倉敷ホーリネスチャーチ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報など、テケテケが伝えしています(日本ホーリネス教団)。

[私は離れない]キリスト教礼拝メッセージ要約

2008年02月25日 | メッセージ
2008年2月24日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[私は離れない]メッセージ要約をアップいたします。
聖書:ヨハネによる福音書6章60~71節
抜粋:6:68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。

<要約>
6:35 「イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」聖餐式で読まれる箇所です。
6:62では 「それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。」と話されました。これを聞いた多くの弟子達は主イエスにつまずき、去ってしまいました。前にいた所とは天の御国であり、上るとは十字架にかかられる事を意味しています。 また主イエスは、肉と霊について語られています。人を生かすのは霊であり、肉は何の役にも立たないと言われています。肉とはいったい何でしょう?
それは、自我の思いであり、神を信じない心、さらには神に反する思いの事です。

ユダヤ人達は、神の子が十字架にかかる事なんかあってはならない。神の御子ならそんな事があるはずない。と主イエスの言葉につまずき去って行ってしまったのです。

主イエスは12弟子に対しても「あなたがたも去ろうとするのか」と質問されました。それに対してペテロは「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう(私はあなたから離れません)」と信仰を告白するのです。
そんなペテロでしたが、主が十字架にかけられる場面では、弟子と思われたくない一心で、主を知らない!と言葉を発してしまうのです。人間とは何と弱いものでしょう。
しかし主イエスはペテロをそのままにされず、十字架の後にペテロの信仰を立て直されました。

信仰が弱っている時こそ、主を呼び求めてください。ペテロが告白したように「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう(私はあなたから離れません)」と宣言してみてはいかがですか。

主イエスから、離れる事のない今週でありますように・・・


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[見えるようになる]キリスト教礼拝メッセージ要約

2008年02月18日 | メッセージ
2008年2月17日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[見えるようになる]メッセージ要約をアップいたします。
聖書:ヨハネによる福音書9章35~41節
抜粋:9:39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。

<要約>
 この箇所は、目の見えない者が主イエスに癒され見えるようになり、会堂で人々に話していた所、パリサイ人たちによって外へ追い出されてしました。そこへ主イエスが彼に会い語られます。癒された者は「主よ、信じます」と告白します。そこへパリサイ人たちが主イエスに「私たちも盲人なのか?」と問い、主は「盲人であれば罪はない。見えると言い張る所に罪がある」と語られた場面です。

 重要なポイントは癒された者が話した「信じます」と、パリサイ人の真実の神を見ているのに見ていない、しかし神を見ていると言い張る所です。素直に信じた者と、実際は盲目なのに見えると言い張る者とに二局しています。

 「主イエスを信じているのに、この盲人のように癒されない」、「自分の暮らしは全く変わらない」と思ったりしていませんか?祈りの中で反省しますが、それに慣れてしまってはいませんか?祈りが叶わない時、自分勝手な解決の時を決め、祈りを継続しても意味がないなどと思った事はありませんか?
マイナスのループに陥ると、祈るたびに落ち込んでしまいます。大切な事は、主イエスにすべて委ね祈る事実、主を見続ける事です。例えば植木鉢の小さな木を地面に植える際、根が伸びたかな?と毎日毎日掘り起こしていたら(祈りの確認)どうなるでしょう。根はくさってしまいます。じっくりと信じ続ける事が大切なのです。

 盲目の者は、主イエスキリストを信じ目が開かれました。あなたの目は見えていますか、心の目の事です。パリサイ人は肉の目は見えていましたが、本物を見抜く心の目が閉ざされていました。今までの経験や決め事だけが正しく、それ以外を認める事が出来ない、かたくなな心のままだったのです。

 主イエスキリストは、この盲人に話されたように、あなた一人に語られています。
礼拝堂の中央を見ても何も見えません。が、目を閉じて心で見てください。主が中央に立っておられるのを見る事が出来るかもしれません。主を見つめる時、あなたに信じる心が生まれ、そして信仰が与えられる事でしょう。


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[神はおられる]キリスト教礼拝メッセージ要約

2008年02月10日 | メッセージ
2008年2月10日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[神はおられる]メッセージ要約をアップいたします。
聖書:マタイによる福音書4章1~11節
抜粋:4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

