寺院の瓦生産の跡が見つかったと発表した。
 北山廃寺は白鳳時代に建てられた古代寺院として有名で、これまでにも何度か発掘調査がされてきたが、今回の調査は2年次にわたって予定されており、本年度は、推定されている主要伽藍の外側を対象にしている。
 現在のところ2基の瓦窯が見つかっている。
そのうち、東側の窯は、ほぼ完全な形で見つかり、方形(縦1m、横1・3m、深さ50cm)の土製で、内部に火の回りを良くする2本のロストル(分焔柱)を持つ平窯であることが確認された。一度に2、300枚の瓦を焼くことが出来たと推測され、中から見つかった瓦の模様などから、14世紀頃に使用されたとみられる。
 もう1基の窯は、大半が調査区外であったため詳細は不明だが、瓦片と土で天井部分を作っており、中世の可能性が高いものとしている。
 窯の近くには、瓦の材料に適した粘土質の土が分布し、採掘坑とみられる直径1~3mの穴が100カ所以上発見された。さらに、窯の東側には、工房として使用されたらしい掘立柱建物2棟の跡もあった。これらが密集して見つかっていることから、材料集めから完成までを一貫して行える生産場所だったことがうかがえる。
 瓦窯を覆う土の周囲からは軒平瓦の破片(長さ約5cm、幅約30cm、厚さ約2cm)が見つかり、当時流行していた「均整唐草文」の装飾が施されていたことなどから鎌倉時代の遺物であることが裏付けられたという。また、調査区域(約7450平方m)では奈良時代のものと思われる焼き損じの平瓦も出土し、粘土の採掘坑なども周囲で発見されていたことから、古代寺院に関する遺構や当時の瓦作りの様子を知る貴重な発見という。
 瓦窯の面した谷は、住民から『かわらだに』と呼ばれており、地名が瓦窯の存在を裏付ける。
 この地区が古代から続く産地だった可能性もあるとみて、同遺跡で生産された瓦が、どこで使われたのか調べていくという。
 現地説明会は21日午後1時半から行われる。問合せは同遺跡調査事務所。
[参考:産経新聞、読売新聞、和歌山放送、朝日新聞、和歌山県文化財センター]
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平城京跡 「宝珠硯」が出土

2009年02月20日 | Weblog
 奈良時代の平城京の宅地跡で、約100m離れて出土した陶片2点が接合し、猿投窯(瀬戸市)の高級硯「宝珠硯」らしいことが19日、奈良市教委の調査で分かった。
 異なる時期の調査で見つかった2片がぴたりと合致。宝の珠の形をした約20cm大の硯で、猿投窯から運ばれたとみられるという。
 硯は3月2日から市埋蔵文化財調査センターで展示される。
[参考:産経新聞]

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 製作時期は奈良時代(8世紀)、材質は書かれていないが「須恵器」であろう。宝珠硯は奈良時代後半に現れる。
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