今回は、前の記事(その1、その2)とは違った観点から、森高の歌詞について語りたい。
夏に海に行く歌が非常に多く、特に恋人と2人で海に行くことを人生の絶対的な目的視しているような印象すらあるので、検証してみた。
『短い夏』(1991)。夏は短いからぼやぼやしていられない、海に行かなくちゃと歌う。「ハワイ グアム サイパン」「タヒチ バリ島 湘南」と連呼する。「派手な水着がぴったり」というフレーズもあり、「サイパン」「派手な水着」というキーワードは『私がオバさんになっても』(1992)に踏襲されている。
『私の夏』(1993)。沖縄の海で女友達とゴロゴロする歌。今は2人とも彼がいないから、女同士で気兼ねなく楽しもうと言いながら、「素敵な出会いがあれば?」などと欲を隠せない。
『夏の日』(1994)。「短い夏が通り過ぎてく」海辺で恋人と過ごし、しみじみと幸福を噛み締める歌。何の変哲もない歌詞だが、しみじみと心にしみる。ここでも「短い夏」と言っていることに注目だ。
『夏の海』(1992)。彼と待望の海に車で3時間もかけて到着。渋滞で疲労困憊の彼をしり目に「まだ帰らない、来たばかりじゃない」と貪欲に夏の海を楽しもうとする。この歌にも「夏は短い」というフレーズがある。
ここまでの4曲は、「夏」を含む3文字の短いタイトルで、それぞれに、「夏を無駄にできない、何はともあれ海に行かねば」という追い立てられるような心情を歌っている。
『あるOLの青春~A子の場合~』(1990)。今年は彼がいないので海に行けず、「ひとりぼっちの夏休みは損した気分だわ」と嘆く。そこまで?と思うが、彼女にとっては貴重な人生の損失なのだ。
『SWEET CANDY』(1997)。夏の終わりに、今年の夏も何もしなかったと後悔する歌。かつての夏は、恋人と2人で過ごしたと懐かしむ。そして「どこか遠い青い海を見たいな 今すぐに」と歌う。彼女にとってやはり夏と言えば海が欠かせないのだ。
この2曲は、逆に、海に行けなかった夏を重大な痛恨事、人生の損失と捉えているようだ。
こういう森高だから、南沙織の『17才』(1971)をカバー(1989)したのは必然だったのかもしれない。その歌も、海辺を恋人と2人で走る歌だからだ。そして、南沙織からAKB48まで、古今のアイドルは押しなべて恋人と海辺を走るものだ。森高はアイドルと呼べるか否か、両論あると思うが、恋人と海に行く歌を積極的に歌っているという意味で、森高もピッカピカのアイドルと言える。
単に夏が好き、夏の海が好きというだけではなく、短い夏を無駄にすることなく、楽しまなければ罰が当たるというような強迫観念のようなものさえ感じる。まるでキリギリスが冬への備えなど眼中になく、寸暇を惜しんで歌い続けるように。蝉が1週間の短い命を鳴き続けて燃え尽きるように。
この夏の海への尋常でないこだわりはどこから来るのかは分からない。熊本生まれの森高は、海なし県でもないし、北国で夏が短いから海に憧れていた訳でもなかろう。
想像するに、この夏の海への執着は象徴的なものなのだろう。人生の一瞬一瞬への貪欲さを、夏の海への執着に重ねて歌っているのが森高の真骨頂なのだ。
森高には失恋の歌もかなりあるが、その多くは、いつまでも未練を引きずったりせず、切り替えて次に進もうというスタンスだ。悲しんでいる時間がもったいないのだ。
別れをなかなか切り出せない男に向かって『ばっさりやってよ』(1993)と迫り、別れが現実になると『わかりました』(1992)と受け入れる。『さよなら私の恋』(1993)では、一晩泣いたら明日は忘れると歌う。『青春』(1990)でも、別れた後思い切り泣いて、その後はスキーや免許取得やロンドン旅行などで精力的に青春を謳歌する。
ベストアルバム『DO THE BEST』収録の『今日から』(1995)は、これまで紹介した曲とは少し趣が異なる。
ベランダの花に水をやったり、衣替えをしたりして穏やかに過ごす一日の歌だ。曲調も静かなバラードだ。
「今日も一日が始まる そしていつもの繰り返し だけど今こんな日が幸せなんだと思う」「めくるめく時は流れて 夏も秋に変わっていく 今日からは毎日を大切に生きて行こう そう今日から」。
大事なのは夏だけではない。そして追い立てられるように何かをやっていないと不安になる必要もない。
海に行かなくても、恋愛をしていなくても、何もない一日でも同じように大切だ。そんなことを教えてくれる。毎日毎日を大切に、貪欲に生きている。それが森高の歌う歌の本質なのだ。
