天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

大関増裕の2

2009-08-07 | Weblog
 前回、若くして異例の出世をしながら、謎の死を遂げた、
 下野の国の黒羽藩主大関増裕の事を書きました。
 彼の様子の分かる狂歌が3首ほどありますので、
 今回はそれを紹介したいと思います。

 外様にて 奉行なすの(那須野)は 珍しし 横綱を張る 肥後の大関

 黒羽は、栃木県では、那須野ケ原の一角にあります。
 また、大関増裕は肥後守に任じられていました。
 前回も書きましたが、外様大名としては
 陸軍奉行、海軍奉行に任じられるのは珍しかった訳ですね。

 大関と また取組んだ 麟太郎 今度の相撲は きっと勝安房

 麟太郎は、勝海舟の事です。
 当時安房守に任じていました。
 講武所砲術師範を勤めていましたが、
 その時の上司が、講武所奉行を勤めていた増裕で、
 勝が軍艦奉行になった時の上司の海軍奉行が増裕だったので、
 2回上司と部下になった訳です。
 創設間もない幕府海軍を、この二人が動かしたので、
 江戸庶民は期待したのだと思います。
 海舟は、増裕のことを「大関肥後公は頗る気概あり」と評しています。

 夫婦して 江戸町々を 乗りあるき 異国の真似する 馬鹿の大関

 増裕は、養子となって、前の藩主の妻待子と結婚しました。
 待子は再婚だった訳ですが、とても二人は仲が良かったようで、
 二人で江戸の町を馬で乗り歩いていたようです。
 女性の乗馬がとても珍しかった当時の江戸庶民は驚いたのだと思います。
 増裕は、江戸城まで乗馬したまま登城したことでも有名でした。
 当時、幕府官僚で、乗馬のままで登城を許されたのは、
 増裕と海軍総裁を勤めた稲葉正巳だけでした。
 幼少の頃から洋学を修めた増裕は、
 異国趣味でも目立った存在だったようです。
コメント (2)
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