テケテケのキリストあれこれ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報などもお伝えしています(日本ホーリネス教団倉敷ホーリネスチャーチ)。

【聖書】マタイによる福音書7章24~29節 【説教】「聞いて行う幸い」 2020/6/28

2020年06月28日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書7章24~29節
【説教】「聞いて行う幸い」
 説教:小林光生師 要約:大元鉄也

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」
(マタイ7章24節)



旧約聖書で最大の預言者、説教者はモーセであろう。そのモーセはシナイ山で、十戒を神から受けた。イスラエルの民がどのように生きたらよいかが述べられている。
主イエスが山の上で語られてメッセージはそれに対応するもので、主イエスにある者の生き方が語られている。
その山上の説教のはじまりは、「心の貧しき者はさいわいである」で始まっている。終わりは、岩の上に建てられた家と、砂の上に建てられた家という「譬え」であった。
今日の鍵のことばとして、「聞いて、行う」ということばを取りあげてみたい。「聞く」ことと「行う」ということは切り離せない。
私たちが岩の上に家を建てるために、まず主のことばを「聞く」ことの大切さが言われている。主のみ旨を聞かないで、預言をしたり奇蹟を行う人は「砂の上に家を建てた人となってしまうのである。

次に「聞いて行うとはどういうことであろうか。ある所でこのような話が出た。
「聖書のことばを聞くのはそんなに難しくないが、でも実行するとなると大変だね」確かにそのように感じる。しかし、「聞くことと行うこと」について、ある説教者はこのように述べておられる。「主の言葉を聞いてはいるがまだ行えないというのではなくて、行っていないのは聞いてもいない、ということなのです」
ウーンとうなってしまった。主の約束を行えないのは実は、その約束を聞いていないということなのだろう。
イエス・キリストを信じ、信頼して、このお方のことばを聞いていくときに、耳をすませていくときに、主は聞くだけでなくて、それにともなう行いをも備えてくださるのである。
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【聖書】マタイによる福音書5章43~48節 【説教】「天の父の子となるため」 2020/6/21

2020年06月21日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書5章43~48節
【説教】「天の父の子となるため」
説教:小林和子師 要約:大元鉄也兄

45:こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

主の御名を讃美いたします。

 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。マタイ5章44,39節

 これらの主イエスの山上の説教は、私たちの生き方を教えてくれています。 しかしあまりにも水準(レベル)が高いのです。日本の文学界をリードしてきた、芥川龍之介、太宰治がこの聖書の箇所につまずいたところです。 「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」マタイ5章48節 

 この命令に至っては、「全くの実行不可能だ」という見方も多いのではないでしょうか。 まずこの主イエスの教えが、「山上の垂訓」であり、道徳教育としての命令であるならば、その通り「絵に描いたモチ」どころか大きな重荷となってしまいます。 まず確認したいこと、この山上の説教の最初が「心の貧しき者は幸い」ですというように、「祝福を告げる」ことばで始まっており、まさに「福音」です。福音とは、人間の努力ではできないことが、天の父のめぐみにより、また主イエスの十字架によるあがないによって、実現不可能のことができるようにされることです。 この所を解く一つの鍵のことばとして「完全な」という」翻訳を取り上げてみます。最近、相次いで新しく翻訳されたものもすべて「完全な者となりなさい」です。しかし、「完全な」というギリシャ語には「十分に成長した」という意味があるのです。神さまに対して「十分に成長した」はおかしいので、「完全」であるという翻訳となったのではないでしょうか。 しかし、昔の文語訳では次のようになっています。「汝らの天の父が全きが如く、汝らも全かれ」「全きもの」ということばが日本語として使われているかわかりませんが、ここでの意味をよくあらわしているのではないかと思います。 私たちの天のお父さんが、完全であるとは、私たちの必要に対して、十分を十分に知って答えて下さるお方であるのです。そして、私たちは、恵みによって、その天の父に似るものとされていくのです。

 出来ない事を認める事から始め、自分ではどうする事も出来ないが天の父に全てを委ね丸投げする信仰が与えられますよう祈る事ができる人は幸いです。

今週も主にあり、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】マタイによる福音書5章1~4節 【説教】「幸いなるかな心貧しき者」 2020/6/14 会堂での礼拝

