倉敷ホーリネスチャーチ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報など、テケテケが伝えしています(日本ホーリネス教団)。

[福音を恥としない]キリスト教礼拝メッセージ要約

2008年05月26日 | メッセージ
2008年5月25日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[福音を恥としない]メッセージ要約をアップいたします。
聖書:ローマ人への手紙1章13~17節
抜粋:1:16 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。

<要約>
 救いが得られたら、みなさんはどう行動するでしょうね? 今すぐにでも、この喜びを人に伝えたいと思い、恥も外聞もなく行動できましたか? 恵みを受け救われたけれど、何だかそれを人に知られると恥ずかしいとか、自分にとって恥になるとか脳裏をかすめた事、ありませんか?

 この手紙の主パウロはどうだったのでしょう?
ギリシャ人であり、ユダヤ教徒であった彼はキリストに従う者を厳しく迫害し続けていました。パウロにとって、神を冒涜するかのように思えたキリストの教えは『恥』以外の何ものでもなかったのです。しかしそのパウロに主が臨み、パウロの目からうろこのようなものが剥がれ落ち、180度変えられたのです。そして変えられたパウロは恥じるどころか、大胆に主イエスキリストを証続けるのです。 何というアメージングでしょうね。

 もしあなたが洗礼を受けられている方だとしたら、どんな人にも「私はクリスチャンです!」と大胆に証されていますでしょうか? 「学校で公になると少し困るな」とか、「社内で噂になると恥ずかしいな」など、思った事はありませんか?別に悪い事をしている訳ではないのに、何だかそっとしておいて欲しい思いになった事ありませんか?

 今はキリスト教を信じていると人に言っても「あっ、そうなんだ」程度で済みますが、数十年前は「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」などとからかわれ、恥ずかしい思いをされた先輩が多くいらっしゃいます。そんな中でも先輩方は、主を信じそして触れる事により、大きな力を受けておられました。福音に触れる事で大きな恵みを受けるられていたのです。

 主が十字架にかかられたのは今から2千年前の出来事ですが、主を十字架にかけてしまうような悪の思いは今も続いています。心の中で人を恨んだり、「あの人さえいなければ・・・」などと思ったりする心が主を十字架にかけたのです。しかし主は自らの命をもって私たちの罪をすべて洗い流してくださいました。こんな幸せ、恵みが他にあるでしょうか?
主から受けたこの恵みを大胆に語り続け、一人でも多くの方が滅びの道から逃れる事のできるよう、祈りそして福音を述べ伝えて行く事の出来る方は何と幸いでしょうね。


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[めぐみのみ業]キリスト教礼拝メッセージ要約

2008年05月19日 | メッセージ
2008年5月18日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[めぐみのみ業]メッセージ要約をアップいたします。
聖書:ヨハネによる福音書5章1~9節
抜粋:5:8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

<要約>
 場所はエルサレム。主イエスキリストは祭りがあるためそこへ上って行かれ、着かれた主は、神殿から北へ約200メートルほどの場所にある『ベセスダの池』(いつくしみ、あわれみ、めぐみ)へ行かれました。そこには多くの病人が『置かれ』ていました。湖面に波が立つ時、真っ先に飛び込んだ者が癒されると伝えられていて、病人が集まっているのです。
 ここに登場する病人は38年もここに『置かれ』、何度も何度も波が立つ時、池に入ろうと努力しますが、病状の軽い人が真っ先に入り、もう自分は助からないと絶望していたのです。
そこはまさに現在と同じ競争社会で、自分さえ良ければ、相手より先に・・・の思いが満たされていたのです。

主イエスキリストは彼に声をかけられます。
・6節:「なおりたいのか」
・8節:「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」

 治りたいに決まっているのに主は面白い事を話されるな?
と思いませんか。思いまた主に任せるしかない事を認識しているか試されているようにも思います。声をかけられた彼も戸惑ったかもしれませんが、治りたい、そして歩きたい、すべてを委ねます。と主イエスキリストに従ったのです。結果は癒された彼は『床』をとりあげ歩いて行きました。完全に癒されたのです。
 日常生活の中でよく私たちも「○○したい」、例を出しますと「新型ゲームが買いたい」とか、「パソコンを買い換えたい」とか思います。しかし手に入った瞬間から、また次を「買いたい、したい」と思ってしまいます。主が「○○したいか」と言われているのは、そんな薄っぺらなものでなく、『愛されたいか』と問われているのです。
 すべてを主に委ね、従う事が今だからこそ大切だと思います。

 今、あなたの『床』は何ですか?
やみつきになっているパチンコですか? それとも飲み過ぎてしまうお酒ですか? ついつい節操なく食べてしまい太る食に対する欲望ですか? それとも出世欲、お金、名誉ですか?

