テケテケのキリストあれこれ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報などもお伝えしています(日本ホーリネス教団倉敷ホーリネスチャーチ)。

【聖書】マタイによる福音書26章6~13節 【説教】「何という無駄遣い」」 2021/4/11 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年04月11日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書26章6~13節
【説教】「何という無駄遣い」」

9: それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。

主の御名を讃美いたします。

 主イエスが十字架に架かられるためにエルサレムに入場されるとき、「ロバの子」に乗って平和の王として行進されました。神殿を見て弟子たちが「なんて、すごい建物でしょう」と叫んだ後に主は、エルサレムの神殿崩壊と世の終わりについての預言をされました。一つひとつの出来事に続いて、その出来事の意味が明らかにされています。
 マタイ 26章で登場するのは「ひとりの女がイエスの頭に高価な香油を注ぎかけた」というものです。これは、十字架への歩みを指し示すものとなり、ヨハネによる福音書によれば、この女性はラザロの姉妹のマリヤですが、マタイは名前を記していません。この香油は、ナルドの香油というブランド品で、1 年分の給料の価値があるものでした。弟子たちは、「なんのためにこんなむだ使(づかい)をするのか。」と叫びました。(口語訳聖書)共同訳では「無駄遣い」と翻訳されています。日本語としては「無駄遣い」の方が良くわかりそうです。

 主イエスは、この地上に何のために「遣わされて」きて、罪なきメシアが、十字架にかかりすべての罪を負い死んでしまいます。この十字架の死は、人間の計算では世界では、無駄死にとなるかも知れませんが、この無駄遣いとも思えるこの「油注ぎ」を主イエスは何と言われたのでしょうか。「この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。」マタイ26:12

 十字架前の主イエスに、尊い油を注ぐとは、この時を除いてだれも二度とくり返すことのできないことした。メシアとは「油そそがれた者」という意味ですが、この女性の行いが、メシアイエスの十字架の<記念>となったのです。

 聖餐(せいさん)も無駄死にとも思える十字架が実に私たちへの尊い血の注ぎであったことを思い起こさせる<記念>でなのです。

 新型コロナウィルスの感染第四波が来ています。どうぞ今以上お気をつけください。

テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】マタイによる福音書25章1~12節 【説教】「花婿を迎えに出なさい」

2021年04月04日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書25章1~12節
【説教】「花婿を迎えに出なさい」

1: そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。

主の御名を讃美いたします。
イースターおめでとうございます。
今年は、イースターの特別な行事は出来ませんが「イースターおめでとうございます。」と心より挨拶をしたいと思います。それはどんな状況の中にあっても復活の主イエスが共にいてくださるからです。

 今日の聖書箇所は、復活の主がもう一度こられるという「再臨」についての主イエスの譬えです。再臨の主イエスを待つ姿が、花婿を出迎える 10 人の娘たちに譬えられています。
花婿がなかなか戻って来ない、そのうちに暗くなり何と夜中になってしまいました。これは、初代教会の人たちが「主イエスは自分たちが生きている間に来られるのではないか」と思っていましたが、なかなか来られないという状況と似ているのです。夜中に帰ってきた花婿を迎えるために、ともしびを準備するのですが、賢い娘たちはともしびと共に油を用意してありましたが、愚かな娘たちは、準備していなかったのです。

 ここで「どうして?」と思ってしまうところがあります。「油をわけてください」という娘たちに対して断りのことばが出てきたいます。これは人間には、人に分けてあけられるものと、そうでないものがあるということではないかと思います。また最後にこう書かれています。「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」マタイ25章13 節

 このたとえ話では賢い娘たちも、愚かな娘たちも眠ってしまっています。では「目をさましている」とはどういうことでしょうか?

 黙示録に「裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」とあります。黙示録16 章15 節

「目をさましている」とは救いの衣を着せて頂き、準備していることです。また祈りと結びついて書かれていることが多いようです。

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テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】マタイによる福音書24章3~14節 【説教】「エルサレムと世の終わりの預言」

2021年03月28日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書24章3~14節
【説教】「エルサレムと世の終わりの預言」

14: そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

主の御名を讃美いたします。
 マタイによる福音書には、5 つの説教集があります。
今日はその最 後で、主イエスが弟子たちの質問に答える形で始まっている箇所です。十 字架にかかられる直前の説教でもあり、 当時ヘロデ大王にはじまった立派な神殿をみて、弟子の一人が 「何と立派な建物でしょうか」と感嘆の声を上げたシーンです。 主イエスは、この神殿の崩壊を預言されました。その時に、弟子た ちが3つの質問をしたのです。