2020年06月14日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書5章1~4節
【説教】「幸いなるかな心貧しき者」

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、 悲しんでいる人たちは、さいわいである」

 主イエスがこの山の上の説教でまずどのように語りはじめら れたのでしょうか。 イエス様が話されたのは「幸いですよ」「良かったね!」とい うことばでした。「だめですよ」ではなくて、どのような人が幸い な者として招かれているかを教えてくださっているのです。 どんな人々が幸いなのでしょうか。
 ここにある貧しさとはよく素直であるとか単純 シンプルであ るとかといわれます。自分の中には何にもないだから神様に 心から従い求める人なのです。 心の貧しい人々に、神さまは素晴らしい祝福の約束を備え てくださっています。「天国は彼らのものであるのです」とあり ます。 この天国はどのようなものであるかは、マタイの福音書の主 題ともなっていますので、これから学んでいきたいのですが、 この祝福は、幸いは、「心の貧しい人に与えられると主イエス は、語られたのです。

 今、私たちは、今まで積み上げてきたものが、ウイルス疫病 により一いっぺんに駄目にされているような状態にあります。 そのような中で、主イエスが教えてくださった「貧しさ」「心の謙 虚さ」を教えて頂き、主にある幸いを頂けるように祈っていきた く願うのです。

今週も主にあり、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】マタイによる福音書6章26~34節 【説教】「明日は明日が心配する」 2020/6/7 会堂礼拝再開

2020年06月07日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書6章26~34節
【説教】「明日は明日が心配する」

34:だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

主の御名を讃美いたします。

 分散礼拝の時は、「聖書における危機」というテーマでメッセージさせて頂いた。来週は小林和子牧師が、「幸いなるかなこころ貧しき」という題で分散礼拝前から準備していた説教があり、今回はその後の「神の国とその義とを求めない」というメッセージである。

 この主イエスが山の上で話された内容は、昔から「山上の垂訓」と呼ばれている。「垂訓」とは、「教えを垂れること。また、教訓を後世の人々に残すこと」という意味であるが、この主イエスのことばは、教訓ではなくて、メッセージそのものであると思う。主イエスが、この地上で弟子たちがまた、わたしたちがどのように毎日を過ごしたら良いかが語られているのである。

 「日常」においてどのように過ごすかは「非常時」にどのように生きるかにつながっているのであると思う。「食べること」「着ること」「住むこと」それに伴う経済生活はどうしても私たちに必要なものである。しかし、そのような中で私たちは「思いわずらって」しまうのである。主イエスは「空の鳥を見なさい」「野の花から学びなさい」と話されている。

 わたしたちにとって「まず、神の国とその義」とを求めることを命じておられる。衣食住をはじめ、私たちが必要なものが多くあるなかで、最初にしなければならないことがある。この順番がおかしくなってくると、思いわずらいが私たちをおそってくるのではないかと思う。今日ではなくて、明日を見てしまうのである。
 神の国を求めるとは、「神の恵みの支配」を信じて毎日の生活を歩むことである。私たちは、新型コロナウイルスの支配の中でいるような感じがするが、決してそうではない。主の祈りでも、「み国をきたらせたまえ」とあった。国と力と栄えが、ローマ帝国ではなくて、日本国に永遠にあるのではなく、神の恵みの支配にあることを信じていきたい。「その義とはどんなことか」旧約聖書では律法を行うことを通じての「義」を求めてきたのである。しかし人間の努力では救われないことが明らかになったのだ。また自分の正しさ、「義」を相手に押しつけることも、真の救いには至らない。

 イエス・キリストの十字架のゆるしのものさしを頂いていきたい。そうして、明日のいのちは自分たちのものではなくて主のものであるから、今日、主がわたしたちを「見ていてくださる」ことに感謝してあゆめるように祈っていきたいのである。

今週も主にあり、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】使徒行伝1章3~11節 【説教】「二つの約束」 2020/5/31 分散礼拝

2020年05月31日 | メッセージ
【聖書】使徒行伝1章3~11節
【説教】「二つの約束」

8: ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

主の御名を讃美いたします。

 あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおい でになるであろう」。 使徒行伝1 章11 節

 いつも礼拝で共に使徒信条を告白しています。その中では主イエスに対する信仰告白が一番長いのです。「三日目に死人 の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審 きたまわん。」今日はこの場面が登場します。 今日の聖書箇所は、復活された主イエスが弟子たちに約束を与えられて、天にのぼられた場面です。その所は、オリーブ 山です。主イエスが十字架に架かられる前に祈られたところです。(他の福音書ではゲツセマネ)

