天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

靖国論

2014-05-21 19:57:25 | 歴史
はじめに

東京の中心皇居の北の丸にある日本武道館、田安門を挟み反対側に大鳥居がある。
鳥居の真ん中は通るな、神様の通り道であるから、と囁かれているがたとえ端っこでさえも潜るのが憚られる程の例えようのない威圧感を帯びた空気を全身に感じる。

明らかに周囲の喧騒から隔絶された場であることを大鳥居の前に立ち感じる。日本全国の神社仏閣の荘厳さとは完全に異にする威圧感だ、普通の人間が神、英霊として祀られている。しかもその数246万余柱という途轍もない数の祭神が放つ空気は明らかに他の神社とは異質なのだ。

最後に仲間と交わす言葉「靖国で会おう」そう口にしてこの国の為に散っていった若者達の靈がここ一点に集中するそれが「靖國」だ、国の内外を問わず時代の新旧に左右されず明治から今を貫いている。


一、大東亜戦争の総括なくして靖国は論ずなかれ

戦争体験が微塵もない私が靖国を語るのは些か烏滸がましいが、私の歴史感に決定的な変化が生じたのは東條英機の遺言を読んでからだ。
義務教育、高等学校と歴史を学んだが近現代史に入れば第二次世界大戦で日本は敗戦した。

東條は悪人、日本は侵略戦争し原爆を落とされ敗戦した。そんな歴史感が常識化し日本にとっては触れてはならない、二度と繰返してはならない正に禁断の過去なのだと自分なりに解釈し封印していた。しかし、目から鱗だ 180度転換だ。まごうことなき自尊自衛の戦争だったのである。

一体どうして戦後70年近くの長きに渡り真逆の歴史が罷り通ってきたのか?

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、以下GHQと略記)は米軍の占領前の日本は邪悪な侵略国家であり米軍は日本国民を軍国主義者の抑圧から解放した救済者であるとする 思想工作/情報洗脳 を極めて強力に実行した。

所謂ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム
戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画である。(太平洋戦争)大東亜戦争後にGHQによる日本占領管理政策として行われた。

国を弱体化する一番の方法はその国から自信と誇りを奪い歴史を捏造することであり

『日本は侵略戦争した』

この歴史捏造をGHQは日本人自らに行わせたことにより国民全体に深く浸透させた。
現在に至りこのことがまかり通っている限りマスコミのプレスコードは作用し続ける 。70年の長きに渡り続いた最大原因だ。

忠実な日本人は絶妙なレトリックを駆使し広告し放送し表現し教育する。天才詐欺師の集団と言っても過言でない日本人のGHQは脈々と受け継がれ反日日本人の根底となる。

靖国神社はGHQの焼き討ちから逃れ宗教法人として辛うじて存続をゆるされた。戦後70年間靖国は頑なに靖国であることを守り続けたのだ。

昭和天皇陛下の御親拝の中止

所謂A級戦犯の合祀

首相の参拝の私的、公的

近隣諸国の批判

様々な圧力にさらされ今日があるのである。
国外からの批判は内政干渉として無視すればよいのだが国内的には国論を二分する程の対立構造を生み出している。この対立は大東亜戦後の見解の違いで何処まで行っても平行線のままなのだ。

所謂A級戦犯ひとつとっても合祀に対してあれこれ物申す事になる。大東亜戦争の解釈の相違がどうして起こるのであろうか。そこには歴史が二つある。作られた歴史と真実の歴史だ。

いったい何処まで遡れば良いのだろう。少なくとも豊臣秀吉までだ。皆さんはどう思われたであろうか、恐らくその途方もなさに脱力感のみに襲われる事だろう。歴史の捏造は古ければ古い程に容易であり、捏造方法も多岐にわたる。時には大胆に時には怯弱にこの対立がかたや捏造、かたや真実の戦いであり、後者は保守的でありマイノリティである。

故に依然として国民の半数以上が捏造された歴史感で靖国を見ている。70年かけてじっくり浸透した虚構の歴史はそう易々と変えられるものではない。

パラレルワールドの与えられた方を70年間忠実に歩んでしまった日本人。政府は日本を取り戻すと高らかに公言しているが、成るべくして成ったこの現状は易々とやり直せるほど容易ではない。
諸外国、国内左翼勢力、反日日本人が負荷を掛け後戻りさえも困難にしている。

