天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

鈴木紀夫

2016-03-02 07:36:08 | 歴史
鈴木紀夫
このありふれた名前だけを目にしても彼が何者かを認識出来る方は少ないでしょう。



この写真を見ればわかるように昭和47年23歳小野田さんと同じくらいの若さで単身フィリピンのルバング島へ日本兵探しにでかけ奇跡的に小野田さんと出会い投降の切っ掛けを作った人物です。

『「オイッ」
鉄砲を持ってキョロキョロと目をあたりに配りながら立っている人間がいる。
デッカイ男だなあ、こりゃ一体何だというのが第一印象だった。とにかく異様な感じを受けた。
その時は10メートル以上の距離があったと思う。

僕は、突っ張った足を一歩一歩進めながら近づいていき、2メートルくらいの距離になったとき、
疑いをもって「小野田少尉殿ですか」と聞いた。
小野田さんは、ただ、無言で目を周囲に配っている。無気味だが、これは勝てるかもしれんともう1度、そんな思いがひらめいた。
「戦争は終わりました」
自分でも考えてもみなかった言葉が出た。しかし他に言いようがなかった。
すると、まったく出しぬけな大声で、小野田さんが、
「俺にゃ戦争は終わっちゃいねぇ」』

大放浪小野田少尉発見の旅・・・鈴木紀夫より


赤津勇一陸軍一等兵(昭和24年9月逃亡昭和25年6月投降)

島田庄一陸軍伍長(昭和29年5月7日射殺され戦死)

小塚金七陸軍上等兵(昭和47年10月19日同じく射殺され戦死)

と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をします。


昭和25年赤津が投降し、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明します。

現地の目撃情報や度重なる捜索活動で発見することが出来なかったことが一人の日本人青年によって昭和49年に発見され投降となりました。

というより、逆に小野田さんに発見されました。

その距離10メートルで銃を構えてですからさぞや恐怖であったでしょう。発見まで2年が経とうという放浪ですから、鈴木さんの執念とたった一人のサバイバルの共通点が生んだ奇跡にも感じます。

そんな二人は友人関係となりますが、昭和61年ヒマラヤに雪男を捜す冒険で遭難し亡くなります。

「死に残った身としては淡々と受け止めているが、友人の死は残念だ」と語り、小野田さんは慰霊のためにヒマラヤを訪れています。

この事がなにを意味するか

小野田さんは鈴木さんを友人と認識しています。
帰還を果たした小野田さんには変わり果てた日本
鈴木さんもその日本を逃避するように放浪しています。

小野田さんに投げかけられる憐れみの視線、「軍国主義の亡霊」などの冷ややかな批判、政府からの見舞金や民間の義援金を靖国神社に寄付し、ブラジルへ移住。

変わり果てた日本から敢えて離れようとする共通の思いは戦友ならぬ友人として強く結ばれていたのだと思います。

小野田さんは昭和天皇の会見を断りましたが、それは恨みからではなく、陛下からの謝罪に恐怖したのでしょう。

もしも鈴木さんがいなければ小野田さんは60歳で米軍基地に突入して玉砕していたでしょう。
ルバング島で小野田さんを見つけたことで冒険の目的を果たした鈴木さんは38歳でその生涯をとじましたが、きっと雪男にも遭遇していたと信じたいものです。