 復活された主イエスは弟子たちに「父の約束を待っていなさい」と言われたのです。弟子たちの関心は「その約束は、こ のローマ帝国に支配されている状態から解放されることですか」「それが今ですか」というものでした。 主イエスの答えは「イスラエルの回復の時は、神が決めておられることである。あなた方が決めることではない」という ものでした。
 復活の主イエスが弟子たちに、また私たちに与えられて約束は何であったでしょうか。それが、「聖霊を受けて、私の証 人(しょうにん)となる」ということです。証人とは、裁判でも使われますが、自分が見たことを、体験したことを明らか にする人です。「主は今、生きておられえる、わがうちにおられる」という賛美があります。 主イエスが今も共にいてくださり、主イエスの救いがどのようなものであるかを体験して、「証言する」のです。今日は、 ペンテコステ(ギリシャ語の50 に由来する)で教会の誕生日ともいわれる日です。復活祭(イースター)から50 日目の日 曜日で、元々は旧約聖書での収穫の祭りの日でありました。
 「霊」とはヘブル語で「息」という意味です。アダムが神によって「息が吹き込まれた」ように、私たちも主イエスのい のちの息を吹き込まれたものとして歩むものです。感謝します。

 もう一つの約束は、天をみつめている弟子たちに御使いが告げた約束です。それが、「あなた方が主イエスが天に上げ られるのを見たのと同じ<有様>でもう一度、主イエスが来られる」という約束です。 先週、「夏の甲子園の試合がなくなる」というニュースが入り、近くの高校の練習グランドを見ましたが、いつもは練 習の声が響いていのに、だれもいないという<有様>でした。<有様>とあります。そうです。見える形での、主イエス がもう一度来られるという約束です。主イエスの再臨は、見えない、シンボル的な預言ではないのです。 祈り 初代教会の挨拶が「マラナタ・主よ来たりませ」が合言葉であったように、私たちも聖霊に生かされて、主にお会 いする準備ができますようにしてください。

インターネット礼拝へのリンクです
https://www.youtube.com/watch?v=qlAFxmHluOw&feature=youtu.be

今週も主にあり、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】マルコによる福音書16章1~8節 【説教】「石はすでにころがしてあった」 2020/5/24 分散礼拝

2020年05月24日 | メッセージ
【聖書】マルコによる福音書16章1~8節
【説教】「石はすでにころがしてあった」

6: するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。

主の御名を讃美いたします。

 「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ 16 章8 節)

 キヤンベル・モルガンという説教者が「キリストの危機」という本の中で、イエスの生涯における危機を取り上げています。それは、誕生・
バプテスマ(洗礼)・サタンによる誘惑・山の上での変貌・十字架・復活・昇天」です。
今日の聖書箇所は、主イエスの「復活」場面で、主イエスの生涯での一番重要な出来事いう意味での「危機」の時であったのです。

 今日の聖書書箇所で登場するのは、マグダラのマリヤをはじめ三人の女性です。彼女たちの一番の心配は「だれが墓の石をころがして
くれるでしょう」というものでありました。遺体に香料を塗るためであったのです。
とが、このイースターの朝「石はすでにころがしてあった」のです。非常に大きな石でした。主イエスは私たちの初穂として復活され
たのです。

 分散礼拝が始まった時に、エルサレムにある主イエスの空の墓といわれる所の上に建てられた「聖墳墓教会」のことを話しました。私た
ちの教会、礼拝は、「空の墓の上」つまり「復活」という出来事の上に建てられているのです。この復活の主イエスは、教会だけでなくて、家
庭でも、ひとりで亡くなる時も共にいてくださるのです。これが福音なのです。
さてこの女性たちはどのように、このニュースに応答したでしょうか。「人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。」このマルコに
よる福音書は「恐ろしかった」で終わっていのです。ある牧師がこの所をこのように語っています。「死者の中から、主をよみがえらせること
が出来るのは、神のほかにないはずであります。それなら、復活は何よりも、その神の御業をおそれることから始まるのではないでしょう
か・・。」
 
