天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

特攻隊員に見える富田選手

2015-05-29 13:11:25 | コラム
【競泳・冨田選手】韓国地裁が有罪判決(アジア大会カメラ窃盗) を下した。

予想どおりの判決というか、日本人と言うだけで有罪となる国だ。逆に被害者だと相手にもしてくれないらしい。

一番の問題は日本のJOCの対応である。あくまで、韓国司法にまかせるのか、つまりその判決を国内でどの様に扱うかである。

富田選手の処遇である。

つまりこのままデサントを解雇されたまま水泳選手の日本代表の座から引きずり降ろされたままで終わるのか、

復職し代表選手として水泳ができるのかである。

このことはたかが一水泳選手の問題ではなくなっている。国家と国家のぶつかり合い、つまり戦争にも匹敵する争いに他ならない。

もう韓国の司法がいかなるものかの結果はでている。つまり相手からハルノートは出されたのである。

私としては控訴してほしいが冒頭述べた韓国司法の反日性を考えれば、これ以上金と時間をドブに捨てるのは止めてもらいたい。

一番大事な事、それは今まで口を噤んできたJOCの結論だ。富田選手をどう守るのかである。

富田選手が若くしてこの国の為に散っていった特攻隊員に重なってしかたがない。

戦後70年日本は侵略と植民地支配を行い、アジアに多大なる被害をもたらした国、そして若者を特攻させた卑劣な国の判断のままであるならば

判決を重く受け止め厳しい処分を富田選手に出すのだろう。

もしも日本が戦前のあの頃のように正しく変わっているのならハルノートを破りすて、富田選手を無罪とし、復職と選手復帰させ金メダルを獲得して欲しい。

この様に富田選手の問題は安倍談話にも匹敵する大事な判断が要求されるのである。

靖國問題で一番得する者

2015-05-25 22:48:30 | コラム
【神道の連続性】

フランシスコ・ザビエルは
「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、彼らより優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。

彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」

ザビエルは当時室町時代の日本での布教活動の困難さを日本人の印象を語ると共に本国へ伝えたと言われています。

当時の宗教、浄土真宗は蓮如の布教で信徒を増やし、日蓮宗も京都の商工業者の間で多くの信者がいました。

神道と仏教の違いは、神道は神話に登場する神々のように、元来地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、

仏教はおもに個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違します。

奈良時代以降の長い間、神道は仏教信仰と混淆し一つの信仰体系として再構成された宗教現象です。

仏教が日本に伝来した当初は日本書紀の欽明・敏達・用明各天皇記をもとにすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたようですが、

仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなり、戦国時代および安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した地域で、神社・仏閣などが焼き払われました。

江戸時代前期においては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まり、

影響を受けた池田光政や保科正之などの諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策をとりました。

徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏も規模が大きく、領内の半分の寺が廃されました。

光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めます。

天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理しました。

幕末期に新政府を形成することになった人々は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていくことになるのです。

また同時期に勃興した国学においても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興します。

中でも平田派は明治新政府の宗教政策に深く関与することになり、大政奉還後に成立した新政府は慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、

および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを推し進めます。

このように、神仏の分離は明治期の突発的な政策ではなく、混淆したものが江戸期から徐々に
分離淘汰されていくのです。

つまり、江戸期において宗教は管理され信仰というよりは学問として抑圧されていたと考えられます。

江戸期の町は『火事 喧嘩 伊勢屋 稲荷に犬の糞』と言われるほど稲荷神社だけでも相当数あったといわれます。

神道は宗教としてでなく、生活として日本に存在していたのです。

明治政府は「神道は宗教ではない」という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置きました。

終戦により一元的外在制約説の箍が外れたことが新興宗教の増大に拍車をかけたのです。

【幸福の科学と創価学会】
両者は同じ仏教ながら水と油、信者数NO1の幸福を政治力も大学も無いと創価の信者は詰ります。

宗教とは他宗を隔絶し反発することによって自らを守ろうとします。

この両者には神がいません、仏様です。厳密にはキリストにあたるものがエル・カンターレと日蓮大聖人という仏です。

靖國神社の英霊、戦没者が神となることに何かしらの違和感は感じているでしょう。仏教的に言えば、供養して1日でも早く仏様にと考えるでしょう。

幸福が真の歴史を広め創価と対立しているのは
信者獲得の為という組織拡大にあると思います。

幸福が創価のブレーキとなってはいるのですが
靖國に関してまたは皇室に関しては同じ見解なのです。

それ以上に大川は昭和天皇の霊言として靖國に関しては全く的外れで意図的に皇室を貶めています。

【創価学会】
創価学会信者は対外的には神までいるという、実に柔軟な思考をもっていると思われる対応をし、誘われれば鳥居もくぐるし英霊に哀悼の祈りも捧げると言います。