国民に広く隅々まで先の大戦の総括として捏造の修正、正しい歴史認識の拡散が必須なのである。



二、昭和天皇

「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」

前年の昭和六十年に靖国神社公式参拝した中曽根首相が中国の内政干渉に屈し、この昭和六一年は靖国神社参拝を断念した。これは、日本政府の中国政府への「屈服・屈辱記念日」とも呼ぶべきで

昭和六一年八月十五日に昭和天皇陛下により、
靈の鎮魂が政治問題化している現状を捉えてお詠みになった御製である。

昭和天皇陛下は、日本政府の腰の据わらない対応に困惑されたばかりではなく、靖国神社へのご親拝が実現できないことを靖国神社に祀られている神々である英霊に詫びておられる叡慮がひしひしと伝わる。

昭和天皇陛下が、靖国神社参拝を切望されていたことは、この昭和六一年の御製であきらかである。

秦豊議員の「宮中祭祀・憲法違反」質問

「侍従は国家公務員であり、天皇の名代ということも個人的な資格ということが許されないと思います。伊勢神宮は明らかに宗教法人であるというありようにあわせてこれは明らかに憲法二十条に抵触する習慣と思います。これを習慣として見逃すことは余りにも重大であると思います」

これに対して、角田内閣法制局第一部長はあろうことか次のように秦議員の意見に賛意を表明したのである。
 
角田内閣法制局部長の「宮中祭祀・憲法違反」への賛成答弁

「神社へお参りするという場合もいろいろな方法があるわけでございます。いわゆる神道の儀式によって正式に参拝をするというようないろいろなやり方があると思いますが、そのやり方によって
ある場合は宗教的行為、あるいは宗教活動になるだろうとしかし、非常に単純なおじぎをするだけではそういうものにならないというような考え方もあると思います。」


「やすらけき世を祈れどもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど」

昭和天皇御製(昭和六三年八月十五日)

この御製に至っては昭和天皇陛下は「くやし」とお詠みになられている。決して感情を露に国民に示されない陛下が「くやし」と何故このことに国民、政府は見て見ぬふりをするのか。

敢えて言わせてもらえば、陛下は国民の平和と安寧を願っていらっしゃり、その国民、民草がお気持ちに応えるにはさっさと政治問題を解決し一日でも早く御親拝を再開して頂くことではなかろうか。

天皇陛下が大晦日深夜より冷水等で身を清めた後、元日の午前四時より儀式をされるこの儀式のなかで天皇陛下は「さまざまな国難は我が身を通過しますように」苦難は国民に行かず、すべて自分の身が受けて立つ祈りをされる。日本国民として本当に頭が下がる、お祈りをして下さっているのだ。

日本人が敗戦によって地獄の苦しみを受けたにも関わらず驚くべきスピードで立ち直れたのも陛下の御祈りがあったからである。

皇紀2674年もの長きにわたり続いてきた日本を三千四千年と存続させるのには皇室が不可欠なのだ。このような天皇陛下が戦犯云々、不快感などあろうはずは未来永劫ないのである。


三、戦争神社

靖国神社を靖国戦争神社
遊就館を戦死者を美化し軍国主義へ導く施設であると主張する一部の集団がいる。

明らかに先の大戦に対する歴史認識の相違がある。日本が侵略と植民地支配をしたという解釈で戦後GHQ史観を後ろ楯にして所謂A級戦犯の合祀を問題視している。

この点で遺族と体験者の戦犯への憎悪がある事から両者が結び着いて、近隣諸国おもに支那、朝鮮が戦争責任の矛先を靖国の戦犯に向けている事からも三つ巴となり、戦後利得者、左翼団体と膨れ上がっているのが現状である。

正しい歴史認識を取り戻す障壁となっているのが村山談話と河野談話だ 。戦後レジームからの脱却を安部自民党は高らかに掲げているが、公明と連立している限りは村山談話を踏襲する姿勢は崩さないだろう。