<要約>
 主イエスは御霊に導かれ荒野で40日断食をしておられました。そこへサタンが現れ、主を試します。
○第一の試し:空腹でしょう、石をパンに変えてみては。
断食中ですから、完全な人間でもあった主イエスは空腹を覚えています。そこへサタンが石をパンに変え、空腹を満たしなさいと試します。サタンは巧みに、人が生きるためにパンは必要です。十字架にかからず生きて多くの人々に生きるパンを与えなさい。それがあなたの役目ですよ!とささやきます。
主イエスはサタンに、人はパン(物質)だけで生きるのではなく、神の言によって生きる。そのために私は来たのだ、とサタンを退けます。
○第二の試し:ここから飛び降りて見なさい、そして神の子である事を人々に証明しなさい。
山から人が飛び降り、御使いが助けるのを見たらどうでしょう?唖然としてその人を神の子だと信じるのではないでしょうか。私達は少しの経験の中で正しい、そうでないを判断してしまいがちです。絶対にありえない現象が起きたらコロっと信じてしまうような弱さを持っています。
「私の願いを聞いてくれたら信じます」とか「今日は気持ちがすぐれないので教会をパスします」など、自分の都合で神様を出したり引いたりしていませんか?これこそ罪ですね。
○第三の試し:私(サタン)を拝めば全世界をあなたにあげます。
神の子にサタンが、この世を与えます。と言うのも変な話ですが、これは完全に神の子、また完全に人の子としてお生まれになられた主が、私達のために試練を受けられたのです。
まさにこの試練は、物に対する私達の欲の罪です。人が持つ虚栄心、物欲、名誉欲・・・さまざまな欲を主イエスは人として試練を受けられ勝利されたのです。
よく「仕事が忙しくなり教会へ行けません」と言われる方を見かけます。が、その人も食事をしたり息をしたりしているはずです。教会は生きるための命の糧だという事を思い出してください。決して神様を自己都合で都合良く利用しないように・・・

サタンの正体ですが、実は私達の心です。どうしようもないこんな私達のために主イエスは十字架にかかってくださいました。その事を決して忘れてはなりません。揺れ動く私達の心をも主はよく知っておられ、そしてそれに勝利する方法を備えてくださっています。主イエスを信じる者が滅びることのないよう、今も生きておられる神がおられるのです。

神の御臨在を信じ、今週も主にあり素晴らしい日々をお過ごしください。


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[感謝に生きよう]キリスト教礼拝メッセージ要約

2008年02月04日 | メッセージ
2008年2月3日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[感謝に生きよう]メッセージ要約をアップいたします。
聖書:ヨハネによる福音書6章1~15節
抜粋:6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。

<要約>
 場所はガリラヤ湖(テベリヤ湖)で、時は過越の祭りの前、群衆が主イエスの言葉を聞こうと集まっています。その数何と男だけで5千人、女性や子どもを合わせると1万人は優に超えていたでしょう。またこの出来事は『5千人の給食』として、全ての福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に記されているように、重要な出来事だったのです。
 場面を想像してみてください。目の前には5千人(全て合わせると1万人ほど)がいます。その人々にパンを与えようと主イエスが言われたのです。一人5百円のパン代としても1万人となると、5百万円にもなってしまいます。が、お金はおろか、弟子達は何も用意がありません。あたりを見渡すと子供が大麦のパン5個、魚2ひきを持っています。足りるはずがありません。持っていた子供は貧しい少年か奴隷だったのでしょう、普通パンは小麦で作りますが、家畜に与えるような大麦のパンを持っていたのでlす。主イエスは感謝してパンをさき、人々に与えられました。すると見る見るうちにパンが与えられ、少しでも無駄にならないよう食べ残りを集めると12のかごいっぱいになったのです。

 私たちは乏しいわずかな経験から物事を判断してしまいます。「5つのパンが、一気に増える訳ないじゃないか!」と思うのは当然でしょう。そんな経験をした事がないのですから。しかし聖書にはこの事実が全ての福音書に記され、信じられない出来事を体験した群衆が記されています。今、それを体験する事はできないですが、主のなさった事実を見ないで信じる事が出来れば幸いですね。

 タイトルの『感謝に生きる』とはどういう意味でしょう?
まず、無駄に生きない - 神様の恵みに生きる - 滅びる事がない - 永遠の命に生きる!
神様の恵みを無駄にしないよう、み言葉に聞き従い生きる事が大切なのです。
そして、パンを持っていたのは貧しい子供です。大人から見ると何の権力も力もない、いてもいなくても良い様なものですが、その者が何と1万人もの食事をまかなう助けを行ったのです。同じように今、主は何の力もない私たちを用いてくださっています。弱い者ほど自分のいたらなさを知っていて、主によりたのむ事が出来ます。そのような謙虚で、主から栄養を頂かないと生きて行けない事を知る者は幸いです。

 私たちの教会では、第一主日に聖餐式を行っています。5千人を養われたように、今私たち一人ひとりを養い、恵みを与えてくださっています。受ける私たちは主の恵みを受け取り感謝の中に生き、最後の時、感謝の中で生かされた人生だったな。と思い証できれば最高ですね。

 今週もすべての事に感謝し生きる事が出来るなら幸いですね。


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