天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

小野田タマエ

2016-03-01 08:37:00 | 歴史
靖国神社に於いて戦没者の戦績を讃えるな、特攻を美化するな、などの声が良く聞かれます。

その論理の核となっているのが戦没者の死因や状況です。多数の餓死者や圧倒的戦力差による残忍極まりない死、マラリアなどの戦病死、その状況に至っては表現する事も憚られる状態で亡くなっていかれました。

では遺された遺族の気持ちはどうでしょうか。

小野田寛郎さんの母親のタマエさんはその両方を体験した貴重な存在です。タマエさんは出征前に22歳の寛郎に対して「捕虜になるな」「潔く死んでこい」と短刀を渡したそうです。

タマエさんの職業は教師です。彼女だけが変わっていたのでしょうか。30年たった一人米軍と戦い続けた寛郎は戦陣訓を守り抜いたのです。
「生きて虜囚の辱めを受けず」

戦後この戦陣訓は生きて帰るな、捕虜になるぐらいなら「死ね」と逆の意味で理解されてしまったようです。

寛郎は戦陣訓を忠実に守って生き抜いたのです。

これが理解出来ればタマエさんの「捕虜になるな」は死なないでくれとの切実なメッセージが解ると思います。

帰国後寛郎が語った母親のエピソードに6歳の寛郎に切腹を迫った話があります。

『小学校1年のとき、私は教室で級友の手をナイフで傷つけた。ナイフを貸してくれと頼んだら断られ、「ケチンボ」とけなすと相手はナイフを振リ回した。私は身を守るため、近くの机の上にあった別のナイフで応戦したのだ。
  学校から連絡を受けた母は激怒し、私を仏間に座らせた。私は正当防衛だったことを主張したが、母は自分の護り刀を私の目の前に置き、「人に危害を加えるような子は生かしておけません」と、私に切腹を追った。
  6歳の子にこんなむちゃな要求をする親がいるものかと驚いたが、私はついに腹を切れず、「今後二度と刃物は振り回しません」と誓わされた。母はその後、この件についていっさい触れることはなかったが、私が22歳でフィリピンに出征するとき、言っておかねばならぬことがある、と切り出した。
  「短刀を差し出したときは大博打でした。おまえのことだから、ひょっとして本当に腹を割くかもしれない。そのときは、私も死ぬつもりでした」
  私は死にたくないから腹を切れなかったが、母の述懐から、わが子の将来のために、親は腹をくくらねばならぬことがあることを知った。』



この時代は日本軍も強かったがその親の愛情も今より数倍強かったのだと感じます。