「最初は、いつエルサレムの神殿の崩壊がおきるのですか?」 漁師など田舎出身の弟子たちが多かったで、エレサレムの神殿 はまばゆいほどの輝きであったことでしょう。しかし、「その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」と預言されました。このエルサレムの神殿崩壊は、まもなく紀元後 70 年に実現してしています。

2 つ目の主題は、「あ な た が、再 び こ ら れ る 再 臨 の 時 は い つ で す か」というものであす。

3つ目の主題もこの主イエスの再臨と深く 結びついています。 3 つ目の主題は「世の 終わ り に は ど ん な 前兆 が あ り ま す か」とい うものであす。これに対する主イエスの答えは、次の通りでした。

1)「にせキリストの出現」(4、5 節)

2)「戦争と戦争のうわさ」(6、7 節前半)

3)「ききん」(7 節後 半)

4)「地震」(7 節後 半)

5)「迫害」(9 節)

6)「背教と腐敗」(10~12 節)

7)「全世界に福音が宣教される」(14 節)

 このような中で「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と主イエス は約束されました。「最後まで耐え忍ぶ」ということはどういくことでしょうか?
これからも主イエスからのメッセージを受けていきたいものです。

 新型コロナウィルスの感染第四波が来ています。どうぞ今以上お気をつけください。

テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】マタイによる福音書23章37~39節 【説教】「ああ、エルサレム、エルサレム」 2021/3/21 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年03月21日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書23章37~39節
【説教】「ああ、エルサレム、エルサレム」

37: ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった

主の御名を讃美いたします。
 今日の聖書箇所では、主イエスの 7 つの嘆き、警告です。十字架につけようとしている律法学者たちへもので、「わざわいなるかな」(新共同訳では「不幸だ」)で始まっていて、山上の説教での 8 つの「幸いである」のと対照的です。

 今回は、そのうちで一つだけ「ささげもの」についての箇所です。特にハーブのささげものが書かれているので、興味深い。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいです。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならなりません。(マタイ 23:23)
 はっかとは、ケーキなどの上にあるミントで、クミンもカレー料理などでおなじみで、当時も貴重なささげものであったようです。「しかし、<公平とあわれみ>という内側の香りがささられていないではないか」という警告のことばです。
ここで繰り返して指摘されているのが、<偽善>ということばです。偽善とは、外側は美しく見えるが、内側はひどい臭いがするようなことを意味します。これは、わたしたちへの警告ともなりますが、どうしたらいいのでしょうか。 それが、最期にでてくる主イエスの叫びの祈りです。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。」(マタイ 23:37)

 めんどりは、にわとりであると言われています。ひなにとっているべきところは、お母さんの翼のもとにある安全な場所です。わたしたちのいるべきところは、主の約束を頂き、祝福の祈りと宣言で終わる礼拝の場、教会なのです。


テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】マタイによる福音書22章23~33節 【説教】「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」 2021/3/14 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年03月14日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書22章23~33節
【説教】「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」

32: 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。

主の御名を讃美いたします。

 今日の聖書箇所では、十字架を前にして主イエスと、色々な当時の指導者との「質問と答え」が書かれています。

 最初に登場するのが、パリサイ人ですが、ヘロデ党という政治による解放と救いを求める人たちが質問をしました。「国に税金を納めるべきでしょうか」という質問でした。「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。これが、主イエスの答えでした。
 次に登場するのは、裕福でいわば「お金による解放と救いを求めていたサドカイ人でした。彼らは「復活はない」と信じていたので、多くの人と結婚した女の人は天国で「だれの奥さんになるのですか」という質問をしました。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。これが主イエスの答えでした。
「神はアブラハム、イサク、ヤコブの神であった」ではなく、今も生きて、イエス・キリストを通じて、復活の望みを与えてくださるお方なのです。パリサイ人がまた登場し、彼らは聖書の律法を通じての救いを求めて来た人々でありました。パウロもパリサイ人で、彼らの質問は「律法の中で何が一番大切なのですか。」というものでした。
「神を愛しなさい。また「自分を愛するように隣人を愛しなさい」が主イエスの答えでした。

 最後に、主イエスは反対に質問をされました。それが「あなたがたは、メシヤとしての私をどう思うか」というものでありました。マタイは、系図のはじめで主イエスを「アブラハムの子であるダビデの子、イエスキリスト」と紹介しました。キリストは系図では「ダビデの子」として、苦しみの歴史の中で生まれてくださった。しかも「ダビデや私たちの主」として十字架にかかりよみがえってくださったのです。
ハレルヤ!

