天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

畠山勇子

2016-05-09 | Weblog
 畠山勇子は、1865年(慶応元年)、安房国長狭郡鴨川町で生まれます。
 17歳で隣の千歳村の家に嫁ぎましたが、23歳で離婚しています。
 東京に出て華族の邸宅や横浜の銀行家宅の女中として働いた後、
 伯父の世話で日本橋区(現・中央区)室町の魚問屋に
 お針子として住み込みで奉公していました。
 当時の女性としては珍しく、政治や歴史に興味を持ち、
 政治色の強い新聞などを熱心に読んでいたとの事です。

 1891年(明治24年)5月11日、来日中のロシアのニコライ皇太子が、
 警備に当たっていた警察官の津田三蔵に切りつけられて重傷を負う、
 いわゆる大津事件が発生し、日本中が騒然となりました。
 日露戦争が起きるのは1904年の事です。
 当時は弱小国だった日本の、しかも警察官がロシアの皇太子を傷つけた訳ですから、
 当時の日本政府は真っ青になりました。
 ロシアに誠意を見せるため、明治天皇は5月12日の朝、汽車で東京を出発し、
 当日の夕方に京都に到着し、翌13日にニコライを見舞っています。
 そしてニコライは本国からの指示により、
 19日に神戸から帰国しました。

 この事件を知った畠山勇子は、急遽京都に駆けつけます。
 そして、5月20日の午後7時過ぎ、
 「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じ、
 府庁前で死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括って、
 剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀りました。
 即死には至らず病院に運ばれましたが、出血多量で絶命しました。
 享年27歳でした。
 彼女が京都に向かったのは、ニコライが帰国するのを止めようとしたらしいのですが、
 京都に着いた時には既にニコライは出国していたため、
 ロシアに対する謝罪として自殺したものと考えられています。

 彼女の死は「烈女勇子」と国家主義者などが喧伝して世間に広まり、
 盛大な追悼式が行われました。
 墓は京都市下京区の末慶寺にありますが、
 彼女の墓にはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や
 ポルトガル領事・モラエスも訪れているとの事です。

 事件後、ロシアは津田三蔵の死刑を求め、政府もその方向で大審院に圧力を掛けますが、
 当時の大審院長児島惟謙はこれを退け、
 事件後16日で、大逆罪ではなく一般人の謀殺未遂罪で無期徒刑に処し、
 司法権の独立を守ったと言われています。

 死刑を求めたロシア側でしたが、
 この判決を知っても武力報復や賠償請求を求めたりしませんでした。
 その理由として、畠山勇子のニコライ皇太子に宛てた遺書や
 センセーショナルな新聞の報道などによって国際社会の同情をかい、
 強硬な姿勢を取れなかったためとの見方もあります。

コメント (4)
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