倉敷ホーリネスチャーチ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報など、テケテケが伝えしています(日本ホーリネス教団)。

[弱い者を受け入れる]キリスト教礼拝メッセージ要約

2010年08月29日 | メッセージ
2010年8月29日、倉敷ホーリネスチャーチの礼拝メッセージ『弱い者を受け入れる』のメッセージ要約をアップいたします。
聖書:ローマ人への手紙15章1~6節
抜粋:1:わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。

<要約>
主の御名を賛美します。

先週までに、偶像の神の前に捧げられ、その後市場で販売されている肉を食べるか食べないかの議論が教会内で起こっていました。ある者は、偶像に捧げられた物など食べてはならぬと言い、ある者はすべてを飲み込んだ信仰の上に食べると言い、両者に人と人との壁が出来ていました。パウロはその壁を取り去りたかったのです。
15:1に、強い者は・・・弱い者の弱さをになうべきだ、と記します。
になうとは、受け入れる事であり、食べる事です。信仰の弱い者の弱さを食べてなくす事が書かれています。

(1)弱さを持ち運ぶ強さ
信仰の強さは何で決まるのでしょうか?
それは『義』の強さで決まります。自分の判断や力に頼る人は、弱い者なのです。自分自身を解放できず、今までの経験から物事を判断してしまい、自分は正しく強いと勘違いしてしまうのです。強さとは、キリストにある義しかないのです。
強さは、私の弱さをキリストが変わって引き受けて下さったと信じる事から始まるのです。

(2)平和をもたらす強さ
隣人の徳を高めるために、益を図り喜ばす事。ここに平和があります。自分を高めさらに隣人を高める。これが信仰の強い者、平和をもたらす者なのです。

(3)信仰の強さは喜び
になう事によって、強い者へと変えられるのです。まさにお互いを聞き認めるシンフォニーのようなもので、共鳴しています。相手の喜びを自分の喜びとして受け入れる、これが大切なキーワードと思います。

私たちクリスチャンは、弱い者でした。が、主イエスキリストにより、私たちはになわれています。その恵みをまだ主を知らない方々にお伝えする事ができますように。
弱さを持ち運ぶ強い者とされ、平和と喜びをもたらす者とされますように。

今週もまだ、暑い日が続きますが、主にあり素晴らしい日をお過ごしください。


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[さばき合う事をやめよう]キリスト教礼拝メッセージ要約

2010年08月22日 | メッセージ
2010年8月22日、倉敷ホーリネスチャーチの礼拝メッセージ『さばき合う事をやめよう』のメッセージ要約をアップいたします。
聖書:ローマ人への手紙14章13~23節
抜粋:13:それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。

<要約>
主の御名を賛美します。

偶像の神に捧げられた肉を食べて良いかどうかで論争が起こっていました。みんな主イエスを信じているのに裁きあっていたのです。それを見てパウロは、裁きの原因となるものを前に置かないようにと語ります。
ヨチヨチ歩きの赤ん坊の前に、妨げとなるものを置かないのと同じようにと語っています。裁きとは、自分の結論を決め、それを相手がどうなのかを判断してしまう事です。

(1)自分を裁く
ここで登場する兄弟とは自分も含まれています。自分で自分を裁いてしまう人も多くおられます。つい他の立派に見えるクリスチャンと比べ、無意識に自分を裁いてしまうのです。自らつまずきの石を前に置き、最悪の場合、教会から離れて行ってしまうのです。

(2)他人を裁く
人の前につまずきの石を置き、その人を滅ぼしてしまいます。自らを裁くより、行ってはならない事だと私は思います。

(3)では何を前に置くか
神の国を自分の前にいつも置くように出来れば幸いです。義と平和と聖霊における喜びをぜひご自身の前に置いてください。つまずきの石を置かず、主を前に置くようにしてください。
義とはキリストの血によるもの。この義をご自身の前に置いている人は他の兄弟をづまずかせる事はありません。また今、主を信じていない人であっても、キリストの血により赦されています。どうぞ裁く前に、義を置いてくださいますように。神の国は平和です。私たちが神と敵していた時も、御子によって和解がなされたのです。

