天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

日本人は悪い人良い人?

2024-09-22 13:22:00 | 歴史



「民族とか国籍をひとくくりにして評価するような発言はやめろ」「おまえみたいな差別主義者は大阪にはいらない」

10年末前に行われた橋下大阪市長と在特会櫻井氏の会談で橋下氏が冒頭桜井氏に言い放った言葉である。

その言葉を直接サムネの文鮮明に捧げたい。彼は世界基督教統一神霊協会、所謂統一協会を設立した人物である。


早田高等工学校時の文鮮明(通名江本龍明)だ。差別用語だが朝鮮で言われるパンチョッパリである。

その文鮮明が統一協会で日本人信者に問いかけた言葉が「日本人は悪い人良い人?」だ。

早田を卒業後鹿島建設の京城支社に就職したが抗日運動が発覚し逮捕されている。
つまり、根っからの反日であると言えるのだ。
1964年に日本に上陸し、2023年に解散命令が下ったたが、その決断はあまりにも遅すぎた。



神功天皇

2022-02-05 02:32:00 | 歴史


神功天皇?神功皇后だろ、そんな声が聞こえてくるようだが、確かに日本の歴史に於いて神功天皇、そうよばれた時期も存在している。
現在初の女性天皇と言えば、第33代推古天皇であり、8人10代が存在する。

しかし明治時代までは『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』に第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされており、大正15年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外されている。

つまり、皇統を厳格化するために仲哀天皇の崩御後、皇后が摂政として統治した事実を詳細に判断するためだろう。現に記紀に於いても神功皇后として記載されている。

この事に乗じて新羅征伐をした神功皇后を
戦後の自虐史観の歴史学者の中には架空の人物を創作したとする説が多くを占めるようになる。それだけ戦後の学会は皇国史観を否定してきたともいえるのだ。

したがって欠史八代、空白の4世紀などの古代史の実証が困難なものに関しては取り敢えず否定しておくというスタイルに堕落したのであろう。

前回の邪馬台魂で記紀が神功皇后を卑弥呼に比定していることを書いたが、実際には
年代に100年のズレがある。神功皇后が討伐した田油津媛を卑弥呼に比定することも誤りである。

若井 敏明氏の説である田油津媛の100年前の先先代が卑弥呼とすることが限りなく正解に近いと思うのである。

つまり記紀に於いて意図的に卑弥呼、邪馬台国を隠したと仮定すると熊襲と同じように女王国は従わず、独自に魏に朝貢していたのだろう。

国内の混乱を伏せ一方で卑弥呼と匂わせ機密とする歴史書であり、国防白書でもあるのだ。




邪馬台魂

2022-02-03 13:37:00 | 歴史
ここ数回古代史をとりあげてきた。
義務教育で教育される日本史が記紀を無視して中国文献(漢の倭の奴国王、卑弥呼、邪馬台国)から始まることに違和感を感じつつも、近隣諸国への配慮から"学ばない""論争中"という状態を維持することを良しとしてきた『代償』に危機感を覚える。

つまり、我々のルーツを曖昧にして教育することで、民族差別や偏見を抑止すると期待されて続いてきた効果がそれを通り越して国益を蝕み始めていることを危惧しているわけだ。

記紀の否定は戦前の日本が記紀を手本に軍国化した代償であるとともに、それだけ記紀をベースにして国づくりしていた証ともいえる。

記紀には卑弥呼を神功皇后に比定する"匂わせ"が登場するが、記紀を編纂した700年代に編者は三国志魏志倭人伝を読み、それを遥かに凌駕する歴史書作ったと言える。

記紀を読むと歴史書編纂の理由や意義は平和と安寧であることが分かり、謂わば国防白書であることがわかる。

明治政府がベースにしたのがこの国防白書である。

多神教
太陽神
先祖崇拝
天照
人が神になる


日本の第二国歌、準国歌とされる『海行かば』もこれとシンクロするように700年代の『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(大伴家持作)の長歌から採られている。





葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日嗣(ひつぎ)と 知らし来る
 君の御代御代 敷きませる 四方(よも)の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大王(おほきみ)の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 
御心を 明らめたまひ 天地(あめつち).の 神相(かみあい)うづなひ 皇御祖(すめろぎ)の 御霊(みたま)助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 御食国(みをすぐに)は 栄えむものと 神(かむ)ながら 思ほしめして 
武士(もののふ)の 八十伴(やそとも)の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人(おいびと)も 女(め)の童児(わらはこ)も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ)

 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立(ことだて)て 丈夫の 清きその名を 古(いにしえ)よ 今の現(をつつ)に 流さへる 祖(おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君(おほきみ)に まつろふものと 言ひ継げる 
言(.こと)の官(つかさ)ぞ 梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言(みこと)のさきの聞けば貴み