しかしながら池田氏や山口代表の靖國参拝は見たことがありません。強制ではないからです。強制となればたちまち反対するでしょう。山口総理が仮に誕生したとしましょう、

武道館には出席しますが靖國参拝はしないでしょう。何故ならば宗教法人靖國神社は異宗教ですから、所謂戦犯の合祀を問題化し、

特亜のクレームを理由に己の信教は伏せ8/15は武道館に出席するでしょう。

信者の方は皇室のことを天皇家とよびます。皇室は万世一系の天皇をいただき2675年間今上天皇陛下までの125代連綿と続いているのが日本の皇室です。

姓がないのに、どうして家と言えるのでしょうか?これは重要なポイントで『天皇家』を使う輩は間違いなく貶め廃止を企みます。

付随して保守の中にも京都に御戻りいただく、や江戸城再建などと主張する輩もこれに同じく
70年かけて皇室を貶める行為と考えます。

神道に対してもそれを信者は『天皇家の宗教』
と呼びます。神道とは古代からの原始宗教、自然崇拝であるアニミズムであり、日本の宗教です。

自然の中に八百万の神を見出し、神と人を取り結ぶ作法が祭祀であり、神が人の姿を見せるのが天皇なのです。

神道とは生活であり、日本の心であり、日本の宗教でもあるのです。ですから靖國が当時の国家神道であれ、現在の宗教法人であれ、

参拝者がどの様な宗教でも拒むことはないのです。

ですから学会にとって現実的に参拝する、しないは問題ではなく、異教の教祖的な存在である天皇陛下を心の内では拒絶しているのです。

靖國問題とは学会自身の参拝問題に言及することを避ける絶好の問題であり、決して表に公言しませんが皇室廃止にベールをかける意味合いを持っているのです。

彼らは政権与党となって日本と皇室を引き離す絶好の地位にいるのです。

【膨れ上がる創価企業】

民主主義の中で合法的に日本を操作するため、ただ一点政教分離原則のグレーをクリアすれば
アンダーグラウンドで宗教が政治、日本を操作出来る一歩手前まできています。

大作の創価というあからさまなダイソー、ユニクロ、ツタヤ、ヤマダ電気、等々関連企業あげればきりがありません。石を投げれば創価に当たるです。

大学、企業、政治と創価王国は日の丸を掲げることなく全国各地で日本人として、連立与党として君臨するのです。

新型ウイルスの様に時代に対応しながら、日の丸を掲げろと言われれば掲げます。靖國に参拝しろと言われれば参拝します。

安倍政権が倒れれば、ほどなくして皇居に高層ビルが立ち並び、コスモポリタン東京となり、古き良き日本は跡形も無くなるでしょう。

はたしてそれが日本と呼べるのでしょうか?
信教の自由の中で皇室をお護りしていくには宗教に対して政治的権力を与えてはならないのです。

日本人に生まれて、日本国に住むものとして2000年以上続く皇室は必要不可欠で、天皇陛下と約束を交わし日本存続の為に命を捧げて神となった事実はどんな宗教であっても否定することは出来ません。


八重山教科書問題にみる沖縄の未来

2015-05-22 18:37:32 | 歴史
外国人記者クラブで沖縄県知事の翁長雄志氏が会見を開いた。

冒頭、琉球600年間の歴史から言及するある種堂々とした態度に他の知事には感じられない、
風格を感ぜずにはいられなかった。

総理、政府との対等とも思える物言いと発言力は小国のそれとも見まごうほどである。

一番印象的な発言は『平和の緩衝地帯として日本の防衛のために基地をたくさん置くのではなく、アジアと日本の架け橋になる』だろうか。

耳触りの良い言葉はその言葉尻をとれば『独立したい』である、いやその《架け橋》の言葉は
『もはや沖縄は日本ではないのだ』、というはっきりとした決意表明にも聞こえる。

中盤で教科書問題に触れ県民感情の複雑化と難題としての移設反対を強調したが、正に支那、朝鮮の歴史認識問題の論調に酷似している。

3つ仲良く並んだ島、与那国、竹富、石垣の竹富だけが東京書籍。二島は育鵬社となった。



両者公民の教科書を比較すれば話は早い。

《平等について》
 育鵬社版の、「行き過ぎた平等意識はかえって社会を混乱させ、個性をうばってしまう結果になることもあります」

に関して、育鵬社は平等権を否定していると非難している。

育鵬社は法の下の平等を認めたうえで、現実は平等と社会、個性が対立する場合もあると述べているのであり、法の下の平等を否定しているわけではない。

 東京書籍の「生まれによる差別」が平等権に反しているという考えは、全ての人間は横並びの同じ生活をするべきであるという主張になり、全体主義につながる面がある。

 表現をどの範囲まで許容するかというのは政府が基準をつくるしか方法はない。

政府が許可した教科書は基本的に認めるべきであり、育鵬社の教科書に反対する人たちは教科書批判を通り越して政府批判まで発展する。

つまり、教科書問題とは基地問題、沖縄問題、
日米安保、と根本で繋がり拡大して左翼勢力を構成しているのだ。

日本の抱える基地問題とは単に基地を移設するだけのお手軽な問題でなく、70年経過して癒えるどころか、振り返る度に米軍が沖縄に上陸したあの始まりへと瞬時に戻るワームホールなのである。

