『嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ』
日本人であれば殆どの人が幼少期に於いて耳にするフレーズである。
閻魔は仏教、ヒンドゥー教などでの地獄、冥界の主であり、冥界の王として死者の生前の罪を裁く神である。あの世の支配者であり、死者はあの世に行ったらまず閻魔による裁判を受け、死後の世界での扱いが決定されるとされる。
あくまでも宗教上の話であり、死後の世界の観念であるが、子供に教訓として諭すのに、「舌を抜く」とはやや残忍で恫喝的であるとも言える。
日本に於いて神仏習合の影響はこの嘘や犯罪に関して幼少期から贖罪意識に敏感となり真っ当な人間や道徳心を形成して来たのだろう。
地獄の裁判と言えば、ある意味日本人にとっては東京裁判がそうかもしれない。東京裁判で有罪となって処刑されたA級戦犯7名やその他BC級戦犯はさしずめ戦勝国(閻魔)に舌を抜かれたと当時解釈することは自然な流れであり、それにはそれ相応の嘘や犯罪があったと変換する能力は既に備わっていたとも考えられる。
「南京大虐殺は無かった」と主張すれば烈火の如く賛同と批判が巻き起こることは名古屋市長、アパ会長で体験済みである。
では彼等は嘘をついているのだろうか。
大虐殺とは一体どのような定義なのだろうか、結局その定義付けがバラバラであり、人数であるのかより残忍であるか、結論はない。しかしながら各論者は明確に人数に拘ることからも、殺害された人数であり、その派閥も30万人からまぼろし派まで数多くの学者が存在する。
更に言えば虐殺の定義すら定まっていない。戦闘行為での殺害か捕虜の殺害か、便衣兵の殺害か民間人の殺害かである。
これを戦争のない平和な日本の若者にとっては全て虐殺と感じてしまうであろうが、戦闘の殺害と便衣兵の殺害は国際法上も犯罪行為ではなく、合法なのだ。
その一番デリケートな部分の判断すらつかないのであり、厳密に言えばわからないとの判断が正直者ということになる。
私がやったと名乗り出れば1番の正直者であるのだろうが犯罪者である。中には吉田清治のような嘘つきもいたが裁かれることはない。私は目撃したという者がそれが便衣兵なのか捕虜であるのか民間人なのか判断が明確についており、回想でなく、当時の日記ならば動かぬ証拠となるはずである。
私は松井大将が一番の正直者であると思っている。これから舌を抜かれるかもしれない状況で嘘など着くはずかないのだ。つまり、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定しており、南京大虐殺などはなかったという松井の吐露は真実であり、正直者のまま処刑されたのである。
従ってなかったと信じているか、わからないと答える者が正直者であり、舌を抜かれるのは「〜教授が言っているから」、「安倍政権を壊したいから」「証言者が言ったから」「日本軍は悪いから」「戦争になるから」「ネトウヨだから」と何かしらの政治的理由で大虐殺があった、と主張してしまう者だろう。
南京陥落後軍服を脱ぎ中国大陸の土と日本の土で焼いた観音像を作り両国の戦死者を供養していた松井が舌を抜かれる筈はないのである。
死刑は高橋裕さんを死にたい
死刑は高橋裕さんのパワハラを死にたい
終わりました