「大嘗祭の本義」で、天皇は天皇霊を身につけた人物であると読み解いた民俗学者の折口信夫は敗戦をして『神やぶれたまふ』と表現し、青一色を敗戦の記憶として刻んでいる。
神こゝに 敗れたまひぬ──。
すさのをも おほくにぬしも
青垣の内(ウチ)つ御庭(ミニハ)の
宮出でゝ さすらひたまふ──。
くそ 嘔吐(タグリ) ゆまり流れて
蛆 蠅(ハヘ)の 集(タカ)り 群起(ムラダ)つ
直土(ヒタツチ)に──人は臥(コ)い臥(フ)し
青人草 すべて色なし──。
村も 野も 山も 一色(ヒトイロ)──
ひたすらに青みわたれど
たゞ虚し。青の一色
海 空もおなじ 青いろ──。
埼玉大名誉教授の長谷川三千子氏は
「絶望の極まつた末の美しさ、酸鼻のきはみのはてに現はれる森と静まりかへつた美しさといふものがある」
「昭和二十年八月十五日正午の、『あのシーンとした国民の心の一瞬』のかたちが、これらの詩句のうちにくつきりと灼きつけられてゐる」
と著書『神やぶれたまわず』の中で評価しているが、折口の人と自然を色として捉えた究極の色彩感覚の中に美しさを見出したのだろう。
そして著者は本当の意味での敗戦を
『大東亜戦争敗北の瞬間において、われわれは本当の意味で、われわれの神を得たのである。』
折口とは真逆の「神を得た日」とし、まさしく『神やぶれ給わず』としたことに絶望の美を希望の美、日本人の美徳として、大東亜戦争敗北の瞬間において、われわれの神は決して敗れはしなかったのだとの結論に到達する。
つまり長谷川氏は終戦の絶望の中に國體護持がなされたという天皇陛下の詔に神だけはやぶれたのでなく、寧ろ日本を敗戦から救ったのだという日本人の精神性を失ってはならないと警鐘を鳴らしているのだ。