その沖縄の感情を一身に背負った人物こそが
翁長知事であり、単独で外交可能な唯一の知事なのだ。

政府、本土の国民は沖縄のその対峙するメカニズムが支那朝鮮と酷似していることからも単なる基地移設のゴリ押しを続けるだけでは立ち行かないところまで拗れている。

やはりポイントは歴史認識問題であり、支那朝鮮におもねる歴史観ではなく、日本独自の歴史観を広く共有、教育することが不可欠であるのだ。


田中上奏文

2015-05-21 04:34:11 | 歴史
初めに間違わない様にことわっておくが、コミンテルンにより捏造された可能性がある、極めて偽書の疑いの高い文書である。

東京裁判に於いてさえ証拠能力に乏しいとして不採用になったものだ。

田中上奏文は、昭和初期にアメリカ合衆国で発表され、中国を中心として流布した文書で、

第26代内閣総理大臣田中義一が昭和2年に昭和天皇へ極秘に行った上奏文とされ、

内容は中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服する手順が説明されている。

当時中国で流布していることに対して中国政府に抗議したところ、中国政府は機関紙で真実の文書ではないと報じたが、

その後の日中関係悪化にともない1930年代に中国は反日プロパガンダにこの文書を利用し、

日本は国連などでも答弁を求められるが各国は中国を支持し、日本は国際社会で孤立し外交的に敗北することになった。

作者については諸説あり不明である。また、田中上奏文を本物と考える人は現在でも特に国外に存在している。

つまり、この町の全ての家に泥棒に入る計画書を偽造され訪問した家で逮捕された様なもので

誰もそんな計画書を書いて泥棒に入るものなどいないと言うはなしだ。

時代背景と照らし合わせればその疑いは確実のものとなる。1927年(昭和2年)3月24日、

蒋介石ら国民革命軍は南京に入城し、外国領事館を襲撃する南京事件が発生する。

この南京事件はのちにコミンテルンのミハイル・ボロディンらによる工作であることが発覚するが、

同年4月3日にも日本人居留民が襲撃される漢口事件が発生した。

こうした事件を受けて幣原喜重郎外相の協調路線は軟弱として批判され、1927年4月20日に田中義一政友会内閣が成立する。

田中は対中外交を積極方針に転じ、5月末より6月にかけて居留民保護のために山東出兵を行った。

6月27日から7月7日にかけて東京で外務省・軍関係者・中国駐在の公使・総領事などを集めた対中政策についての東方会議が行われた。

東方会議は、田中内閣のもとで外務次官となった森恪が実質的に組織した。

森は満蒙政策強硬論者であり、遼寧省・吉林省・黒竜江省の東三省を中国から分離方針が反映したものであった。

7月7日に「対支政策要綱」が発表され、自衛を理由に武力行使を辞さないこと(第五条)、日本は東三省、満蒙に「特殊地位」があること(第七条)、動乱が満蒙に波及した場合は「適当の措置に出づるの覚悟あるを要す」とあった(第八条)。