卑弥呼248

2022-01-22 08:56:00 | 歴史




卑弥呼であると比定される人物は12人もいる。
248は卑弥呼が没した西暦である。

①天照大神説 
①"卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神説
②能登比咩説 
③宇那比姫説 
④倭迹迹日百襲媛命説
⑤熊襲梟帥の先代説 
⑥垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)説
⑦田油津媛の先々代説 
⑧甕依姫説(筑紫国造説) 
⑨神功皇后説
⑩熊襲の女酋説 
11.応神天皇と物部氏の一族説 


比定作業に於いて重要となるのが年代で、230年近辺から248年までである。

皇統を西暦に換算した
14代仲哀天皇の
192年〜200年
15代応神天皇の
270年〜310年
その間の70年間が仲哀天皇の妃神功皇后であることから⑨の説が存在する。

しかし纏向遺跡の箸墓古墳が放射性炭素年代測定(ASM法)による考古学的観点から240年〜260年と特定された。

箸墓は7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命であることから④の説が浮上し、紀元前とされる年代は否定される。
つまり、記紀をはじめとする皇統の皇紀を否定する代わりに畿内説が確立しているのだ。

ここから、神功皇后の70年間200年〜270年は逆算することで4世紀300年代となり、100年近い誤差が生まれ卑弥呼と同時代に存在し得ないのである。

④と⑨の説は九州説畿内説で対立することで成立するこじ付けに近く、その可能性はお互い下げあっていると言えるのである。

邪馬台国が九州に存在していたことはほぼ確定と言ってよいだろう。

 宇那比姫、 の垂仁天皇の皇女倭姫命、⑧甕依姫説 、11.応神物部氏一族も248とかけはなれている。九州ではないことからも② 能登比咩も除外される。
⑤⑩の熊襲も邪馬台国と対立していることから無理がある。



金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさく がんしゅ りゅうもん てっきょう)という。



昭和8年久留米、大分を結ぶ国鉄久大本線の線路の盛土のため土を採取した場所から出土した。
大正時代から久留米、大分其々に運行していた鉄道が昭和8年日田市を中心に繋がる。

だが世は国連を脱退し首相が伊勢神宮へ報告するような時代である。こんな鏡など忘れ去られるのは当然だろう。

日田市の三芳駅付近に不思議な区画がある。


土を採取し住宅地を造成している。ここがダンワラ古墳だとして仮にこの場所から出土したのであれば五本の指に入る巨大な前方後円墳だ。

当時を復元したのがこちらだ。



実に美しい、金銀を鏡にあしらったものは日本唯一で、漢の時代のものらしい。
これが卑弥呼のものだとは言わないが、その時代に送られたものと考えるのはあながち間違いではなさそうである。

幻のダンワラ古墳の埋葬者を神功皇后と仮定すると、消去法でこの二つが残った。

①天照大神説 
⑦田油津媛の先々代説 

藤原不比等は記紀に魏志倭人伝から数カ所引用して神功皇后が卑弥呼であると"匂わせ"をしているが、これは⑦の土蜘蛛田油津媛の先々代の卑弥呼を①天照大神として皇統に繋げるトリックなのではないだろうか。

従って卑弥呼は土蜘蛛であり、天照大神でもあるという私の仮説は不比等の策略にそのまま乗ったものであるが、敵土蜘蛛として打ち負かした者をも神として崇める八百万の神の国"邪馬台国"に生まれたことに感謝したい。





日の出る国

2022-01-17 15:10:00 | 歴史





多賀城跡の壺の碑



江戸時代は宮城県の多賀城の碑が壺の碑
“つぼのいしぶみ”とされていた。

明治9年の天皇の東北行幸に際して、宮内省から青森県に“つぼのいしぶみ”発見の要請があったようだ。

坂上田村麻呂が石を埋めたという伝承の残る千曳神社で発掘作業が行われたが、発見には至らなかった。

昭和24年6月に、その千曳神社近くの青森県東北町石文(いしぶみ)という所から「日本中央」と刻まれた石碑が出土した。

“石文”という場所で発見され、そのそばには“都母(つぼ)”と呼ばれる地域があることで“つぼのいしぶみ”という別名と一致することで突如可能性が濃厚となった。

だが専門家の調査を前に石碑の表面を磨いたことで、鑑定が曖昧。田村麻呂はこの地に達していない。日本中央の単純な碑文からも中心とは考え難いことで本物だとの確定はしていない。

しかし、中央とは基幹となる一点との意味を含む、つまり日の出る点である。

是非、多賀城跡の壺の碑と青森の日本中央の壺の碑の位置をマップで確認してもらいたい。






wikiより、

確かにどちらも日の出る中央と言えるが、12世紀末に編纂された『袖中抄』に
「顕昭云(いわく)。いしぶみとはみちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申ししは、石面ながさ四、五丈(120〜150センチ)ばかりなるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也(それをつぼとはいふなり)。私いはく。みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云えば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。」とある。




どちらが"つぼのいしぶみ"かは江戸時代以前から論争の的となってきたが、仮に贋作だったとしても日本の歴史的史料であることには変わりがない。

日の出る国同士の争いは宙に浮いたまま何百年も続いてきたのである。
最後に日本の最東端は納沙布岬(北海道根室市であることを記して今回はこれまでとしたい。