大関増裕は、1837年(天保8年)遠州横須賀城に、
領主西尾忠宝の次男として生まれました。
横須賀藩の江戸藩邸に移ってから、西洋砲術を学び、更には蘭学も学びます。
この間に、勝海舟から臼砲の図面を伝授されます。
1861年(文久元年年)、下野国(現在の栃木県)の黒羽藩の養子に迎えられ、
前藩主の妻待子と結婚します。
1862年(文久2年)、将軍家茂の上洛に伴い、
旗奉行、槍奉行に任じられますが、
同じ年の12月、陸軍奉行に任じられ、将軍随行の役を免じられます。
1863年(文久3年)、陸軍奉行を辞し、
前の藩主の影響で混乱が続いていた黒羽藩の人事刷新を行い、
併せて洋式砲術を開始するなど、藩の軍制の改革をも行います。
1865年(慶応元年)、海軍奉行に任じられ、
当時工事の始まった横須賀造船所の視察を行い、
建設途中の様子を写真に撮らせます。
将軍家茂が死去し、慶喜に代わりますが、
1866年(慶応2年)若年寄格となり、その後若年寄となって、
海軍副総裁となって、海軍奉行を兼務します。
この間、アメリカに軍艦甲鉄丸を発注したり、開陽丸が届いたり、
イギリス公使パークスと面談したりと活躍をします。
慶喜が大政奉還を行った、1867年(慶応3年)12月、
帰藩を願い出て、黒羽藩に戻ります。
そして、王制復古の大号令の出た12月9日、
黒羽藩領の金丸(現在の大田原市金丸)で狩猟中に死亡しました。
享年30歳でした。
外様大名であった大関家が、
陸軍奉行、海軍奉行、若年寄と出世することは、
幕末とは言え、極めて異例の事でした。
増裕の使っていた「英吉利文典」と言う英語の書物が3冊、
黒羽藩の藩校として開設された「作新館」に残されています。
幕府の開成所が発行した英語の基礎文法の本なのですが、
その中の1冊には、ビッシリと朱書がされており、
増裕が熱心に英語を勉強していた事がわかります。
彼が、何故大政奉還の直後、
海軍副総裁と言う要職にありながら、黒羽に戻ったのか?
彼の死が、自殺なのか事故死なのか、あるいは殺害されたのか?
今もって、その謎は解明されていません。
領主西尾忠宝の次男として生まれました。
横須賀藩の江戸藩邸に移ってから、西洋砲術を学び、更には蘭学も学びます。
この間に、勝海舟から臼砲の図面を伝授されます。
1861年(文久元年年)、下野国(現在の栃木県)の黒羽藩の養子に迎えられ、
前藩主の妻待子と結婚します。
1862年(文久2年)、将軍家茂の上洛に伴い、
旗奉行、槍奉行に任じられますが、
同じ年の12月、陸軍奉行に任じられ、将軍随行の役を免じられます。
1863年(文久3年)、陸軍奉行を辞し、
前の藩主の影響で混乱が続いていた黒羽藩の人事刷新を行い、
併せて洋式砲術を開始するなど、藩の軍制の改革をも行います。
1865年(慶応元年)、海軍奉行に任じられ、
当時工事の始まった横須賀造船所の視察を行い、
建設途中の様子を写真に撮らせます。
将軍家茂が死去し、慶喜に代わりますが、
1866年(慶応2年)若年寄格となり、その後若年寄となって、
海軍副総裁となって、海軍奉行を兼務します。
この間、アメリカに軍艦甲鉄丸を発注したり、開陽丸が届いたり、
イギリス公使パークスと面談したりと活躍をします。
慶喜が大政奉還を行った、1867年(慶応3年)12月、
帰藩を願い出て、黒羽藩に戻ります。
そして、王制復古の大号令の出た12月9日、
黒羽藩領の金丸(現在の大田原市金丸)で狩猟中に死亡しました。
享年30歳でした。
外様大名であった大関家が、
陸軍奉行、海軍奉行、若年寄と出世することは、
幕末とは言え、極めて異例の事でした。
増裕の使っていた「英吉利文典」と言う英語の書物が3冊、
黒羽藩の藩校として開設された「作新館」に残されています。
幕府の開成所が発行した英語の基礎文法の本なのですが、
その中の1冊には、ビッシリと朱書がされており、
増裕が熱心に英語を勉強していた事がわかります。
彼が、何故大政奉還の直後、
海軍副総裁と言う要職にありながら、黒羽に戻ったのか?
彼の死が、自殺なのか事故死なのか、あるいは殺害されたのか?
今もって、その謎は解明されていません。