倉敷ホーリネスチャーチ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報など、テケテケが伝えしています(日本ホーリネス教団)。

【説教】「命の糧であるイエス」 2015/10/25

2015年10月25日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書7章7~12節
8:すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

主の御名を賛美します。

 人は生まれた時から生きるために乳を求めます。その後成長し、人はパンを求め魚を求めます。
パンについてはルカによる福音書11章に記されています。そこからルーサーキング牧師が有名な3つのパンの説教をされました。
1つは信仰のパン。創造主であり救い主である方を信じる事。
2つめは希望のパン。肌の色で差別されていた当時のアメリカ。しかし対話により差別のない事を願いました。
3つめは愛のパン。愛し愛される事を実感し生きる喜びとすること。
求め続ける事が大切です。
聖書には、子どもがパンを求めるのに、石を与える者などない。また魚を求めるのに、へびを与える者などない。と記されていますが、現実の日本はどうでしょう?
望まれて生まれた訳ではないにしろ、親の虐待、食事を与えない、絶えない暴力。まさにパンを求めているのに石を与える親がいるのです。
 原子力発電所も『石』であり『へび』です。簡単に地震で崩壊し、今なお放射能を出し続けています。またノーベル博士が発明したダイナマイト。これも使い方によって石となりました。そもそも山を砕くために作られたものですが、戦争に使用され大きな命を奪う石となってしまいました。
 また現在の日本では、国民を番号で管理する『マイナンバー』なるものが進んでいますが、いったい何がどう良いのか、人に漏れたらどうなるのか?
未だに説明や補償に関する事が発表されないまま、番号だけが無意味に配られています。国は人々に大切な魚を与えるつもりだったのでしょうが、実際はへびとなり、詐欺にあってしまった方も出始めました。一人ひとりを人とせず、全員まとめて管理する。まるで刑務所の囚人のように感じてしまいます。
 こんな邪悪な時代になってしまいましたが、全く揺るがず正しい事が一つだけあります。それは神ご自身であり、救い主イエスキリストです。人はパンだけで生きて行けるのではなく、福音により神様から命を預かり生かされているのです。
もし、仕事に家庭に孤独に悩みがある方がおられるなら、ぜひ主の門をたたいてください。たたく者に門はあけてもらえることでしょう。
国はまとめて管理しますが、主なる神はあなたを唯一のあなたとして見てくださっています。あなたはオンリーワンなのです。どうぞ求める者でありますように、どうぞ門をたたく者でありますように。

今週も主により、素晴らしい日々をお過ごしください。

テケテケ

【説教】「喜び祝う父」 2015/10/18

2015年10月18日 | メッセージ
【聖書】ルカによる福音書15章11~32節
32:しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。

主の御名を賛美します。

 本日のメッセージは『放蕩息子』の箇所からです。大きな放蕩、小さな放蕩、いろいろ思い当たる方もおられるかと思います。私はまさにこの聖書に記されているように、一度は自分から父を離れ放蕩に。そして数年後、父の元に帰る事ができた幸いな者です。さてあなたはここから何を受け取るのでしょうか?
この箇所から今日は3つの視点で見てまいります。 ※(父=神様)

(1)父から離れる弟息子
15:12 息子が相続する割合は、長男が3分の2、次男が3分の1だったそうです。その受け取る財産を父からもらい、自分から父を離れ家を出て行く弟でした。

(2)悲惨な状況に追い込まれる弟息子
15:13 家を出て幾日もたたないうちに、莫大な財産を使い果たした弟息子でした。女に貢いだのか、飲み遊んだのか、人に騙されたのかは記されていませんが、あっという間に乞食になってしまいました。身も心もズタズタです。食べる事もできず、ある人の豚を世話する仕事につきましたが、腹を満たす事はできず、豚のえさを食いつないで生きていました。誰も弟息子を助ける者などいませんでした。自分から家を出た弟息子ですが、「本心」に立ち返り父の元に帰る決心をし、生きる方向を180度変え家に帰りました。

(3)父に迎えられる弟息子
15:20 父(神様)は毎日毎日、弟息子の事を思い、帰りを待っていました。そこに遠くにいる弟息子を見つけると父から走りより、抱き、接吻して喜びました。そして最上の着物を着せ、家の家紋である指輪をはめ、息子として迎えたのでした。

 自ら神様から離れた人もおられるでしょう。 または、教会に行ってみたいけれど、聖書を勉強して恥をかかないようになったら行こう。 などと見当違いをされている方もいるでしょう。父はあなたの心の中におられ、どんな時でもあなたを息子、娘として迎えてくださるのです。
 世界に目を向けると、国を出たくないのにクーデターなどの外因で国を捨て、難民となってしまった方が多くおられます。まず父よ、あなたの迷える羊、難民に目を向けてくださいますように。あなたの御心のままにされますように。


