卑弥呼であると比定される人物は12人もいる。
248は卑弥呼が没した西暦である。
①天照大神説
①"卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神説
②能登比咩説
③宇那比姫説
④倭迹迹日百襲媛命説
⑤熊襲梟帥の先代説
⑥垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)説
⑦田油津媛の先々代説
⑧甕依姫説(筑紫国造説)
⑨神功皇后説
⑩熊襲の女酋説
11.応神天皇と物部氏の一族説
比定作業に於いて重要となるのが年代で、230年近辺から248年までである。
皇統を西暦に換算した
14代仲哀天皇の
192年〜200年
15代応神天皇の
270年〜310年
その間の70年間が仲哀天皇の妃神功皇后であることから⑨の説が存在する。
しかし纏向遺跡の箸墓古墳が放射性炭素年代測定(ASM法)による考古学的観点から240年〜260年と特定された。
箸墓は7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命であることから④の説が浮上し、紀元前とされる年代は否定される。
つまり、記紀をはじめとする皇統の皇紀を否定する代わりに畿内説が確立しているのだ。
ここから、神功皇后の70年間200年〜270年は逆算することで4世紀300年代となり、100年近い誤差が生まれ卑弥呼と同時代に存在し得ないのである。
④と⑨の説は九州説畿内説で対立することで成立するこじ付けに近く、その可能性はお互い下げあっていると言えるのである。
邪馬台国が九州に存在していたことはほぼ確定と言ってよいだろう。
③ 宇那比姫、⑥ の垂仁天皇の皇女倭姫命、⑧甕依姫説 、11.応神物部氏一族も248とかけはなれている。九州ではないことからも② 能登比咩も除外される。
⑤⑩の熊襲も邪馬台国と対立していることから無理がある。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさく がんしゅ りゅうもん てっきょう)という。
昭和8年久留米、大分を結ぶ国鉄久大本線の線路の盛土のため土を採取した場所から出土した。
大正時代から久留米、大分其々に運行していた鉄道が昭和8年日田市を中心に繋がる。
だが世は国連を脱退し首相が伊勢神宮へ報告するような時代である。こんな鏡など忘れ去られるのは当然だろう。
日田市の三芳駅付近に不思議な区画がある。
土を採取し住宅地を造成している。ここがダンワラ古墳だとして仮にこの場所から出土したのであれば五本の指に入る巨大な前方後円墳だ。
当時を復元したのがこちらだ。
実に美しい、金銀を鏡にあしらったものは日本唯一で、漢の時代のものらしい。
これが卑弥呼のものだとは言わないが、その時代に送られたものと考えるのはあながち間違いではなさそうである。
幻のダンワラ古墳の埋葬者を神功皇后と仮定すると、消去法でこの二つが残った。
藤原不比等は記紀に魏志倭人伝から数カ所引用して神功皇后が卑弥呼であると"匂わせ"をしているが、これは⑦の土蜘蛛田油津媛の先々代の卑弥呼を①天照大神として皇統に繋げるトリックなのではないだろうか。
従って卑弥呼は土蜘蛛であり、天照大神でもあるという私の仮説は不比等の策略にそのまま乗ったものであるが、敵土蜘蛛として打ち負かした者をも神として崇める八百万の神の国"邪馬台国"に生まれたことに感謝したい。