テケテケ
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【聖書】マタイによる福音書21章33~42節 【説教】「私たちの目には不思議なこと」 2021/3/7 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年03月07日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書21章33~42節
【説教】「私たちの目には不思議なこと」

42:イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。

主の御名を讃美いたします。
 十字架を前にして主イエスは、律法学者やパリサイ人に対して警 告とも言える3つの譬えを話されました。

 一つはある人が「子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ」と息 子に願ったが、片方は「行く」と言ったが行かなかった。片方は「行 かない」と言ったが、心を入れ替えて働きに行ったというものです。 「心を入れ替えなさい」という悔い改めへのメッセージです。

 二つ目はぶどう園の主人、英語でいえばオー ナーが、ぶどう畑を農夫たちに貸して、旅に出かけたという譬えです。この譬えでは、普通ありえないことが記されています。

 収穫の時期になって、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを 農夫のところへ送ったのですが、その農夫たちは、その僕たちをつかまえ て、殺してしまいます。別の僕たち送りましたが殺されてします。そうして 最後には何と自分の子どもを遣わすのです。

 これは、私たちの世界では考えられない、主イエスがこの地上に 遣わされて、十字架で死をとげる。この十字架を通じて、以下の旧 約聖書の約束が実現するのだ。 『家造 り ら の 捨て た 石 が 隅 の か し ら 石 に な っ た。こ れ は 主 が な さ れ た こ と で、 わ た し た ち の 目 に は 不 思議 に 見 え る』。 (マ タイ 21 章 42 節)

 「隅のかしら石」は「隅の親石」「礎の石」「要の石」とも翻訳されて います。十字架と復活は、家にとってなくてはならないも「親石」となるのです。これは、警告であると共に「招き」でもあります。

 三つ目の譬えは、一人の王が王子のために結婚の祝宴に招か れた人たちが描かれています。ここで注目したいことは、この宴に出 席するための「礼服」です。すべての人が招かれていますが、十字 架によるあがないの服が必要なのです。

テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】マタイによる福音書21章12~17節 【説教】「私の家は祈りの家」 2021/2/28 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年02月28日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書21章12~17節
【説教】「私の家は祈りの家」

13: そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

主の御名を讃美いたします。

 主イエスがエルサレムに子ロバに乗って入城され、十字架に向 かっての 一週間が始まりました。そのような時のエルサレムの人々はど のような信仰生活を送っていたのでしょうか?
 まず神殿での礼拝のあり方が問われています。この時代の神殿 は、あのベツレヘム周辺の幼児を殺したヘロデ大王によって大改 修されており、そこには今までになかった「異邦人の庭」がありました。そこは、異邦人が来て礼拝をささげるところであったのに、そこ が、両替などがなされて<商売>するところとなっていたのでした。

 柔和のしるしとしての子ろばに乗って、平和の王としてエルサレ ム入城された主イエスは、ここでは、怒り、「両替人 ども の 屋台 を・・・ ガ ラ ガ ラ 蹴倒(け り た お)し た」(東北の ケ セ ン語訳)
そうして『わたしの家は、祈の家ととなえられるべきである』と言わ れた。これは、旧約聖書のイザヤ書からの引用であり、本文を引用 すると「わ た し は 彼 ら を、わ た し の 聖な る 山 に 連れ て行き、わ た し の 祈 り の 家で 彼 ら を 楽し ま せ る。彼 ら の 全焼 の い け に え や そ の 他 の い け に え は、わ た し の 祭壇の 上で 受 け 入れ ら れ る。わ た し の 家は、 す べ て の 民の 祈り の 家と 呼 ば れ る か ら だ。」(56 章7 節 新改訳)

 ここに、<すべての民の>とある。私たちが、求める信仰生活の あり方がしめされているのではないでしょうか。 このエルサレム神殿は滅びしまいますが、主イエスは、すべての民の 救いのために「全焼のいけにえ」となってくださったのが主の十字架なので、すべての民への招きであるのです。ここでマタイが強調しているのは、 当時差別されていた人たち、また軽んじられていた子どもたちが共 に、喜び、祈り、賛美することである。そう伝えたかったのではと思います。

テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】マタイによる福音書21章1~11節 【説教】「「メシヤとしてのエルサレム入城」 2021/2/21

2021年02月21日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書21章1~11節
【説教】「「メシヤとしてのエルサレム入城」

9: そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。

主の御名を讃美いたします。

 ある青年がキリスト信仰をもって間もない時に、教会学校で話しをしました。主イエスが子ロバに乗って、エルサレムに入られた場面で「主イエスのエルサレム<入場>」と書いたそうです。すると、年配の女性の伝道師が後で次のように教えてくれたそうです。「<入城>というのは、王様が城に入ることを意味する言葉です。私共のような庶民がお城に入っても入城とは言いません。入城とは王様が城に入ること。それによって、城の主人が変わる。それが入城です・・・」と。
 主イエスがエルサレム「子ロバ」に乗って<入城>されたのは、旧約聖書の約束の実現で、主イエスが「柔和の王」であられることが明らかにされたのです。
「見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。」(ゼカリヤ 9:9 後半)

「戦車」ではなく、また「軍馬」でもないのです。
この時、エルサレムは「過ぎ越しの祭り」の時で、「およそ200万人の人々がエルサレムに集まっていたであろう。」と推察されます。人々はどのように主イエスは迎えたのでしょうか?