 今、私たちは、新型コロナウイルスという「恐れ」の中にあります。マルコによる福音書では、この「恐れ」が福音にある「喜び」に変えられ
て、その拡散が始まっているのです。
9 節以下は、【 】カッコの中に入っています。ある聖書の小見出しには「結び」とあります。9 節以下の出来事は、初代教会がこの主イエ
スの復活とその「マリヤたち恐れが」どのように展開し「結び」を生んだかが書かれてあると言っていいでしょう。
先週、柵原で満八九歳で召天された方の納骨をしました。式の後で記念写真を撮りました。みんなマスクをしての姿でした。後で見たら
すぐに「ああ、あのコロナの時だ」と思い出すでしょう。家族も面会できないような最期でしたが、そのような中でも感謝な「結び」が生み出さ
れたのです。

(祈り)「石はころがしてあったのです」この復活の出来事が、「恐れ」から「喜び」のメッセージとなりますようにしてください。来週はペンテ
コステですが、共に集まって祈り礼拝することが出来ることを信じ待ち望ませてください。


インターネット礼拝へのリンクです
https://www.youtube.com/watch?v=OPl4K5VnvDw&feature=youtu.be

今週も主にあり、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】ルカによる福音書22章39~46節 【説教】「祈ることができる」 2020/5/17 テレ礼拝

2020年05月17日 | メッセージ
【聖書】ルカによる福音書22章39~46節
【説教】「祈ることができる」

42: 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。

主の御名を讃美いたします。

  「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22 章42 節)

 教会での集合礼拝ではなくて、分散礼拝になって「聖書の中での危機」というテーマで説教をさせて頂いています。
先々週は、主の祈りは普段の祈りだけでなくて、危機の祈りでもあることを見ました。この祈りは、主イエスが弟子たちにまた私たちに教えてくださった「主の祈り」です。
今日の聖書箇所は、イエス・キリストが十字架をすぐ前にした時に、主ご自身が祈られた「主の祈り」です。そういう意味では「危機の時の祈り」の続きとも言えます。それがゲッセマネでの主イエスの祈りです。
ルカによる福音書ではオリブ(オリーブ)山とありますが、そのふもとにあるゲッセマネであることが他の福音書でわかります。
ゲッセマネでの祈りは、「危機」の時の祈りでありましたが、「不断」の祈りがあってのものでした。「 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った」とあります。ルカ22章39節 このように、教会でも共に顔を合わせて礼拝できないという危機の時に、不断の礼拝のささげ方が問われるのではないでしょうか。

 この祈りで今日、注目したいところは、この祈りが「父よ」ではじまっていることです。私たちも不断の時と同時に危機の時に「お父さん、助けて!」と叫び、祈ることができるのです。感謝ですね。
ルカによる福音書では、調べてみたのですが、主イエスが「父よ」と祈られている場面4 回出てきます。そのうちの一つがこの祈りです。
主イエスは十字架の上も「父よ・・」というで叫ばれた、祈られたのです。「父よ、彼らをおゆるしください。」この祈りにより、私たちは十字架によるゆるしが与えられているのです。 「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」この祈りは、主イエスのこの地上の最期の祈りでした。私たちの最期にこの祈りが備えられているのです。

 このオリブ山での祈りの内容そのものはどのようなものでしょうか。
それが最初に書いた「父よ、みこころならば・・・」という祈りです。 それは、「ゆだねる」という祈りでした。わたしたちは、「暗やみの力(53節)にゆだねるか、神の御手にゆだねるしかないのです。主イエスを裏切ってしまったユダはまさにこの「暗やみの力に」にゆだねてしまったのです。
「ゆだねる」といっても「どうにでもなれ」というのではなくて、父なる神にゆだね、祈り、十字架への道を歩みはじめてくださったのです。

 私たちは、それぞれ違った所におかれていますが同じお方を「父よ」と祈ります。同じお父さんを持つもとされているのです。ですから私たちは、兄弟、姉妹とされて共に「私たちのお父さん」と祈り、礼拝できるのです。

