聖書:ルカによる福音書15章25~32節
抜粋:31:すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。32:しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』。
<要約>
主の御名を賛美します。
先週はルカのたとえの一つ、放蕩息子本人と父について学びましたが、今週はまじめに父に仕える長男にスポットを当てて見てまいります。なぜ主がたとえをお話しになったかは、先週も書きましたが、パリサイ人がつぶやいた事でした。財産を受取り、遊びほうけて無一文になり、奴隷覚悟で帰ってきた弟を兄はどう思っていたのでしょうか。「ほら、言わない事はない。自分で首を絞めたのだから仕方ない」と兄は思っていたのかも知れません。
登場する兄は、めずらしい人の考えではなく、まじめに働くエリートの考えだったとも言えます。ある種、パリサイ人そのものです。
仕事を終えて帰宅した兄、家では弟が帰って来た喜びの宴がなされていました。兄は弟と同じように、それを受け入れた父自体を理解できず、受け入れる事は出来ませんでした。
家に入らない兄を見て父は、出て迎えに行きました。弟と同じように迎えたのです。父は兄を息子と思っているのですが、兄は奴隷として仕えていると思っていました。本当の奴隷と思えばまだ良いのですが、弟のための宴を開いている事自体に腹が立っていたのです。そんな兄に父は「子よ、あなたの弟は」と語ります。父は兄も弟も息子とと思っていましたが、兄は自分も弟も父の奴隷として見ていたのです。自分のはかりで相手を見てしまっているのです。しかし父はどんな時でも、無条件で「子」として見てくださっているのです。
兄はいつも一緒にいる父、幸いを見る事ができませんでした。父は兄といつも一緒と言われているのに解らず、弟の事はいつも遊女と一緒のダメなやつと思っているのです。父といつも一緒にいる事がどんなに幸いな事か、解らずにいたのです。父はいつもコンパッション(断腸)あわれに思っておられるのです。
父はあなたを奴隷として見ておられず、自らの子どもとして見ておられます。そして子ヤギ一匹くれない父ではなく、すべての財産をくださる父なのです。あれもない、これもないと思わず、いつも一緒にいてくださる父を仰ぎ見るなら、きっとあなたにとって大切なものが見えてくることでしょう。
幸いな時も、厳しい環境の時も共にいてくださる父なる神さまに感謝する週となりますように。
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