『人は敵をつくる。しかし神は隣人をつくる。』
そして喜びが前に置かれるのです。主により義とされ、平和を与えられ、喜びが前に置かれるのです。何と素晴らしい事でしょう。
小さな事でいがみ合ったり、つまずきの石を置かず、神の国をご自身の前に置く生活が出来ますように・・・
受け入れるのは、今です。

今週も、主にあり素晴らしい日をお過ごしください。


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[有益な者]キリスト教礼拝メッセージ要約

2010年08月15日 | メッセージ
主の御名を賛美します。

2010年8月15日、倉敷ホーリネスチャーチの礼拝メッセージ『有益な者』のメッセージ要約をアップいたします。
聖書:ピレモンへの手紙8~19節
抜粋:11:彼は以前は、あなたにとって無益な者であったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者になった。12:彼をあなたのもとに送りかえす。彼はわたしの心である。

<要約>
主の御名を賛美します。

本日、65回目の終戦記念日を迎えました。欲望のまま進んでしまった侵略でした。心から反省し、二度と繰り返さないよう私たち自身も肝に銘じ続けなければなりません。
本日の聖書箇所ピレモンは、手のひら書簡とか豆書簡と呼ばれている25節からなる短い書簡です。パウロが60才頃で、獄中から私書として書かれたものでした。
全体を見ると、挨拶、祈り、お願い、結びの挨拶からなっています。どのような私書だったのか3つのポイントから見てまいります。

(1)信仰と愛に満ちたピレモン
自己紹介で囚人(老囚)と自身を記すパウロ。ピレモンだったから記せたパウロの挨拶でした。ピレモンの他に数名登場しますが、アピアはピレモンの妻、アルピポは息子で、後に伝道者となる人でした。
愛と信仰について聞き及んでいるピレモンでした。パウロは祈る時いつも感謝し、多くの喜びそして慰めが与えられていました。

(2)有益な者とされたオネシモ
登場するオネシモはピレモン家の奴隷でしたが、ある時金品を盗み逃亡しました。そしてローマで見つけられパウロの元に連れて行かれました。もはやオネシモが弁解する事など赦されない状況です。パウロと出会ったオネシモは、主イエスキリストを信じ受け入れました。パウロにとって自分の子となったのです。パウロはピレモンの元にオネシモを送り返す事にし、自ら筆をとり記しました。そしてオネシモが犯した負債は自ら引き受ける事まで記しました。
この手紙の中に、主イエスが私たちの罪のために十字架にかかられた事を覚えます。その事により私たちは命を得ているのです。

(3)その後のオネシモ
アンテオケ教会のイグナティウスがエペソに宛てた手紙に、監督オネシモと記されています。オネシモは有益な監督として立てられていたのです。オネシモとピレモンの間に和解があったからこそ実現した事でした。

終戦記念の日に、この箇所を開く事ができ感謝です。過ちは二度と起こしてはなりません。しかし和解により、また主イエスにより無益な者が有益な者へと変えられたのです。戦争を肯定する事はあってはなりません。が、心から主イエスを受け入れるなら、オネシモのように過去の事が主により洗い流され、新しい者とされるのです。
人を愛し、国を愛し、世界を愛し続ける事ができますように。


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[栄光の富の中から]キリスト教礼拝メッセージ要約

2010年08月08日 | メッセージ
主の御名を賛美します。

2010年8月8日、倉敷ホーリネスチャーチの礼拝メッセージ『栄光の富の中から』のメッセージ要約をアップいたします。
聖書:ピリピ人への手紙4章14~23節
抜粋:19:わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。

<要約>
ピリピ人への手紙の講解説教も本日が最後となりました。
ピリピ教会の人たちは、パウロを祈りで、物質面で献身的に支え続けました。パウロは獄中でしたが、いつも喜びをもって主を讃美し続けていました。
この手紙の最初にパウロは神様の事を『完成してくださる』と記し、そして最後の節では『いっさいの必要を満たしてくださる神様』と全てに感謝しています。本日は以下二つの観点から見てまいります。

(1)かん難を共に
ピリピ教会が出来た時、パウロは投獄されてしまいます。ピリピ教会の人たちは最初からかん難を共にして来たのです。パウロを助ける働きが教会に生まれてきました。
コイノニア(交わり)がパウロの思いと一緒に働き、教会の思いが一致したのです。