近年マスコミに対抗する様に保守化した国民がネトウヨなどと呼ばれる。これも左翼勢力の印象操作であり右傾化などしているのかさえ疑わしい。
一過性のブームで終わらせてはならない。

靖国神社は日本と日本人にとって切り離す事の出来ないものであり、そのことを戦争神社などと呼ぶ海外に広く周知徹底させることも重要課題である。

これらを無視して最新の国営墓地、追悼施設など造ってしまえば、靖国は易々と解体され、たちまち 日本は消滅してしまうに違いない。



四、靖国宮司

戦後(大東亜戦争後)の30年余り経過しての二人の戦いである。

宮内庁 徳川 義寛 侍従次長
靖国神社 松平 永芳 宮司
である。

徳川…、1906(明治39)年11月7日 - 1996(平成8)年2月2日は、昭和天皇の側近、 侍従長。尾張 89没

松平…1915年(大正4年)3月21日 - 2005年(平成17年)7月10日)は、日本の海軍軍人、陸上自衛官 90没

まずはじめに2006/7両者死後の富田メモである。
宮内庁長官の富田朝彦のメモであるが幾つか疑問点がある。

実物非公開、日本経済新聞だけが所持、誰の発言か不明、メモ自体の信憑性等が挙げられる。
この様な疑問点はがあるもののこの富田メモがどのような働きをしているかが重要だ

天皇陛下の御親拝中止と一部の戦犯合祀が原因である事。この戦いの焦点である戦犯合祀を問題視する宮内庁サイドを後押しするメモであることが言える。

つまり宮内庁が戦犯合祀に反対的立場でありその正当性を証明、確定しているのだ。ここでもしも全くの虚構であったならば、靖国の松平宮司の戦犯合祀が正当性を持つとする。それはどのような問題点となるのか。

戦犯はその罪は消え公務死、他の御霊と同等に合祀され靖国の御英霊となられた。

このどの部分に問題があるのか、たしかに戦犯は恩赦され公務死として27~28年閣議決定されている。ただし、A級戦犯で処刑(昭和殉難者)された14名は名誉回復が目的とされた。

つまり、赦免されることなく処刑された時点でA級戦犯の刑が確定しているのだから、名誉回復の為の合祀と考えて良いだろう。これら一連の合祀を富田メモまで持ち出し問題視する宮内庁は何を恐れているのか。

推測の域を出ないがもしもこの国から戦犯がいなくなるとその責任がただ一点、天皇陛下に及んでしまうからか。もしくはサンフランシスコ平和条約で、日本は東京裁判などの軍事裁判の結果を受け入れることが規定されており、法的には日本は国家として判決を受け入れてしまっている。

戦いは徳川、松平の両者に留まらずそれぞれを代表として、膨大な勢力の対立という問題を靖国神社は抱えている事になる。

五、靖国神社の本質

靖国神社を招魂社までさかのぼってしまうと見誤る。靖国神社の本質は大東亜戦争終戦からそれまでの靖国と明白にその存在意義を異にしている。

「兵士の志気を高め国家による戦争を推進すること」が最終的な目的とする明治からの勝ち戦の中での本質は終戦、宗教法人となってからは消滅したと考えるべきである。

その証拠に戦犯の合祀は東京裁判を否定し名誉回復すると同時に遺族に対する冷遇が改善されたからである。

推測であるが、おそらく徳川侍従は14名の戦犯合祀を見落としていたのかもしれない。
そう推理すると徳川侍従の慌てぶりや嘘の証言が理解出来る。

終戦からただひたすら国の為に戦没、殉職した人々の慰霊、鎮魂、顕彰を目的としているだけである。ただ一点問題があるとすれば戦犯とされた中に病死者がいる点であろう。しかし、正に戦後解体を免れ宗教法人に生まれ変わった時点において、また松平宮司が病死者を合祀した事により靖国の本質を決定付けたのである。

戦争を知らない世代が『終戦』を『敗戦』と教えられ、GHQによる洗脳で捏造された歴史観を植え付けられ、頭の中まで黒く塗り潰された彼らが深い洗脳から覚める日が来ることを祈る。