 戸惑いと混乱がありましたが、その中で、主イエスを「王」として迎える人々がいました。まず、「自分たちの上着を道に敷き、王であられるメシヤを迎えました。そうして「ダビデの子に、ホサナ」と叫んで主イエスをお迎えしたのです。ホサナとは、「今救い給え」という意味です。この詩篇118篇25節からの引用で、王としてのメシヤ預言です。

 最初に紹介した青年は、現在牧師となっておられます。キリスト信仰を持つとは主イエスを私たちの王としてのキリストを迎え入れて生活することではないでしょうか。

テケテケ

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【聖書】マタイによる福音書20章20~28節 【説教】「十字架なしの冠なし」 2021/2/14 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年02月14日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書20章20~28節
【説教】「十字架なしの冠なし」

16: このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

主の御名を讃美いたします。
 
 主イエスがガリラヤでの宣教からエルサレムへの旅路の出来事の3回目で、今日は「十字架なし冠なし」という説教題でのメッセージです。

 まず主イエスは十字架への予告をはっきりとされておられます。ユダヤの最高議会に引き渡され、 死刑の判決を受け、<十字架につけられる>と具体的に話されました。「その時」、ゼベダイの子たち(ヤコブとヨハネ)の母が登場しています。
「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」「右大臣、左大臣」してください」という願いのようです。「教育ママ」というか「出しゃばりママ」という感じでしょうか。このような、ランキングづけとうか、格付けをしたがるのはこのお母さん(サロメと推察されます)だけではないでしょう。
これを聞いた他の弟子たちも「十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。」とあります。

 テレビの「プレバト」という番組の中で、芸能人が歌う(詠う))俳句に、「名人とか、有段者、才能なし」とかランキングづけされています。これはこれで面白いのですが、ここでランクづけする夏井いつきさんのエッセイを読んだことがあります。「夫はクリスチャンで、夫の両親の葬儀に出席し、キリスト信仰での葬儀に感銘を受けました」ということが書かれてありました。葬儀でも歌われる賛美歌は、「十字架を通じての冠」を歌い賛美するもので、ランキングの対象ではありません。
「あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕(しもべ)とならねばならない。」(マルコ20章27節)

「仕えるしもべ」としてのイエス・キリストの生き方が、十字架を前にして示されているのです。


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【聖書】マタイによる福音書20章1~16節 【説教】「神が与える恵みの報酬」 2021/2/7 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年02月07日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書20章1~16節
【説教】「神が与える恵みの報酬」

16: このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。

主の御名を讃美いたします。

 主イエスが、ガリラヤでの宣教を終えて、エルサレムへの旅路の中での出来事の続きです。

 主イエスの弟子たちは、「わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。と質問しました。天国での報酬というか、報いを願っているのです。そうして、主のために従う者にこの地上の祝福と永遠の生命を約束されたのです。その後で「なぞ」のことばを発せられたのです。
「しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」(マタイ 19 章30 節)

 神が与える報酬は、人間が考えるものとは違うのです。まさに「常識はずれ」ものであると表現できるかもしれません。それが、今日の聖書箇所のマタイ 20 章で、「ぶどう園の労働者のたとえ」です。このたとえでぶどう園の主人は、朝早く雇われた者、9時頃雇、12時頃、3時頃、そして最後の夕方の5時頃雇われた者にも一日分の報酬1 タラントを与えたのです。

 最初人から順番に「ご苦労さん」と言って渡していたら問題なかったでしょう。しかし、最後に働いた人から、報酬を配ったのでした。朝から働いた人は、「ほとんど働かなかった人が 1 タラントもらったか、自分はもっともらえるかな」と思ったのです。そうして主人に文句をいったのです。その時にぶどう園の主人は「わたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」と答えます。マタイ 20 章 15 節

この「気前がいい」ということばは、他の所では「良い、優良な、幸福な、善い」ということばです。
これが主イエスを通じて私たちにも与えられている「祝福・恵みの報酬」なのです。


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※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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