倉敷ホーリネスチャーチ

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[特別伝道礼拝]ユース(若者向け)メッセージ要約

2006年05月29日 | メッセージ
2006年5月28日、東京聖書学院講師の郷屋一二三牧師をお迎えし「特別伝道礼拝」が開かれました。
☆第一部:午前主日礼拝
説教:古い人を脱いで新しい人を着よう
聖書:エペソ人への手紙4章17~32節
抜粋:4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、4:23 心の深みまで新たにされて、4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

<要約>
 本日は、東京聖書学院講師であり、坂戸教会牧師でもあります、郷家一二三師がメッセージを語られました。郷家師の開口一番、倉敷の事を「倉吉はとても魅力的な町で・・・」と間違えられ、会衆の笑いを誘いました。つかみはOKです。
郷家師はユース(青少年)伝道に注力されています。坂戸教会は最寄り駅から4キロメートルも離れていますが、毎週ユースで賑わっています。また師はユースである条件についてユニークに考えられています。まずユースの始まりは「夢を語り出した時」とされ、ユースの終わりを「今の若い者は」と思った時とされています。う~ん、なるほど。
 聖書を開く前に、師が強烈な印象を受けた一つの詩を紹介されました。それは、吉野弘さんという方の「I was born」(※文末参照)という詩です。生まれる時は、自分から世に出たのではなく、生まれさせられたのです。信仰も同じで、勝ち取ったのではなく、与えられたのです。
洗礼を受ける時、古い自分は過ぎ去り新しい人に創り変えられます。その新生をしっかり持っている人もいますが、何となく洗礼を受けた人も悩む必要はありません。新しく生まれ変わった時、自分の意志ではなく、与えられたもので記憶になくても大丈夫だからです。また生きる事について、本能のまま、情欲に流されて、思いのままにもし、生きているとするならば、これはまさに古い人を着たままなのです。日曜日、教会へ行く前に古い服を脱ぐのですが、月曜日からまた着てしまう人がいます。それでは何にもなりません。古い服を着た人の例として、良い行いをしたら良い褒美があるとか、悪い事をしたら「バチ」が当たるとか、思う事自体が古い服を着た人なのです。洗礼を受けた人は既に古い人ではなく、キリストにより創り変えられた人です。その恵みを実感してください。
 では、「新しい人」の特徴とはどんな事でしょうか。以下簡単に説明します。
(1)偽りを捨てて、真実を語ります。一つのウソは次のウソを呼んでしまいます。
(2)憤ったまま夜を越えません。怒りを捨てろという事ではありません。後の日まで引きずる事のないようにしてください。夫婦げんかも「延長戦」をしないように。
(3)盗んではなりません。
(4)悪口を言ってはなりません。
「あの人はクリスチャンなのに悪口ばかり言って」と思う事もあるでしょう。しかし、その人も既に新しい人へと創り変えられている事を忘れてはなりません。
パウロはこの書簡をエペソの信徒に書いていますが、彼らの行動は決してキリストの弟子として見本となるようなものではなかったようです。しかしパウロは新しい服を既に着ている事に疑いを持ってはいないのです。信頼し、手紙をしたためているのです。
 教会、クリスチャンはゆるし合う事が大切です。人格の違う人が集まると争いもあるでしょう。そこにあってゆるしあう事が重要なのです。日曜日に新しい服を着て、月曜日に古い服に着替える事のないように・・・

☆第二部:午後主日礼拝
説教:私たちを生かす愛
聖書:ヨハネによる福音書3章16
抜粋:3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

<要約>
 午前の礼拝に引き続き、午後の集いも郷家一二三師がメッセージを語られました。始めに、日曜放映の「笑天」小話風に・・・「牧師殺すにゃ刃物はいらぬ、集会3回休みゃいい」と牧師が持つ悩みを素直に語られました。またまた、つかみはOKです。
 最初に弟子のトマスについて語られました。トマスは「疑い深いトマス」として有名となっていますが、本当にそうだったのでしょうか?聖書の箇所を見てみます。
 20:24 「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。20:25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
 確かに疑っていますね。しかし本当は主を真剣に信じたトマスだったようです。イエスと弟子達がユダヤに入る際、殺されるかも知れない状況の中、他の弟子が恐れる中、トマスは主と共に死のうではないか。とさえ語っているほど真剣に主を信じていたのです。そしてよみがえられた主と出会った際、 20:28「 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。」とイエスを神と告白しています。聖書でも大変珍しい表現です。
 このあまりにも有名なヨハネ3の16は「小聖書」とも呼ばれ、聖書全体が集約されているとされています。全能の神、子なる神は私たちが滅びの道を歩む事なく、永遠の命を約束されました。祈りの際、心から「わが主よ、わが神よ」と祈る事ができますように。枕詞のように主への感謝を表す事がありませんように。
 最後に、「永遠の命はいつ頂けるのでしょうか。」との質問も多くあります。答えは、洗礼を受けた時から、既に永遠の命は始まっているのです。本当に感謝ですね。

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