今週も主により、素晴らしい日々をお過ごしください。

テケテケ

【説教】「一匹の羊を追い求める主イエス」 2015/10/11

2015年10月13日 | メッセージ
【説教】「一匹の羊を追い求める主イエス」 
4:あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。

主の御名を賛美します。

 本日は、メッセージを副牧師の正子師が語り、それを主任牧師の山脇望師が席で聞くという初めてのケースとなりました。これは望師が礼拝終了後、九州聖会ご奉仕のため大分県に即移動するためこうなりました。
聖書の箇所に入りますが、この場面は主の言葉を聞くため多くの人々が集まっているところです。主に集まった人は取税人や罪人などが多くいました。罪人たちと食事をしている主を見てパリサイ人たちが非難しています。この箇所から以下3つの視点で見てまいります。

(1)いなくなった一匹の羊
羊は群れの中で羊飼いによって命が守られています。もし群れからはぐれてしまったら命を落としてしまいます。
:ヨハネによる福音書3節に「 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。」 羊飼いは一匹一匹を知っていて、羊も羊飼いの声を知っており、他の声についていかないのです。しかし迷ってしまったら、一人ではどうしようもありません。私たちも一人では生きて行けません。また良い羊飼いなる主がいなければ人生を正しく歩む事はできないのです。

(2)いなくなった一匹の羊を探す羊飼い
一匹の羊を探すため、九十九匹を残して出かける羊飼い。野原にそのまま残すとオオカミなどに襲われかねませんから、恐らく厳重な柵の中に入れ探しに行ったのでしょう。九十九匹もいるから一匹いなくなっても良いか! などとは決して考えない羊飼いである主イエスなのです。

(3)いなくなった一匹の羊を探し喜ぶ羊飼い
羊飼いはやっとの思いでいなくなった羊を見つけ出しました。そして羊の前足と後ろ足を持ち、自分の肩に載せ家へ帰って行きました。羊は安心できる家へやっと帰れました。迷ってしまった羊を見つける事が出来、この上ない喜びに満たされる羊飼いでした。

 生活にもし迷っている方がおられるなら、あなたを探し続けている主イエスキリストがいる事を覚えておいて下さい。人が全員あなたを認めなくても主だけはどんな時でも探し続けられるのです。
 昨日、『図書館戦争』という映画を観ました。あやまった国の施策により、個人への検閲、自由意志、思想理念の迫害が起こり、国家総動員法にもにた国の過ちに反対する人々が戦うという映画です。私は物語としての映画とは思えず、近いうちに実際この日本で起こってしまうような気がしてなりません。今は指導者が間違った道を進んでいますが、どうか目が開かれまっとうな国のリーダーとして生き返りますよう祈ります。

今週も主により、素晴らしい日々をお過ごしください。

テケテケ

【説教】「豚は真珠をわからない」 2015/10/04

2015年10月07日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書7章6節
6:聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

主の御名を賛美します。

 本日は神を知るものと知らない者が表現されている箇所を見てまいります。聖なる物を犬に投げ与えたら、また豚に真珠を与えたらどうなるのか?

聖書が言う聖なるものとは正しくイエス様の事です。主を信じるあなたは、犬や豚と同じように、与えるとかみついたり、凶暴になり拒否したりしませんよね? と聖書は聞いています。新訳に放蕩息子が記されている場面があります。若いうちに親から財産を相続して家を出て、放蕩のあげく一文無しに。そして喰うに困り、豚が食べる豆で空腹を満たすありさま。豚になりさがった息子の姿です。息子は、奴隷としてでも使って頂けないかとの思いで家に帰ります。遠くから息子を確認した父(神)はかけより接吻し、新品の息子に合わせ作られた着物を着させ、息子の指の太さの指輪(家の証明)を与えました。
父(神)は、どんな事があろうとどんな時であろうと私たちを犬や豚のように扱う事はないのです。

しかし現実はどうでしょう? 一時的に燃えるような思いで神を賛美し、礼拝を守っていたのに、ちょっとした障害(試練ではない)や挫折があると神から離れてしまう人がいます。主により導かれたものを、肉の思いで拒否してしまったのです。もはや犬や豚になってしまったのです。

あのパウロも、目からウロコのようなものが落ち、目が開かれるまでは聖なるもの、大切なものを認めず、そればかりか見つけ次第獄に入れ弾圧を繰り返していました。神にかみつき、凶暴になっている豚だったのです。しかしパウロは主により本来の姿に変えられました。そう、誰でも信じるなら豚から人へと変わる事が出来るのです。

 ある国では、経済を優先するあまり、人の命より原子力を選んだり、過去の戦争から70年を過ぎた今、さらに戦争準備ともとれる法案を可決しようとしたり(違法な手続きでしたので無効です)もはや人ではなく、豚そのものになりさがりました。私たちは豚に国を任せているのではなく、人に任せているのです。
その国のリーダーまた、とりまく人々の目が開かれ、人となることが出来ますように祈ります。

今週も主により、素晴らしい日々をお過ごしください。

テケテケ