倉敷ホーリネスチャーチ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報など、テケテケが伝えしています(日本ホーリネス教団)。

救いの神

2004年11月20日 | 祈り
デボーションより 士師記10章

イスラエルの人々は主に言った、「わたしたちは罪を犯しました。なんでもあなたが良いと思われることをしてください。ただどうぞ、きょう、わたしたちを救ってください」。

真の神を信じ、裏切り他の偶像の神を信じ、そして裁きを受け、また信じ・・・
イスラエルの人々はこれをくり返しています。それでも神は辛抱強く忍耐され、悔い改めのチャンスをくださっています。
新訳聖書に、放蕩息子の記事がありますが、身も心もズタズタになった息子を抱きかかえるようにして赦されました。真の神はわたしたちに悔い改めを求めていらっしゃいます。今、自分の罪を告白し、ぜひ赦しを得てください。

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神の報い

2004年11月19日 | 祈り
デボーションより 士師記9章

「ひとりの女がアビメレクの頭に、うすの上石を投げて、その頭骸骨を砕いた。~このように神はアビメレクがその兄弟七十人を殺して、自分の父に対して犯した悪に報いられた。」

エルバアルすなわちギデオンには70人もの子供がいました。アビメレクはヨシュアの妻からの子ではなく、妾の子として生まれました。アビメレクはギデオンの子、70名を殺害し、自ら王となるのです。
しかし、この事は神から来たものではなく、アビメレクの欲望(肉の欲)だったのです。当然主なる神は行いに対し報いられます。主から来たものの報いは永遠の命。罪から来た報いは死なのです。

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あまりに多い

2004年11月17日 | 祈り
デボーションより 士師記7章

32、000の民を率いて攻め入ろうとしたギデオンに対して神は「あなたと共におる民はあまりに多い」と言われています。攻めるのであれば多いにこしたことはないと当然思うのですが、そこには「これだけ多くの味方がいれば自分達の力で勝つことが出来る!」との何とも神を必要としないあやまった考えが生まれてしまいます。そこで神は最終的に兵を300名に絞られました。正面から向かって行けば勝ち目はないでしょう。が、神の兵すなわちギデオンと300名は圧倒的な勝利をするのです。
全てを捨てさる勇気、信仰。これこそ神が私達に望んでおられる事ではないでしょうか。
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キリストの従順

2004年11月16日 | メッセージ
11月14日倉敷教会のメッセージ要約より

聖書:ピリピ人への手紙2:6-11
「2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。2:10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、2:11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」

要約
紀元60年頃、キリストを思いだして欲しいと願いを込め手紙を書きました。またこの箇所を賛美されていたと言われています。
2:6に「神のかたちであられた」と真の神である事がしるされています。また真の人でもあられたのです。
主イエスは、神にして人であられたのです。その神が私達の所へ来てくださっているのです。では、なぜ神が人となられたのでしょうか?それは、人とならなくては罪人である私達を救う事が出来ないからなのです。全ての罪を一身に受けられたのです。
十字架は人では意味無く、神でなければならなかったのです。
パウロは私達罪人に、真の神キリストがなさって下さった事を忘れる事なく、信仰により理解するよう手紙をおくったのです。
私達は神であられる主イエスキリストの一方的な愛により生かされ、救いを得ている事を忘れてはなりません。

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辛抱強い神

2004年11月12日 | 祈り
デボーションより 士師記2章

士師記 2:10 「そしてその時代の者もまたことごとくその先祖たちのもとにあつめられた。その後ほかの時代が起ったが、これは主を知らず、また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった。」

イスラエルの人々は本当に主を知らなかったのでしょうか?直接主の御声を聞かずとも、代々親から言い伝えられ、十分に知っていたと私は思います。しかし主からの約束をやぶり、その土地の神々を崇めてしまいました。当然の事ながら報いが来ます。そして「背き→苦難→叫び(悔い改め)→救い(士師)」をくり返して行くのです。
主なる神は、それでも放っておられる事なく辛抱強く接してくださるのです。
私達は、良いものが見つかるとついフラフラと興味本位で向かって行ってしまいます。それでもなお主なる神は怒るに遅く辛抱してくださっています。
私達の目が開かれる事を節に願っておられるのです。

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信仰の父

2004年11月08日 | メッセージ
11月7日のメッセージ要約より

『父』のイメージは・・・
・あるべき姿を現している存在
・将来の目標
ここに登場するアブラハムは、今から約4千年前の人です。75歳の時神と出会い信じる事となります。神は「あなたの子孫は星の数のようになる」と言われました。が、既にアブラハムは年老いており、信じがたい事を神が告げるのです。しかしアブラハムは全てを信じました。
イサクが生まれたのです。待ちに待った息子が与えられました。神はそのイサクを供え物として捧げるようにアブラハムに伝え、アブラハムはそれに従いました。理解できませんがそれに従いました。まさにそうする時、神からの信頼を得るのです。
創世記26:5にアブラハムは神のおきてを守ったから祝福された!と記されています。重要な箇所ですね。おきてである割礼を守ったからでしょうか?そうではないのです。では・・・
①アブラハムは割礼を受ける前、信仰により義と認められたのです。ではアブラハムの信仰とは・・・
②死人をも生き帰す神を信じたのです。
ここで重要な事は、おきてを守る以前に、死人をも生き帰す全能の神を信じる事なのです。それにより私達は『義』とされるのですから。

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