今直接主とお会いする事はありませんが、時空を超え今なお私たちの事を見られ、そして知っておられます。登場する彼のように、主イエスキリストの言葉を聞き、従う事ができれば何と幸いでしょう。


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[キリストの証人]キリスト教礼拝メッセージ要約

2008年05月12日 | メッセージ
2008年5月11日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[キリストの証人]メッセージ要約をアップいたします。
聖書:使徒行伝2章1~4節
抜粋:2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

<要約>
 皆さん、教会の誕生日ペンテコステおめでとうございます。

本日のメッセージタイトル「キリストの証人」は使徒行伝1章の以下からつけられています。
1:4 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。
1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

五旬節を迎えた弟子達は集まって何をしていたかが記されています。
(1)エルサレムにとどまり、祈り待ち望みながら待っていた。
(2)聖霊が降り力を受けキリストの証人として活動した。

最初の集会はユダを除く11名の弟子と、キリストの母マリヤと兄弟が参加していました。その後120名もの祈祷会となり、一致した本気の祈りが捧げ続けられました。そして天から突然祈る一人ひとりの上に聖霊がとどまり弟子達はキリストを証続けます。いろんな人々が集まる場所で、他国の言葉を語り出す弟子達。英語が堪能でない私がいきなり英語で主を証しているのです。「そんな馬鹿な!」と人間の限られた知識では答えが出そうですが、何と実現しているのです。主を証する心、祈りがそうさせたのではと私は思います。
このような出来事を見た多くの人は「どうしたことか?」と不思議がっている事が記されていますが人間の知識では当然の事でしょう。しかし聖霊に満たされた時、常識とされているものを遙かに越えた力が与えられ、アメージングが神の時に起こるのです。
時々クリスチャンでさえ、「祈っても無駄だから、自分の力で頑張る」と真逆な答えを出してしまう方がおられます。これは神を信じると口では言っても心で信じず、求めてもいない行動だと思います。

あれやこれや悩むより、まず本気の一致した祈りを『続け』られる事をお勧めします。自分の望む時に聞かれる事がないかもしれませんが、祈りは既に聞かれた事を信じる事ができるなら幸いと思います。そして全てを神様に委ねる事が出来ればなお幸いだと思います。


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[果たすべき責任がある]キリスト教礼拝メッセージ要約

2008年05月05日 | メッセージ
2008年5月4日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[果たすべき責任がある]メッセージ要約をアップいたします。
聖書:ローマ人への手紙1章13~17節
抜粋:1:14 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。

<要約>
 獄中のパウロは、何とかローマに行き、恵みを分かち合いたい思いでいっぱいでした。なぜなら『果たすべき責任がある』からだと言っています。パウロが言う『果たすべき責任』とはいった何でしょう?
 その前に『責任』とは・・・立場上当然負わなければならない任務や義務。と辞書にあります。このように『負債』を解消する義務があるのです。
主イエスの十字架により、私たちの『負債』はなくなりました。ではパウロが言う『負債』とは何でしょう?

 パウロはキリスト者を迫害し続けていましたが、ある日主がパウロに臨み目を開かれ、何と向くべき方向が180度変えられました。大転換したパウロは主のなさった事を伝える(伝道)する責任が私にある! と実感し行動するのです。
やりたい時や、ヒマな時に伝道しようか! 何てレベルではなく、何を差し置いても負っている負債を返す動きをしているのです。

 今を生きる私たちの『果たすべき責任』とはいった何でしょう?
一人ひとりが持っているタラントによっても違うでしょう。ある人は教会が建つほどの献金かもしれませんし、またある人はお金でなく、草取りかもしれません。主は区別される事なく全てを良しとされるのです。
また人は自分に都合良く考えがちで、「あの人に貸しがある!」とか、また親にたいしても「親だから子の私を世話して当然だ!」とか、「こんなにあの人に良くしたのだから貸しだね!」などと思った事ありませんか?
本当は自分の方が多く他から与えられているのに、貸した事ばかり執着しがちなのです。私たちは自己中心的な弱い者なのです。

 自己中心の例として聖書に、1万タラントの負債を持つ者が赦され、その赦された者が貸していた100デナリの者を赦さなかった事が記されています。自分は赦してもらっても、相手を赦せないのです。
極端に金額を現在に直しますと、約6千億円を赦してもらったのに、貸した100万円を赦さないのです。もっと言えば、ただの1円でさえ赦さず取り立てをするのです。
相手を赦す事、それは1円ほどのものです。主が私たちを赦されたのは、6千億円ほど、いえもっともっと大きな事を赦してくださったのです。また気持ちの中でも、小さなチンケなプライドのため、自分が相手より低く見られるのを嫌うような大きな罪が私たちにはあるのです。その思いが主を十字架にかけてしまった事、絶対に忘れてはならないのです。

 『果たすべき責任』とは・・・?
主から赦され、そして愛されているあなたの責任。それは『人を赦し、主のなさってくださった事を伝える』事に他なりません。感謝をもって主を証できる人は、なんと幸いでしょう。


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