高山市は、同市三福寺町の桧山(ひのきやま)古墳で1988(昭和63)年に出土した7世紀の人骨を復元・鑑定した結果、これまで渡来系の特殊工人集団の人骨と考えられていたが、縄文系と渡来系の混血の特徴があることが分かったと発表した。
人骨は1988(昭和63)年に桧山古墳第2号横穴(玄室の長さ約4・5m、幅1・9m)から、ガラス玉や須恵器などの装飾品とともに50体分の破片が出土した。
昨年1月に、市が日本人類学会員の田中和彦・長野南高教諭と、住斉(ひとし)・筑波大名誉教授に復元・調査を依頼し。田中教諭が1年がかりで復元したのは下顎のない1体と、完全形の1体で、いずれも40-60歳の男性。1体は幅13cm、奥行き約21cm、高さ19cm。もう1体は幅14cm、奥行き約19cm、下顎部分がないため高さは14cm。
この頭蓋骨について、住名誉教授は「全体的に四角く、平たんな鼻骨、ほお骨が出っ張っているほか、頭の形は前後に長いなどの点が共通している。これらの点は、いずれも縄文時代人の骨格の形質だ」と指摘する。住名誉教授は08年に、遺伝子の解析から「飛騨地方の住民の3人に2人は縄文人の遺伝子を受け継いでいる」と発表しており、「頭蓋骨の特徴からも明らかになった」と話している。
鑑定では、眼窩(がんか)の間が離れている▽鼻骨の付け根部分が平坦-などの渡来系の特徴のほか、▽顔の形が四角い▽頬骨が角張っている▽眉間が出っ張っている-といった縄文系の特徴を併せ持つことが分かった。
この人骨は、近くに7世紀後半に建築された朝鮮様式の寺院「三仏寺」の跡があることなどから、寺を建築する技術を持った渡来系の特殊工人集団の墓と推測されていた。
住名誉教授は「在地の豪族が、飛騨の匠が都から持ち帰った技術で三仏寺を建てさせた可能性が出てきた」としている。
桧山横穴では、周辺で特別養護老人ホーム建設計画が持ち上がったため、高山市教委が85年から発掘調査した。岩盤に覆われた横穴の玄室(遺がいを納める部屋)の中からは約50体の人骨が見つかったが、当時は人骨の詳細な分析は行われずそのまま保管されていた。
頭蓋骨は、4月末まで市郷土館の考古コーナーで展示される。
[参考:中日新聞、毎日新聞、読売新聞]
人骨は1988(昭和63)年に桧山古墳第2号横穴(玄室の長さ約4・5m、幅1・9m)から、ガラス玉や須恵器などの装飾品とともに50体分の破片が出土した。
昨年1月に、市が日本人類学会員の田中和彦・長野南高教諭と、住斉(ひとし)・筑波大名誉教授に復元・調査を依頼し。田中教諭が1年がかりで復元したのは下顎のない1体と、完全形の1体で、いずれも40-60歳の男性。1体は幅13cm、奥行き約21cm、高さ19cm。もう1体は幅14cm、奥行き約19cm、下顎部分がないため高さは14cm。
この頭蓋骨について、住名誉教授は「全体的に四角く、平たんな鼻骨、ほお骨が出っ張っているほか、頭の形は前後に長いなどの点が共通している。これらの点は、いずれも縄文時代人の骨格の形質だ」と指摘する。住名誉教授は08年に、遺伝子の解析から「飛騨地方の住民の3人に2人は縄文人の遺伝子を受け継いでいる」と発表しており、「頭蓋骨の特徴からも明らかになった」と話している。
鑑定では、眼窩(がんか)の間が離れている▽鼻骨の付け根部分が平坦-などの渡来系の特徴のほか、▽顔の形が四角い▽頬骨が角張っている▽眉間が出っ張っている-といった縄文系の特徴を併せ持つことが分かった。
この人骨は、近くに7世紀後半に建築された朝鮮様式の寺院「三仏寺」の跡があることなどから、寺を建築する技術を持った渡来系の特殊工人集団の墓と推測されていた。
住名誉教授は「在地の豪族が、飛騨の匠が都から持ち帰った技術で三仏寺を建てさせた可能性が出てきた」としている。
桧山横穴では、周辺で特別養護老人ホーム建設計画が持ち上がったため、高山市教委が85年から発掘調査した。岩盤に覆われた横穴の玄室(遺がいを納める部屋)の中からは約50体の人骨が見つかったが、当時は人骨の詳細な分析は行われずそのまま保管されていた。
頭蓋骨は、4月末まで市郷土館の考古コーナーで展示される。
[参考:中日新聞、毎日新聞、読売新聞]