(祈り)私たちの天の父よ。今この時私たちを、この日本を、世界を助けてください。悪よりお救いください。アーメン。

インターネット礼拝へのリンクです
https://www.youtube.com/watch?v=FfCz2bmd8c4&feature=youtu.be

今週も主にあり、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】出エジプト記14章10~14節 【説教】「エジプト脱出」 2020/5/10 分散礼拝

2020年05月10日 | メッセージ
【聖書】出エジプト記14章10~14節
【説教】「エジプト脱出」

13:モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。

主の御名を讃美いたします。

  モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。」 (出エジプト14 章13 節)

 今日の説教の聖書は旧約聖書の大きな危機の場面です。「後ろは追い掛けてくるパロの軍隊、前は紅海(別訳では葦の海)、もうだめだ」 イスラエルの民の叫び、うめきは「エジプトに戻りたい、墓場がないから私たちをこんな荒野に連れてきたのか」というものでありました。
それに対する、指導者モーセを通じての主なる神のことばが書かれてあります。
それが「主がなされる救いを見なさい」つまり、主がこれからなされる出来事を見なさいというものであったのです。
モーセと民は、それまでにエジプトにくだされた10 の災いを見たのです。その中の一つが「疫病」でした。そのような中で、エジプトのパロ(ファラオ)がモーセたちに言ったのです。「お前たちは、ここから出て行きなさい。主に礼拝でもなんでも行うがよい」

 「出エジプト」が出来事であったように、主イエス・キリストの十字架も復活の、私たちの歴史の中での「出来事」であったのです。この出来事を私たちは見て体験することができるのです。罪というすべての人の生活の中からの救いがどのようなものであるかを私たちが体験してそして見せるのです。

 先週紹介した、カミュ著「ペスト」という本の中で、ペスト流行という中での司祭の説教が登場します。出エジプト記に出てくる疫病を引用して、「心おごれる者どもへの神の刑罰だ」というような話しをするのです。
しかし、ある少年が登場し、この少年の死を通じてでしょう、最後の方では話しは変わってきます。「ペストのもたらした光景を解釈しようとしてはならぬ。この不条理のなかでこそ、神を信ぜざるをえないことを見た。」というような話しが出てきました。

 イスラエルの民は、どのようなことを見て、体験したでしょうか。
モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。14 章21、22
紅海(葦の海)が二つに分かれるのを見つつ、エジプト脱出を経験したのでした。 そうして15 章では「主にむかってわたしは歌おう、彼は輝かしくも勝ちを得られた、」とモーセとイスラエルの人々に賛美が与えられたのです。
初代教会はローマ帝国の中で迫害の中にありました。そのような時にキリスト者は天然痘と推定される疫病により見捨てられた多くの人々と共に歩んだのです。そうしてキリスト信仰が広まり、皇帝コンスタンティヌスによってキリスト教が公認される事となったのです。

(祈り)私たちの天の父よ。今この時私たちを、この日本を、世界を助けてください。悪よりお救いください。アーメン。

インターネット礼拝へのリンクです
https://www.youtube.com/watch?v=VDCbmj85_Cs&feature=youtu.be

今週も主にあり、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】マタイによる福音書6章9~13節 【説教】「試みに合わせず、悪よりお救いください」 2020/5/3 インターネット礼拝

2020年05月03日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書6章9~13節
【説教】「試みに合わせず、悪よりお救いください」

13: わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。

主の御名を讃美いたします。

 このウイルス危機にあるこの時に主の祈りからメッセージをさせて頂きます。
主の祈りは、毎週の礼拝や様々な時に祈られま す。しかし、「危機の時」での祈りでもあるのです。 まず最初に、主の祈りは「天にいますわれらの父よ」との呼びかけに始まっています。その後に、「御名があがめられますよう に」に始まり、父なる神への祈りがささげられています。その後に「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」と、私た ちが必要としていることへの祈りがささげられています。 その私たちが必要としている最後に、この「試みに合わせず・・・」が祈られるのです。 「国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなれ」という祈りは、福音書では出てきません。これは、主イエスが、弟子たちに 教えられた主の祈りと共に、初代教会で共にささげられた父なる神への信仰告白であり、祈りでしょう。 この主の祈りが、初代教会で祈られるとき、ローマ帝国が教会を迫害していたのです。そのような中で、国と力と栄えは、ローマ 帝国にではなくて、父なる神の恵みの支配にあるのですと告白したのです。いわば、命がけの、信仰告白、祈りであったのではな いでしょうか。

