倉敷ホーリネスチャーチ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報など、テケテケが伝えしています(日本ホーリネス教団)。

[いけにえの精神か、あわれみの精神か]キリスト教礼拝メッセージ要約

2011年08月28日 | メッセージ
2011年8月28日、倉敷ホーリネスチャーチの礼拝メッセージ要約をアップいたします。

聖書:ルカによる福音書6章1~11節
抜粋:9:そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。

<要約>
主の御名を賛美します。

安息日についての記事です。ユダヤ教を信じる人たちにとって重要な日とされています。厳しいきまりに捕らわれている彼らは、何とかそれを全て守ろうと努力しますが、出来るはずはありません。ではどうするか・・・
先日の説教にありましたように、断食を行ったり、安息日に何もしないよう努めています。しかしそれが本当に神様の御心にかなう事なのでしょうか?

神様を信じる証としてユダヤ教を信じる人たちは、割礼を受け、安息日を守る事で神様のものとされていると思っています。では主イエスキリストを信じる私たちは、何をもって神様のものとされているのでしょう。
それは、主イエスを自分の救い主と確認し洗礼を受け、日曜日には主を拝する礼拝に出席する事です。神様のものとされている確認の意味としてもまず何を置いても礼拝に出席する事が大切なのです。

ユダヤ教を信じる彼らは、安息日を守らねばならないと堅く思っていました。ですから主の弟子達が穂を食べていた事に腹を立てたのです。
主はユダヤ教を信じるパリサイ人に対し、安息日に善を行う事と、悪を行う事とどちらが良いかと尋ね、手のなえた人を癒されました。安息日を守る事、すなわちいけにえの精神なのです。

主を信じる私たちは、あわれみの精神が与えられ、全てから解き放たれているのです。
神様はいけにえを求めず、あわれみを好まれるお方です。苦難をかかえていた一週間も、主のあわれみにより日曜日礼拝にて一人ひとりをリフレッシュし、元通りにしてくださっているのです。

○○であらねばならない!
ではなく、あわれみ深い主の恵みに与る事ができるなら幸いです。


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[信仰の遺産]キリスト教礼拝メッセージ要約

2011年08月21日 | メッセージ
2011年8月21日、倉敷ホーリネスチャーチの礼拝メッセージ要約をアップいたします。

聖書:創世記 25章1~11節
抜粋:11:アブラハムが死んだ後、神はその子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイのほとりに住んだ。

<要約>
主の御名を賛美します。

アブラハムの生涯を取り上げた説教も16回目となり、最終回を迎えました。
アブラハムは175歳で生涯を閉じる事となりました。信仰の父の遺産とは、多くの子どもの中から誰が受け継ぐのでしょうか? この箇所を3つの視点で見てまいります。

(1)多くの国民の父アブラハム
25:1 アブラハムはケトラを妻としました。息子イサクはリベカを妻とし、40歳で独立しています。
アブラハムはケトラの間に、子どもを6人もうけました。
私たちもアブラハムの子孫です。祝福を受けない事などないのです。

(2)神の約束の世継ぎイサク
25:5 アブラハムは所有するものをことごとくイサクに与えました。ケトラとの間に生まれた子ども達も、もちろん養っています。そして生きている間に、イサクと他の子どもたちを区別し、イサクを世継ぎとして分けたのです。死んだ後ではなく、今行動するアブラハムでした。

(3)アブラハムの信仰の遺産
25:7 アブラハムの生涯は175年でした。神の言に従い、75歳で示された場所に移住。それから100年が経ち、高齢となり、老人となり、平安な時を迎え、時が満ち、長寿を全うしたアブラハムでした。神の言こそ宝、それに従い続けた幸いなアブラハムでした。

ヘブル人への手紙11章 1節に、「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」また、ヘブル人への手紙11章 13節には、「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」と記されています。アブラハムもまだ見ていない事を望みつつ、確信しつつ歩んだ人生でした。そして神はその信仰を恥とされる事はなかったのです。

私たちもアブラハムの子孫です。神はその信仰を恥とされる事などなく、祝福をお与え続けておられます。これからも信仰の家、すなわち教会を通して神の言は語られ、神は受ける者に多くの恵みをご用意されているのです。


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[新しいぶどう酒は新しい皮袋に]キリスト教礼拝メッセージ要約

2011年08月07日 | メッセージ
2011年8月7日、倉敷ホーリネスチャーチの礼拝メッセージ要約をアップいたします。

聖書:ルカによる福音書5章33~39節
抜粋:38:新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。

<要約>
主の御名を賛美します。

ここでは、断食と婚礼という真逆な事が記されています。それぞれの特徴を見てまいります。

断食
暗い。後ろ向き。動作が停止。

婚礼
明るい。振る舞い前向き。動きがある。

パリサイ人、律法学者たちは、主イエスの弟子達が断食せず、飲み食いしているのが気にいらなかったのでしょう。当時、神様に対し罪を犯した事への自戒から断食を年に数回行っていたようです。しかし主イエスが皆と一緒にいる期間は限られており、今が振る舞いの時、婚礼の時でした。暗い後ろ向きの彼らには、理解出来なかったのでしょう。

主イエスと接する時、それこそ婚礼の時なのです。主に従い信じる者は、毎日振る舞いを受け、婚礼に出席しているのです。外見は素晴らしく見える人も、心の中は罪だらけで、古い考えでは日々断食が必要なのでしょう。

暗い後ろ向きの人生から、明るい前向きな人生へ変わりませんか?
そんなウマイ話しが、あるのです。
ただ、主イエスキリストを受け入れるだけです。そして神様に対して行う振る舞いが大切です。その振る舞いとは、礼拝です。教会へ行っていないけど心では信じています。という方が時々おられますが、それは自分に言い聞かせている事でしょう。行動が伴わないことは信仰とはいえないのではと私は思います。

最後に、説教題の「新しいぶどう酒」「新しい皮袋」ですが、ぶどう酒とはイエス様ご自身の事。そして皮袋は私たちです。古いままの自分には新しいぶどう酒(イエス様)をお迎えし入れる事はできません。古い自分を捨て、新しくされなくてはなりません。
では、どうすれば得る事ができるのか?
修行でしょうか? いえ、修行で得られる事は決してありません。心を開き主イエスをお迎えする。これこそが自らを新しく生まれ変えてくれるものなのです。


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