少なくともパール判事、マッカーサー証言、東條英樹の宣誓供述書を見れば靖国神社の本質も明らかになるはずである。

明らかに徳川侍従長は戦犯が合祀されてから天皇陛下が参拝を中止したと、その理由が合祀であることを明言しているかの如く松平宮司を責めている。

それを戦犯合祀問題まで誇張した徳川侍従と思われても仕方のない嘘をついてしまっていたのである。どうやら軍配は松平宮司に上がったと言っても良いだろう。だが徳川侍従の置き土産が天皇陛下の御親拝中止であったのです。

六、靖国問題

靖国に問題があるとすればそれは半数近くの遺骨が未収集であることであり、その他の問題は左派による言い掛かりのようなものである。しかし、何かにつけ天皇陛下が御親拝を中止したことを問題視する。あたかも自分達が御親拝を止めさせたんだと自負するかのように。

これら反日日本人がまるで入れ知恵しているかのように所謂A級戦犯分祀を中韓は干渉してくる。
それは必ずやB.C級戦犯分祀、何れは天皇陛下の戦争責任まで言及してくるに違いない。首相が参拝すればそれに呼応するように大合唱するのである。日本人であるならば何も問題はないのだからばか騒ぎは止めていただきたい。

七、靖国と共に

諸外国のいいなりにすればやがて靖国が解体され日本は消滅してしまう。つまり天皇陛下、ご皇室が無くなる危険性を孕んでいる。

日本人、靖国神社、天皇陛下は密接に繋がっており、その一つでも無くなればそれは機能しなくなると考えるべきである。

天皇陛下のお気持ちは御製により明らかであり、靖国神社は70年間変わらず存続している。問題は日本人にあるのだ。

正しい歴史を理解しようとしない日本人は何れや滅びるであろう。靖国神社を怖がり天にツバすれば自分に降りかかるだろう。

日本人が正しいアイデンティティーを取り戻し靖国と共に歩めば自と天皇陛下も寄り添って下さるのである。

原爆を落とされ、国家神道を解体され、現人神を奪われ、大東亜戦争の聖戦はねじ曲げられ、戦犯にその罪を被せ、祖国を愛せず、家族さえも守ろうとしない、そんな国民の未来など存在し得ない。

靖國神社御英霊246万6584柱はどの様な未来を想像したのか、是非もう一度考えてもらいたい。

摩文仁の丘

2014-05-17 06:15:52 | 歴史


日本に牛島旅団ありとまで言われ支那で恐れられた牛島満中将が

沖縄戦では何故悪将とまで左翼に批判されるのでしょうか?

アメリカ軍事評論家のハンソン・ボールドウィンは

「太平洋戦争において日本の名将を二人あげるとするならば、陸の牛島・海の田中」

とまで讃えられています。

日本軍は悪魔であるそう思わせたい左翼はその軍の名将の粗を探し汚名を着せたいのでしょう。

確かに硫黄島の栗林中将は島民を避難させましたが沖縄に於いては間に合わなかったのです。

対馬丸の撃沈もありましたが
疎開したがらない県民性も手伝ったのです。

6月上旬に牛島中将は米軍に知念地区の非武装化を提案しています。

バックナー中将に軍使を送り、知念半島地区を非武装地域に指定する事を提案しました。

 これにバックナー中将も同意したため、

牛島司令官は直ちに直属部隊で情報宣伝を主任務とする千早隊(指揮官広瀬大尉)