 私たちも新型コロナ・ウイルスの支配に、この国があるように思われるときにこそ、父なる神さまへの信頼の祈りが与 えられるように祈りましょう。 「試みに合わせず、悪よりお救いください」という祈りはどのような祈りでしょうか。それは、「父なる神さま、私たちを助けて下さ い」という祈りです。「自分は大丈夫だ」ではないのです。 私たちをダメにしてしまう試み(誘惑)があるのです。また私たちをダメにしてしまう悪に取り囲まれているのです。 口語訳聖書では「悪しき者からお救いください」ですが、「悪よりお救いください」というなっている翻訳があります。 この「悪しき者」は他の人から受ける私たちをダメにしてしまうことばや行動が心に浮かびます。このコロナ危機の時も、ひどいこ とばがあふれています。 それと同時に自分自身の中にも自分や人をダメにしてしまう「悪」そのものがあるのです。フランスの作家でカミュという人が書い た「ペスト」という本を読んでいます。その中で「だれでもめいめいのうちにペストをもっているんだ。誰一人、まったくこの世に誰一 人、その病毒を免れているものはないからだ。」とあります。 私たちはこのような危機の時にこそ、生活の中でこの主の祈りを祈りましょう。
(祈り) 私たちの天の父よ。今この時私たちを、この日本を、世界を助けてください。悪よりお救いください。

インターネット礼拝へのリンクです
https://www.youtube.com/watch?v=EpR5w6r3wks&feature=youtu.be

今週も主にあり、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】創世記22章1~8節 【説教】「主が備えてくださる」 2020/4/26 インターネット礼拝

2020年04月26日 | メッセージ
【聖書】創世記22章1~8節
【説教】「主が備えてくださる」

8: アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。

主の御名を讃美します。

 『アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう。』
(創世記 22 章 8 節)

 この分散礼拝の時、聖書の中での「危機」についてメッセージをさせて頂きたい。 今日は、アブラハムがイサクを献げた場面で、「礼拝」が主題となります。 アブラハム老夫婦の家庭に息子イサクが与えられたのです。「イサク」とは「笑う」という言葉に由来する名前であり、その家庭 では笑いがいっぱいであったでしょう。
  そのような時に神はアブラハムに「あなたの大切な子、約束の子を献げなさい」と命じられたのです。アブラハムの家庭にとっ て「危機」であったのです。「危機」とは英語では「クライシス」です。これは、「危ない時」という意味と共に「重大な時」という意味 があります。
「お父さん、火とたきぎはありますが、神さまにささげる小羊はどこにありますか」
「子よ、神さまが準備してくださるのだよ」この場面はまさに「ドラマ」そのものです。

  アブラハムがイサクを「燔祭」(全焼のいけにえ)として献げようとしたときに、「子どもに手をかけてはならない。「あなたが神を 恐れるものであることをわたしは今知った」そうして、うしろのやぶに角を掛けている、雄牛を神は備えてくださったのです。 神がアブラハムの信仰を「今、知った」とありますが、この時にアブラハムもその息子イサクも「生ける神を礼拝する」ことがどの ようであったかを知ったのではないでしょうか。それは、「礼拝とは、自分が神さまから預かっている最も大切なものを神さまにお 返しすること」ということです。
 私たちが与えられている、いのち、健康、時間、お金、家族も私たちが神さまから預かっているものです。それを神さまにお返 しするのです。その時に、神さまは私たちに必要なものを備えてくださるのです。感謝です。 イサクはこの出来事の後自立の道を歩んでいるようです。「主が備えてくださる」ということを経験する「危機的」な時となったの です。また信仰の継承の時であったのではないでしょうか。 アブラハムがイサクを献げた山は、後にイエス・キリストが十字架にかかり、復活してくださったエルサレムです。神は御子イエ ス・キリストを献げてくださり、礼拝の道を備えてくださったのです。 祈り 今私たちは、危機的な時にあります。この時に分散ではありますが、礼拝をささげて、神のために、家族のために、日 本、世界のために祈り、働くことができるようにしてください。

インターネット礼拝へのリンクです
https://www.youtube.com/watch?v=9e2US7n7PmM&feature=youtu.be

今週も主にあり、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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