(2)必要を満たしてくださる神様
物品を捧げた時、一時的には欠損します。が、神様はいく倍にもして報いてくださいます。。こう記しますと御利益の神様と勘違いされる方もおられるかも知れませんがそうではなく、天に宝を積む事となるのです。
4:19にパウロは神様の事を『わたしの神は』と記しています。遠くにいる神様ではなく、パウロと共におられる自分の神様と表現しています。祈りの中で、何となく抽象的な表現をしがちですが、パウロのように大胆に私の神、天のお父ちゃんと呼ぶ事ができれば幸いですね。
そしてその父は、栄光の富の中からいっさいを満たしてくださるのです。

祈り求めても報われない、神は私の声を聞いてくださらない。と思っている方も多いと思いますが、それは神様が今必要ないとされたいるのか、神の時ではないとされているのかではと思います。祈りは確実に神様に届いていますので、辛抱強く父を動かす祈りが必要かもしれません。
キリスト・イエスにつながる事により、父は必要を満たしてくださいます。その父の栄光のため神様におかえしする事が私たちに必要な事だと思います。
『アドナイエレ』天の父はいつでも私たちの祈りを聞き、必要を満たしてくださる神様なのです。

今週も主とともに、素晴らしい日をお過ごしください。


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[弱い人を受け入れる]キリスト教礼拝メッセージ要約

2010年08月01日 | メッセージ
2010年8月1日、倉敷ホーリネスチャーチの礼拝メッセージ『弱い人を受け入れる』のメッセージ要約をアップいたします。
聖書:ローマ人への手紙14章1~12節
抜粋:1:信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。

<要約>
主の御名を賛美します。

茶碗で一番大切な事は何でしょう? 作られた窯でしょうか? デザインや素材でしょうか? いえ、一番大切な事は、中が空っぽということです。

食べ物の事、聖日の事が記されています。弱い人は野菜ばかり食べるとあります。なぜ弱いと表現されているのでしょうか?
当時、肉の流通は偶像に供えられた肉が市場に並び、それを買って食べる習慣があったようです。その偶像に一時供えられた肉を食べるか食べないか、それが記されているのです。肉を食べないのは、信仰が弱いからだと言う人があり、またある人は受け入れる事ができないと言っています。週の初めの聖日も同じ事のようです。
14:1に、信仰の弱い人を受け入れなさい(もてなしなさい)とあります。主イエスがこの私を受け入れてくださったのだから、弱い人を受け入れ(もてなし)なさいと伝えています。きちんとした理由があって記されているのです。

マザーテレサにボランティアとして同行した青年がいました。口もきけず、道へ横たわっていた老人を施設に運び世話をします。老人は感謝しているのかどうなのか伝える事が出来ません。しかし涙をもって青年を伝える目がすべてを物語っていました。

ブドウ園で主人から雇われ働く僕が聖書に登場しています。ある僕は朝早くから終わりまで1デナリで契約しました。まだ人が足らないので、昼に追加しました。まだ足らないので終わりの少し前に追加しました。そして作業が終わり賃金を主人は払います。
結論は、朝早く働いた僕も、少しだけ働いた僕も同じ1デナリを受け取りました。朝早くから働いた僕は、「少ししか働かない者と同じでは納得できない」と主人を裁きます。しかし主人は自分のしたい様に行った事がなぜ悪いのか。と不平を言う僕に話します。
契約し働いた僕はいったいだれのものでしょう? そう主人、神様のものです。神様がどうされるか受け入れるしかないのです。人と比べて、あの人の方が良いとか、これだけ奉仕したのになど、心にいっぱいある暗いものを捨て、空っぽにする必要があるのです。
「では、早くから神様を信じた人も、亡くなる直前に信じた人も同じではないか!」と言われる方もおられると思います。結論は、そう同じです。が、決定的な事は、直前に自分の都合で信仰を作るなど出来ないと言う事です。直前の悔い改めも神は見られますが、そのような神がかりは人にはできません。

主のために生き、主のために死ぬ事。すべてを私たちは託されているのです。
最後の日、裁きがあっても私たちは主にかがみ、賛美を捧げる事が出来るのです。その日にビビる事など、必要ないのです。
時に、主のご計画に疑問を感じる事もあるでしょう。しかし人知を越えたご計画がそこにあると確信し、信じる事ができれば幸いです。
今週も、主にあり素晴らしい日をお過ごしください。


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