夏に海に行く歌が非常に多く、特に恋人と2人で海に行くことを人生の絶対的な目的視しているような印象すらあるので、検証してみた。
『短い夏』(1991)。夏は短いからぼやぼやしていられない、海に行かなくちゃと歌う。「ハワイ グアム サイパン」「タヒチ バリ島 湘南」と連呼する。「派手な水着がぴったり」というフレーズもあり、「サイパン」「派手な水着」というキーワードは『私がオバさんになっても』(1992)に踏襲されている。
『私の夏』(1993)。沖縄の海で女友達とゴロゴロする歌。今は2人とも彼がいないから、女同士で気兼ねなく楽しもうと言いながら、「素敵な出会いがあれば?」などと欲を隠せない。
『夏の日』(1994)。「短い夏が通り過ぎてく」海辺で恋人と過ごし、しみじみと幸福を噛み締める歌。何の変哲もない歌詞だが、しみじみと心にしみる。ここでも「短い夏」と言っていることに注目だ。
『夏の海』(1992)。彼と待望の海に車で3時間もかけて到着。渋滞で疲労困憊の彼をしり目に「まだ帰らない、来たばかりじゃない」と貪欲に夏の海を楽しもうとする。この歌にも「夏は短い」というフレーズがある。
ここまでの4曲は、「夏」を含む3文字の短いタイトルで、それぞれに、「夏を無駄にできない、何はともあれ海に行かねば」という追い立てられるような心情を歌っている。
『あるOLの青春~A子の場合~』(1990)。今年は彼がいないので海に行けず、「ひとりぼっちの夏休みは損した気分だわ」と嘆く。そこまで?と思うが、彼女にとっては貴重な人生の損失なのだ。
『SWEET CANDY』(1997)。夏の終わりに、今年の夏も何もしなかったと後悔する歌。かつての夏は、恋人と2人で過ごしたと懐かしむ。そして「どこか遠い青い海を見たいな 今すぐに」と歌う。彼女にとってやはり夏と言えば海が欠かせないのだ。
この2曲は、逆に、海に行けなかった夏を重大な痛恨事、人生の損失と捉えているようだ。
こういう森高だから、南沙織の『17才』(1971)をカバー(1989)したのは必然だったのかもしれない。その歌も、海辺を恋人と2人で走る歌だからだ。そして、南沙織からAKB48まで、古今のアイドルは押しなべて恋人と海辺を走るものだ。森高はアイドルと呼べるか否か、両論あると思うが、恋人と海に行く歌を積極的に歌っているという意味で、森高もピッカピカのアイドルと言える。
単に夏が好き、夏の海が好きというだけではなく、短い夏を無駄にすることなく、楽しまなければ罰が当たるというような強迫観念のようなものさえ感じる。まるでキリギリスが冬への備えなど眼中になく、寸暇を惜しんで歌い続けるように。蝉が1週間の短い命を鳴き続けて燃え尽きるように。
この夏の海への尋常でないこだわりはどこから来るのかは分からない。熊本生まれの森高は、海なし県でもないし、北国で夏が短いから海に憧れていた訳でもなかろう。
想像するに、この夏の海への執着は象徴的なものなのだろう。人生の一瞬一瞬への貪欲さを、夏の海への執着に重ねて歌っているのが森高の真骨頂なのだ。
森高には失恋の歌もかなりあるが、その多くは、いつまでも未練を引きずったりせず、切り替えて次に進もうというスタンスだ。悲しんでいる時間がもったいないのだ。
別れをなかなか切り出せない男に向かって『ばっさりやってよ』(1993)と迫り、別れが現実になると『わかりました』(1992)と受け入れる。『さよなら私の恋』(1993)では、一晩泣いたら明日は忘れると歌う。『青春』(1990)でも、別れた後思い切り泣いて、その後はスキーや免許取得やロンドン旅行などで精力的に青春を謳歌する。
ベストアルバム『DO THE BEST』収録の『今日から』(1995)は、これまで紹介した曲とは少し趣が異なる。
ベランダの花に水をやったり、衣替えをしたりして穏やかに過ごす一日の歌だ。曲調も静かなバラードだ。
「今日も一日が始まる そしていつもの繰り返し だけど今こんな日が幸せなんだと思う」「めくるめく時は流れて 夏も秋に変わっていく 今日からは毎日を大切に生きて行こう そう今日から」。
大事なのは夏だけではない。そして追い立てられるように何かをやっていないと不安になる必要もない。
海に行かなくても、恋愛をしていなくても、何もない一日でも同じように大切だ。そんなことを教えてくれる。毎日毎日を大切に、貪欲に生きている。それが森高の歌う歌の本質なのだ。