倉敷ホーリネスチャーチ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報など、テケテケが伝えしています(日本ホーリネス教団)。

【聖書】マタイによる福音書26章36~46節 【説教】「ゲツセマネでの祈り」 2021/4/25 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年04月25日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書26章36~46節
【説教】「ゲツセマネでの祈り」

36: それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。

主の御名を讃美いたします。
 今週の聖書箇所は、先週の最後の晩餐に続くところのゲツセマネで祈りの場面で、十字架を前にしての祈りです。
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。マタイ 26 章39 節

 主イエスはなぜこのような苦しみの祈りをされたのでしょうか。罪の結果であるところの死に対する戦いであり、神のさばきとしての<杯>を呑むことであったからです。十字架なしの救いを祈りの中で退けられたのであり、この祈りから私たちが学ぶべきことなのです。

 一つは「みこころのままになさってください」という「ゆだねる祈りです。私たちは主イエスにあってゆだねるお方を頂いているというのは大きな特権です。

 もう一つは、「わが父よ」との信頼の呼びかけです。マルコによる福音書では、「アバ父よ」という祈りで、アバというのは、いわば幼児語です。この最大の苦しみのときに主イエスは、信頼のことばで父なる神に祈られたのです。

 最後に「わたしと一緒に目をさまして、祈っていなさい」38節 ということばを忘れてはいけません。弟子たちは、漁をするときには眠らないで一晩中漁をすることができましたが、祈りでは眠ってしまう。これは、後に与えられる<助け主>としての聖霊の助けなしにはできない事なのです。

 ここで、わたしと一緒にとあります。私たちが主の祈りを祈る時に、主イエスご自身も<アバ父よ>と共に祈ってくださるのです。

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テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。

【聖書】マタイによる福音書26章26~30節 【説教】「最後の晩餐」 2021/4/18 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年04月18日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書26章26~30節
【説教】「最後の晩餐」

28:これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

主の御名を讃美いたします。

 「取って食べよ。これはわたしのからだである。」
「みな、この杯から飲め。 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」
 この二つのことば、「最後の晩餐」での主イエスの約束です。鳴戸市にある大塚美術館に原寸大のレオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」の陶器製レプリカ(複製品)があります。補修前と後と 2つあり、触ることも出来て、非常に興味深いものです。ただ、主イエスの時代は、テーブルと腰掛けではなくて、ひじをついての格好だったそうです。

 ここでは、最後の晩餐がイスカリオテのユダの裏切りと結び合わせて書かれてあることに注目します。主イエスは自分を裏切ろうとしているユダと共に、この席につき、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れているが裏切ろうとしている」と話されました。主イエスがユダに悔い改めの機会を与えようとされているのではないかと思います。

 ユダは後で「後悔」をして、みずから命を絶ってしまいます。私たちも「あの時にあれをしていたら、していなくては」という後悔してしまう時があるのではないでしょうか。

 私たちにとって、「後悔」を自分の前に置くのではなくて、主イエスが私たちのために、聖餐のパンとぶどう液を備えてくださったという主の約束と悔い改めを前に置くことが必要ではないかと思います。ユダがどうなったかについてなど色々と疑問が多くありますが、私たちは「さばき主」であるお方におゆだねしていきたい、そうして私に明らかにされている十字架と復活の福音に生き、分かち合うものとさせて頂きたいものです。

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テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。

【聖書】マタイによる福音書26章6~13節 【説教】「何という無駄遣い」」 2021/4/11 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年04月11日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書26章6~13節
【説教】「何という無駄遣い」」

9: それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。

主の御名を讃美いたします。

 主イエスが十字架に架かられるためにエルサレムに入場されるとき、「ロバの子」に乗って平和の王として行進されました。神殿を見て弟子たちが「なんて、すごい建物でしょう」と叫んだ後に主は、エルサレムの神殿崩壊と世の終わりについての預言をされました。一つひとつの出来事に続いて、その出来事の意味が明らかにされています。
 マタイ 26章で登場するのは「ひとりの女がイエスの頭に高価な香油を注ぎかけた」というものです。これは、十字架への歩みを指し示すものとなり、ヨハネによる福音書によれば、この女性はラザロの姉妹のマリヤですが、マタイは名前を記していません。この香油は、ナルドの香油というブランド品で、1 年分の給料の価値があるものでした。弟子たちは、「なんのためにこんなむだ使(づかい)をするのか。」と叫びました。(口語訳聖書)共同訳では「無駄遣い」と翻訳されています。日本語としては「無駄遣い」の方が良くわかりそうです。

 主イエスは、この地上に何のために「遣わされて」きて、罪なきメシアが、十字架にかかりすべての罪を負い死んでしまいます。この十字架の死は、人間の計算では世界では、無駄死にとなるかも知れませんが、この無駄遣いとも思えるこの「油注ぎ」を主イエスは何と言われたのでしょうか。「この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。」マタイ26:12

 十字架前の主イエスに、尊い油を注ぐとは、この時を除いてだれも二度とくり返すことのできないことした。メシアとは「油そそがれた者」という意味ですが、この女性の行いが、メシアイエスの十字架の<記念>となったのです。

 聖餐(せいさん)も無駄死にとも思える十字架が実に私たちへの尊い血の注ぎであったことを思い起こさせる<記念>でなのです。

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※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。

【聖書】マタイによる福音書25章1~12節 【説教】「花婿を迎えに出なさい」

2021年04月04日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書25章1~12節
【説教】「花婿を迎えに出なさい」

1: そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。

主の御名を讃美いたします。
イースターおめでとうございます。
今年は、イースターの特別な行事は出来ませんが「イースターおめでとうございます。」と心より挨拶をしたいと思います。それはどんな状況の中にあっても復活の主イエスが共にいてくださるからです。

 今日の聖書箇所は、復活の主がもう一度こられるという「再臨」についての主イエスの譬えです。再臨の主イエスを待つ姿が、花婿を出迎える 10 人の娘たちに譬えられています。
花婿がなかなか戻って来ない、そのうちに暗くなり何と夜中になってしまいました。これは、初代教会の人たちが「主イエスは自分たちが生きている間に来られるのではないか」と思っていましたが、なかなか来られないという状況と似ているのです。夜中に帰ってきた花婿を迎えるために、ともしびを準備するのですが、賢い娘たちはともしびと共に油を用意してありましたが、愚かな娘たちは、準備していなかったのです。

 ここで「どうして?」と思ってしまうところがあります。「油をわけてください」という娘たちに対して断りのことばが出てきたいます。これは人間には、人に分けてあけられるものと、そうでないものがあるということではないかと思います。また最後にこう書かれています。「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」マタイ25章13 節

 このたとえ話では賢い娘たちも、愚かな娘たちも眠ってしまっています。では「目をさましている」とはどういうことでしょうか?

 黙示録に「裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」とあります。黙示録16 章15 節

「目をさましている」とは救いの衣を着せて頂き、準備していることです。また祈りと結びついて書かれていることが多いようです。

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テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。