に命じて避難中の住民を知念半島に誘導すべく玉城村方面に行動させました。

また米軍も空中からその宗を記したビラを南部地域で配布しています。

 ところが本件は、通信機器の損壊も加わって前線部隊に周知徹底されず、

千早隊の隊員が友軍にスパイの嫌疑をかけられ一時拘束されると言うハプニングも発生

 では住民はどう行動したのでしょうか。

残念ながら第三十二軍や米軍の勧告に従わず大部分が摩文仁方面に移動して行ったのです。

逃げた方角?そうです左翼は結果だけを見て作戦を批判しているのです。

私は思う、牛島中将の対立する二人の部下がそのまま己の心の中の葛藤として存在していたと。

これだけの名将が迷う?牛島中将の写真を見て考えてみた

無骨と言うよりは穏やかで優しさが滲み出ている

俺は戦いにきたのではない沖縄県民を守りにきたのだ
と聞こえた気がした

最後に牛島満中将が自決したといわれる摩文仁の丘の洞窟にむかい県民と日本軍に合掌




ウチナーヌイクサ

2014-05-14 17:30:22 | 歴史
ウチナー(沖縄)は昭和12年支那事変から始まった大東亜戦争の最終戦の地となりました。

沖縄戦は昭和20年3月26日に始まり6月25日まで約4ヶ月間焦土と化すまで続きます。

大東亜共栄圏を縮小する形で昭和20年2月19日に始まった硫黄島の戦いは3月26日に陥落し容赦なく沖縄へ津波の如く押し寄せてきたのです。

ひとつこの硫黄島と沖縄の共通点をあげるとすれば

どちらも日本軍は戦いも知らない民兵に等しい軍人が主であった事です。

当時最終戦に近付くにつれ全てが欠乏しそれは物資だけでなく軍人も例外ではありません。

硫黄島と決定的に違う点があります

それは地元住民の避難が出来なかった、正確には間に合わなかったのです。

それでも約16万人は疎開させた記録はあります。戦前の人口58万人が終戦直後33万人まで減っています。

10万人に近い人々がなくなりました。それと同数の日本兵の犠牲を含めると20万人の死者数になります。

あの激戦の硫黄島の犠牲が18400人ですから沖縄戦の熾烈さがわかります。

若者は男女問わず日本軍と一緒に戦いました
老人と子供を守るために。

本土からは菊水作戦と呼ばれる「一億総特攻」で沖縄を米軍から守ろうと開始されました。

私はこの沖縄戦ひとつとってもやはり自衛のための戦争であると思わざるを得ない。

今ではこの沖縄戦は話す事もはばかられる程悲惨な戦いで

その代表に集団自決があります。

文字だけでもインパクトのあるこの事件が戦後今日に至るまで左翼のイデオロギーとして利用されてしまいます。

昭和25年発表の「鉄の暴風」当初軍命令で集団自決がおこなわれたと実名を出し痛烈に批判したのです。

家永三郎「太平洋戦争」
大江健三郎「沖縄ノート」
次々と左翼イデオロギー本を出版して日本軍は悪魔であることを印象付けていくこととなります。

ギネスにもなる程の教科書裁判で名を馳せた家永三郎ですが

陸軍士官学校教官を志望し受験するも、胃腸に慢性的な持病があったため身体検査で落とされるという経歴を持っています。

また戦後も、昭和天皇に進講したり、学習院高等科の学生だった皇太子(後の今上天皇)に歴史を講ずるなど皇室との係わりを持っていました

家永は日本国憲法下で『教育勅語成立の思想史的考察』
『日本思想史の諸問題』
という論文を発表しているが、

この中で明治天皇と教育勅語を高く評価している。

また、『新日本史』にも明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、

戦後も数年間は穏健かつ保守的な史観に依拠する立場をとっていた。

保守であった家永がなぜ左に傾倒していったのか?

それは、敗戦直後のてのひらを返したような言論界・思想界の豹変ぶりや、

歴史学界における史的唯物論の風靡に、違和感をいだき反発の姿勢を示したことによる

家永の思想が反権力的なものに変化したのは、逆コースと呼ばれる1950年代の社会状況に対する反発が背景にあり、

そのころに憲法と大学自治に対する認識の変化があったといわれている。

反政府、国家権力と対峙するような問題に取り組むようになっていった。

ある種のルサンチマンから180反転したのかもしれない。

『沖縄ノート』の大江健三郎
であるが同じく東大出身のノーベル賞作家である。

GHQの占領政策によってマスコミを義眼を埋め込まれたと表現した江藤淳と対立関係にあったとされる。

何れにせよ両者は左翼にとって欠くことの出来ない広告塔となりいまだに根本となっています。

沖縄戦集団自決の記述
詳細は「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」
 

『太平洋戦争』岩波書店1968年初版
 沖縄の慶良間列島渡嘉敷島守備隊の赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供出して自殺せよと命じ、柔順な島民329名は恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い集団自殺をとげた。米軍に占領された伊江島の住民が投降勧告にくるとこれを殺し、島民の防衛隊員で命令違反という理由で殺されたものも何人かいた。
 座間味島の梅澤隊長は、老人こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失った。