親拝停止

2015-05-19 01:57:09 | 歴史
歴代天皇陛下の靖国神社御親拝合計回数
明治天皇陛下   7回
大正天皇陛下   2回
昭和天皇陛下   28回

戦後8回

昭和20年
昭和27年
昭和29年
昭和32年
昭和34年
昭和40年
昭和44年
昭和50年最後の御親拝

三木武夫が昭和50年8月15日、総理としては初めて終戦の日に参拝した際の、私的参拝4条件

公用車不使用、
玉串料を私費で支出、
肩書きを付けない、
公職者を随行させない

による「私人」としての参拝を行った以降、特に論じられるようになりました。

総理大臣の公か私的かの発言に対して国論が二分するような政治問題化が御親拝停止の主たる原因であることは当初から申し上げている通り
疑いようのない事実です。

しかし、以降10年間4人の総理が27回に渡って参拝は継続されますが、

靖国神社に対して玉串料などを公費で支出した参拝は、第72代総理であった中曽根康弘による昭和60年の参拝が訴訟の対象とまで問題化し、

首相の参拝までもが中断し平成8年の橋本龍太郎が一回その後また途絶え平成13年の小泉純一郎まで中断します。

昭和53年の合祀など何にも影響していません。

昭和57年に公式参拝を公約に掲げ中曽根内閣が誕生しました。

戦後40年の終戦の日に首相が靖国神社を公式参拝するかが注目され、特に朝日新聞は常道を逸した「反・靖国キャンペーン」を展開し始めます。

「戦前回帰」「軍国主義」といった記述が朝日新聞に連日登場し、8月7日には
「中国は厳しい視線で凝視している」と内政干渉を誘う記事まで書き立てたのです。

8月15日、中曽根は予定通り靖国神社に参拝し朝日新聞はお決まりの「戦前回帰」「軍国主義」を唱えて非難しました。

そして予定通り8月27日、中国の副首相が中曽根の靖国神社公式参拝を非難しました。

社会党がそそのかしたのは明らかであり、これをきっかけに中国の靖国非難が始まりました。

親日で中曽根と懇意だった共産党総書記の胡燿邦の立場が危なくなり、中曽根は、それまで参拝していた秋の例大祭参拝を断念、翌年以降の靖国神社参拝を中止してしまったのです。

この公式参拝を取りやめる際、胡燿邦を守るためと言わずに、「A級戦犯が合祀されているため」と発言。

この微妙な日中関係を繋ぎ止める為の一言が
富田メモの歪曲を生み、分祀論を捏造し、挙げ句の果ては敵に塩を送る歴史認識まで拡大することになるのです。

平成4年の2つの高等裁判所判決で憲法の定める政教分離原則に反する公式参拝と認定され、これらが判例として確定、明確に違憲とされ国内的にも首相参拝に影を落とすことになります。

小泉純一郎は、平成13年8月13日の首相就任後最初の参拝をした後、公私の別についての質問に対し

「公的とか私的とか私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した」

と述べましたが、これ以降、特にこの論点が大きくクローズアップされますが、福岡地裁の判決後は私的参拝であると表明しています。

歴代首相で最高の参拝数を誇る中曽根
また彼のお膝元の群馬県護国神社は他府県のそれとは違い、規模も大きく結婚式場まであり、県民の英霊との強い結びつきがうかがえます。

そんな彼がSPを伴い形だけの参拝をし、問題を拡大し天皇陛下の御親拝の復活は疎か首相の参拝までも停止させ、英霊を裏切ったかたちになってしまったのです。

石橋湛山の廃止論に見られる
(1)大東亜戦争で亡くなった将兵を護国の英雄として崇敬し、その武功を讃えることはもはや国際的に許されない。

(2)大東亜戦争は国家滅亡の危機へと導いた汚辱の戦争であり、その戦争に命を捧げた人々を祀ることはできない。

(3)ただ屈辱と怨恨の記念として靖国神社を残すことは断じて歓迎できない。

(4)国民に永く怨みを抱く神として祭られることはけっして望むことではなかろう。

と言われる靖国神社を廃止せよという論拠は敗戦の影響を色濃く受けその責任を漠然と死人に口無しをいい事に戦没者に向け靖国を廃止しようとするレトリックです。

仏教関係者も英霊という神のままであっては戦没者は成仏できないので纏めて供養をしたほうが良いとの倒錯した宗教論理で靖国を破壊しようとする。

中国は戦争責任者を一緒くたに祀る石橋の(1)
(2)に近い観点から内政干渉してくる。

GHQによって取り壊し或は宗教法人の選択を迫られ後者を選んだ靖国は取り壊しに近い冷やかな視線を浴びる事となるのです。

事もあろうに中曽根首相の目的の為なら手段はどうでもいいという政治的パフォーマンスに利用されることとなるのです。

故小野田寛郎さんが囁いた言葉が耳にこびり付いて離れない、『靖國を政争の具にするな』です。

靖国で逢おうと口々にし、戦火に斃れた者達の気持ちに一番近い方の言葉が何をおいても胸を強烈にうちます。

靖國を貶める者それは、終戦、占領、復興の過程で耐え難きを耐えず忍び難きを忍ばない者、

つまり、敗戦を利用し戦勝国的優位性を手にした者、それが反日日本人或は反日分子の原点として被害者としての戦争観を蔓延させていくのです。

極東軍事裁判、いわゆる東京裁判を翻訳した横田喜三、弟子の小野田はハンデキャンプ外交と明らかに戦勝国の歴史観をベースにマイナススタートの日本のマイナス面を強調して皇室解体へと着地点を想定しているのでしょう。

神道指令によって日本国から切り離された天皇と神道、勅使を例大祭に送る事でかろうじて英霊達との約束を絶やすことなくお守りになられています。

日本を取り戻すのに天皇陛下の靖國神社御親拝は避けて通れない日本人ひとりひとりの課題でもあるのです。