赤松大尉 と梅沢隊長


沖縄集団自決は、主に2つの島で起こりました。

一つは、赤松嘉次大尉が守備隊長をしていた渡嘉敷島。

もう一つが、梅沢裕少佐が守備隊長をしていた座間味島。

この両名は戦後60年以上も実名を挙げられ軍命令の濡れ衣を着せられ利用されたのです

梅澤裕さんは御存命でYouTube
にもアップされています。

ここで間違えないで頂きたいのは事実として集団自決は確かにあった。と言うことです

島民数百名近い方が集団自決でお亡くなりになられている事実です。

決して許す事の出来ないのはこの悲劇的事件を左翼の広告塔が捏造しイデオロギー化した行為であります。

事実は

渡嘉敷村の守備隊長(赤松嘉次)は、村民に対して、「非戦闘員だから最後まで生きてくれ。」と言った。

座間味島の守備隊長(梅澤裕)も、「そんなもの(手榴弾や毒薬)は渡せない。われわれの役目はあなた方を守ることだ。なぜ自決させなければならないのか。ただちに、集まった住民を解散させ、避難させよ」と命じた。

いよいよ明日にも敵が上陸という翌20年3月24日夜10時頃、

司令本部の基地隊に、村民代表5名が訪ねてきた。

助役、役場の者、小学校の校長、警察官、女子青年団長だった。

助役の宮里盛秀氏が言った。
「いよいよ敵が上陸しそうです。

長い間、御苦労様でしたが、お別れに来ました。

私たちは前から、年寄り、女子供、赤ん坊は軍の足手まといになるため、死ぬと決めています」

梅澤氏は本当に驚いた。「戦国時代の物語として聞いたようなことを、

まさか、沖縄の人が言うとは思いませんでした」と語る。

だが、宮里助役は続けた。

「自決の方法がわかりません。我々皆が集まって円陣を作ります。その真ん中で爆薬を爆破させて下さい」

「そんなことは出来ない」と梅澤氏。

「それなら役場に小銃が3丁ありますから弾を下さい。手榴弾を下さい」と宮里助役。

「馬鹿なことを言うな! 死ぬんじゃない。今まで何のために戦闘準備をしたのか。

みんなあなた方を守り日本を守るためじゃないか。あなたたちは部隊のずっと後ろの方、島の反対側に避難していれば良いのだ」

梅澤氏は諭して、5人に言った。

「食糧も山中の壕に一杯蓄えてある。そこに避難しなさい。死ぬなど馬鹿な考えを起こしてはいけないよ」

翌日、文字どおり地獄の戦闘が始まった。

梅澤氏は部下の6割を失って、遂に敗北した。

戦闘に没頭していた氏らは、住民たちのその後の動き、約800名中172名が集団自決した事実を知らなかった。

《村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。

みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。

村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。

早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。

その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、

「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、

赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言

以上複数の生き証人からの供述により濡れ衣は剥ぎ取られたのです。

これで一件落着か?
いいえ剥ぎ取った濡れ衣をすぐさま日本軍にかけたのです

軍命令は無かったが軍が深く関与したという玉虫色の判決で濡れ衣は英霊に掛けられたままなのです。

梅澤さんと赤松大尉の弟が名誉毀損で大江と岩波を訴えましたが最高裁で破れました。

沖縄ノートには実名表記していないという理由だけで
今現在も大江の本は世に出回っているのです。

個人的感想ですが
梅澤裕さんの戦争は平成の世になった今でもまだつづいているのです。

大江の本はこれから大嘘江偽三郎の「沖縄ノーウソ」とここに高らかに記します。

元沖縄守備隊長梅沢氏に捧ぐ

2014年8月6日
梅沢裕97才永眠
安らかにお眠りください

昭和天皇の行幸

2014-05-13 09:23:53 | 歴史
大御宝、天皇彌榮を
確かに感じられる時があった

昭和21年から29年にかけての8年間沖縄を除く全国を廻られました。

昭和天皇の全国行幸です

「国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う」と

崩御なされるその時まで沖縄の事が悔やまれておられたそうです。

佐賀県を行幸なされた時の話の一部をねづさんのブログより抜粋しました。

陛下が佐賀県に行幸されたのは、昭和24年5月24日のことです

朝、8時15分頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。

群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがりました

御料車が停車すると、群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。

一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立ちました。

そのあとから陛下が車から降りられました。

そしてえ入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。

その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳」の声があがりました

陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられました。

その姿に、群衆の感動はいっそう深まります。

ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがありません

(中略)


そして「親を失った子供達は大変可哀想である。

人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。

預かっているたくさんの仏の子供達が、立派な人になるよう、心から希望します」

と住職に申されました。

住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままならなかったといいます。

この挨拶のあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれました。

孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。

ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしないのです。

昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っているのです。

すると陛下が子供達に御会釈をなさいます。

頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。

それはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。

そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられました。

「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました」

すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。

そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。

すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、

「立派にね、元気にね」とおっしゃる。

陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。

この「立派にね、元気にね」の言葉には、

「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、

お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。

けれど今、こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、

私も嬉しい。これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。

元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」

というお心が込められているのです。

そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸に沁み込んでいく。

陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。

すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、

その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っています。

その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、

鹿毛医師に「大切に病を治すように希望します」と申されました。

鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、「誠心誠意万全を尽くします」と答えたのですが、

そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。

こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられました。

この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられました。

それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、

うってかわって、きびしいお顔をなされたのです。

入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。

重苦しい時間が流れる。

ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に、近づかれました。

そしてやさしいというより、静かなお声で、「お父さん。お母さん」とお尋ねになったのです。

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわからない。

陛下の目は、一点を見つめていました。

それは、三人の女の子の真ん中の子が、胸に抱きしめていた二つの位牌でした。

陛下は、その二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

女の子が答えます。
「はい。これは父と母の位牌です」

これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになりました。

「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」

この子は、よどむことなく答えました。入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。

この子は、よどむことなく答えました。すると陛下は
「おひとりで?」とお尋ねになる。

父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味です。

「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。

船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。

佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」

この子が、そう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。

そしてこの子の言葉が終わると、陛下は「お淋しい」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけられました。

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は、
「いいえ、淋しいことはありません。

私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。

お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。

そしてそっとお父さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。

だから、私は淋しいことはありません。私は仏の子供です」

こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。

この子も、じっと陛下を見上げています。
陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。

部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申された。

そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちたそうです。

そのとき、この女の子が、小さな声で「お父さん」と呼んだそうです。

これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられた。

その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣いたそうです。

東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていました。

子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになることになります。

山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいます。

その中に「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、

「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、

遺族の方達に、深々と頭を下げられました。

遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえてきました。

陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。
「どなたが戦死されたのか?」

「息子でございます。たったひとりの息子でございました」

そう返事しながら、老婆は声を詰まらせます。

「うん、うん」と頷かれながら陛下は
「どこで戦死をされたの?」

「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。

でも息子の遺骨は、まだ帰ってきません。

軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。

天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。

せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。

天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。

息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。ワーン・・・・」

そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わっています。

そうなのです。
この老婆の悲しみは、陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみとなっていたのです。

そばにいた者全員が、この様子に涙しました。

(中略)

そして陛下は、「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められました。

いよいよ陛下が、御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、

陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」と申したそうです。

すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると

「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」と申された。

御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれます。

そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていた。

宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれています。

 みほとけの
  教へ まもりて すくすくと
   生い育つべき 子らに幸あれ


※出典:しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」

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ねづさんのブログ
昭和天皇の全国行幸
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1322.html

沖縄県民カク戦ヘリ

2014-05-05 11:23:44 | 歴史

大田実中将


文中の□部分は不明
発 沖縄根拠地隊司令官

宛 海軍次官

左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ

沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ

然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ

所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ

更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ

是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン

糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ

沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ



電報の現代語訳
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、

県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。

県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、

知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、

県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。

にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。

残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、

しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、

軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、

辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、

看護婦や炊事婦はもちろん、

砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、

女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、

生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。

その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、

輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、

終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、

(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、

遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、

沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。


海軍次官宛の電報(現代訳)
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。

沖縄県民はこのように戦い抜いた。

県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。